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御八つ、お三時、三時ですよ

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 こうしてスパゲッティ・ナポリタンを初めて体験してからの僕が、なにかと言えば店でナポリタンを食べる子供になったかというと、そんなことはなかった。ナポリタンを作ってくれるよう、母親に頼む子供にもならなかった。なぜなら、この時代には、うどん玉というものがあったからだ。

 うどん玉とは、茹でたうどんを太くて長い箸で一人前ほどの量を適当につかみ上げておおまかに丸め、玉のような形にしたものだ。細い割り竹やあしなどで平らに編んだというものがあり、これを木製のテーブルのような台の上に広げ、その上にうどん玉はひとかたまりずつ、直接にならべて売られていた。ひとつの玉は一人前なのだが、それよりもやや少ない量だったという記憶がある。子供の僕はある日のこと、このうどん玉というものを発見し、それ以来それは僕の好物となった。楽しく食べるためのいろんな工夫をして遊ぶ素材として、うどん玉はたいそう優れた素材だった。もっとも手をかけずにうどん玉を食べる方法は、醬油をすこしだけ垂らすようにかけて、そのまま食べることだった。

 食料品店でうどん玉を買い求めると、新聞紙の一ページを四枚に切ったものの一枚を、店のおばさんが太い指先でくるっと三角錐にし、そこに一人前のうどん玉を入れ、三角錐の底辺をひょいと折りたたんで、彼女は手渡してくれるのだった。このような新聞紙は、さまざまな食料品をごく仮に包むための必需品として、はかりのかたわらに常に用意されていた。うどん玉を六個も買うと、おばさんは切らないままの新聞紙一枚に、くるんでくれた。こうして買って来たうどん玉を皿に移し、ほんの少しだけ醬油をかけて食べると、うどん玉とはなにか、そしてそれを食べている自分とはなになのか、両者の本質がよくわかった。包まれていた新聞の活字が、うどん玉の白く細い曲面に逆版で転写されていたりした。

 ほんの少しだけの醬油で食べるうどん玉はけっして悪くなかったが、素材として工夫の余地は大きく、工夫のための材料や時間があれば、工夫してみるほうが楽しかった。うどん玉を相手に、十五歳になる前の僕は、いろんなことができる少年となった。うどん玉をいつも売っている店は、自宅の近所に何軒かあった。あのような店をなんと呼べばいいものか。なにも考えずに、食料品店、と包括的に言っておくならそれでもいい。しかし、日本が一九五〇年代のなかばにさしかかろうとしていたあの時代にあって、庶民の日常にとって食料品とはなにであったかを思うと、食料品店というような言いかたでは、とうてい表現しきれないものが多く残る。

 店の正面とそれが面している道とのあいだに、両者を仕切るものはなにもなかったように僕は記憶している。店の間口は、夏でも冬でも、端から端まで開けっ放しだった。西日がことのほか強く射して来るなら、よしを立てかけてそれをさえぎっただろう。雪の降りしきる日には、間口の両側にガラス戸を一枚くらいずつは、敷居に立てたことだろう。しかし基本的には店は開けっ放しで、棚は店の両側そして奥の壁にあるだけで、商品を陳列するためのスペースの大部分は、大人の膝を少し越えるほどの高さの台の上だった。ここに葦簾を敷いたりの子を置いたりしてその上に商品がならべてあったし、透明なガラスのはまった戸のような蓋のついたケースが、いくつもならんでいたりもした。

 乾物はいっぽうの主力商品だったろう。なかば乾物のようなもの、さらにはうどん玉のように、なまものも数多くあった。瓶詰、缶詰、そして佃煮のような保存食もそろっていた。八百屋ではないのだから野菜はないが、生の椎茸や卵は売っていたように思う。言葉の意味する幅を思いっきり広くとるなら、うどん玉は惣菜だったかもしれない。だから惣菜の店としての性格も多少はあったはずだ。こういう店がいつの間にか消えた。大部分は一九七〇年代の終焉を待つことなく廃業したのだろう。あるときふと気がつくと、自宅の近くにあったそのような店が、すべてなくなっていた。うどん玉に夢中になっていた頃から、二十年ほどあとのことだ。

 この章の冒頭で書いたとおり、スパゲッティ・ナポリタンとのせっかくの遭遇があったにもかかわらず、ナポリタンとの関係が続くことはなく、うどん玉という存在もあって、ナポリタンだけではなくスパゲッティ全般との関係は生まれないままに、僕は二十代の前半からなかばへとさしかかる年齢となった。週刊誌、月刊誌、夕刊新聞、新書などの活字メディアでフリーランスのライターをしていた僕は、仕事で外出した先で食事をすることが多くなった。いくつか年上の編集者が、ある日の夕方、なにか食べようかという話の延長として、次のように言った。

「なんだ、きみはまだ知らないのか。あそこはいいよ。ぱっと手軽に食べることができて、かならず満腹になり、しかもおいしい。さっそくそこへいこう。腹ごしらえだ。そのあとは酒もつきあえよ」

 彼が僕を連れていってくれたのは、新宿・紀伊國屋書店本店の確か地下一階にあった、十和田という店だった。何種類かのスパゲッティに特化した店で、いついっても大学生や若年勤労者で混んでいて活気があり、客の性別は圧倒的に男だった。誰もがさっと食べてさっと出ていくという回転の早い店で、要するに炭水化物のいっきょ大量摂取だが、それはそれで楽しく、支払いを済ませて「ふぅーっ」と言いながら店をあとにするときには、充足感があった。

 この店にスパゲッティは何種類あっただろう。ナポリタンがあったかどうか。木製のボウルに粉チーズを山盛りにしていくつも出してあり、好きなだけかけていいのだった。僕が好んだのは店のなかの席ではなく、店の外の通路に仕切りなしで直接に背を向けてストゥールにすわる、カウンターだった。人に連れられて何度もいったし、ひとりでもしばしばこの店でスパゲッティを食べた。いつもおなじものを注文したはずだが、それがなにだったかいま思い出すことができない。

 スパゲッティが隠れてしまうほどに粉チーズをたくさんかけ、そこへタバスコ・ペパー・ソースを充分に振りかけたのち、かき混ぜて粉チーズが淡くピンク色に彩色されるのが僕の好みだったから、粉チーズを邪魔しないものであったことは確かだ。四十年以上も前のことだが、一例としてミート・ソースを注文する自分を想像することはできない。ボンゴレだったか。そしてボンゴレという片仮名語は、当時にあってはいっさいなんのイメージも喚起しなかったから、きわめてわかりやすく、あさりベーコン、などと呼ばれていなかったか。

 このようなスパゲッティの日々とほぼおなじ頃、当時の僕とおなじ年齢の会社勤めの女性から、ある日、ふと、次のような質問をされたことを、いまでも覚えている。僕の脳裏に入りこみ、そこにとどまるような性質の質問だったからだろう。

 表参道からさほど離れていないところで青山通りから脇道に入って少し歩いたところに、一軒のレストランが開店した、と彼女は説明した。窓やドアの上には赤と白の格子で日除けが張り出し、窓からちらっと見える店内ではテーブルにも赤と白の格子のクロスがかけてある。そしてどのテーブルにも、紙ナプキンの金属製ディスペンサーとともに、赤い小さなガラス瓶と青くて細長い筒がいつも寄せて置いてあるけれど、「あれは、なにかしら」、という質問を僕は受けとめた。

 その店はイタリア料理の店だ。ピッツアやスパゲッティを供していたのだろう。彼女が言う赤い小さなガラス瓶とは、タバスコ・ペパー・ソースだ、それ以外にない。そして青くて細長い筒は、アメリカのクラフト・フーヅという会社の、「グレイテッド一〇〇パーセント・パルメザン・チーズ」だ。この筒は長いあいだ紙製で、内側は銀紙貼りのようになった筒で、それなりの雰囲気を持っていたが、いまではプラスティック製だ。

 さらにもうひとつ、おなじ頃の話を。週刊誌の編集部にいた、僕より三、四歳年上の男と、僕はよく仕事をした。必然的にと言うべきか、遊びの時間でもともに過ごすことが多かった。仕事の打ち合わせは午後の一時、一時半といったまだ早い時間だった。ごく簡単な打ち合わせが終わると、彼はほぼかならず、スパゲッティ・ナポリタンを注文した。打ち合わせの場所を電話で僕に告げるとき、ナポリタンのある喫茶店を思い浮かべ、そこから適当に一軒を選び出していたのではなかったか。とおりかかったウェイトレスをふと見上げ、「ナポリタン、ちょうだい」と言うときの彼の声や口調を、いまでも覚えている。

 僕との打ち合わせが終わってから夜の時間の始まりまでが、彼にとっては仕事の時間だった。他の人に会ったり編集部で雑用をこなしたりして、夜の時間になると酒だ。なぜかしばしば僕といっしょで、けっして退屈ではないけれどいつもだいたいおなじパターンで、銀座と赤坂で何軒かまわり、最後は彼が自分の部屋まで歩いて帰るため、青山のどこかに流れついていた。ビールと水割りを交互に延々と飲む彼は、さすがにと言っていいだろう、ほとんどなにも食べなかった。僕と打ち合わせをしたときに食べたナポリタン以後、なにも食べないままだったに違いない。

 青山のどこかの店へたどり着くと、そこでもビールあるいは水割りを飲み、あるとき、ふと思いついたかのように、彼はししゃもの焼いたのを注文する。小皿に五本出て来れば二本までは食べるのだが、三本は残して手をつけない。ほどなくふたりで店を出るときには、三本のししゃもを僕が持ち、青山通りまで出て右と左に分かれる、というパターンを何度繰り返したことか。僕は渋谷の方向へと歩きながら、夜更けのししゃもを三本食べるのだ。食べ終えてからタクシーをつかまえていた。タクシーで十二、三分のところに当時の僕は住んでいた。

 いまこうして書いていて発見するのは、彼にとってスパゲッティ・ナポリタンは、ししゃもの焼いたのと陸続きの日本だった、という事実だ。日本のものとは文脈を根源的に異にする、西欧ふうの洒落たもの、としてナポリタンをとらえていたのではなく、最初から日本のものとして接し、それ以後の日々のなかでも、なじみきった日本のものとして、つきあいを続けて来たのだ。喫茶店のナポリタンを彼はうれしそうに食べていた。

 彼の世代の時代背景から言って、早ければ小学校の五、六年生の頃に、彼はナポリタンを初めて食べて好きになり、それ以来のナポリタンとのつきあいだった、と僕は推測を楽しむ。東北のどこだったかいい家の長男で、幼い頃には両親とともに地元でいちばんの百貨店の食堂で、しばしばナポリタンを食べたのではなかったか。半ズボンにブレイザー、そして蝶ネクタイがよく似合う、というような子供だったろう。「ナポリタン、ちょうだい」と喫茶店のウェイトレスに注文するときの、やや軽くて投げやりな、しかし楽しそうな口調の音声は、彼らしさそのものとしていま僕は思い出す。

 いつも喫茶店でナポリタンを食べる彼を、不思議な男だと僕は思っていたが、彼にとってあのナポリタンがなにであったのか、いまここにいたってようやく、僕にはわかった。あれはおやつだったのだ。おやつのような食事、あるいは、食事のようなおやつ。おやつの陰に隠れたごく軽い食事。お昼前に起き、シャワーを浴びて髭を剃ったか。ろくになにも食べずに部屋を出て、僕との待ち合わせの喫茶店にあらわれ、仕事の話が終わるとナポリタン。ごく簡便な食事としての側面を持った、楽しいおやつ。彼とナポリタンとの関係に潜む謎はこれで解けるし、僕がナポリタンを初めて見たときに強く感じた、日本のものになりきった食べ物としての個性は、おやつで説明がつく。

 おやつは、御八つ、と書く。御は接頭語で、八つ、とは、一日のなかの時間帯を言いあらわす言葉で、午後二時から四時までを意味する。午後二時から四時までの間食、それがおやつだ。間食の「間」とは、食事と食事の「あいだ」という意味だ。二時と四時のあいだをとって、三時、という言いかたもある。「三時ですよ」と言えば、おやつですよ、という意味だった。いまでは四六時中いつでも、のべつまくなしに一日じゅう買い食いの時間だから、おやつという意味での三時はとっくに死語だろう。お三時、という言いかたもあった。

 午後の喫茶店で彼が楽しげに注文し、うれしそうに食べてきれいに平らげていたあのナポリタンは、彼にとっては心弾むおやつだったのだ。彼だけではなく、きわめて多くの人たちにとって、特に子供の頃にナポリタンが好きになった男たちにとって、ナポリタンはおやつの側面を濃厚に持った軽食なのだ。ナポリタン、というひと言から、おやつというものに対する特別な感情が、彼らの胸のなかには常に喚起されている。

 おやつは僕の知るかぎりでは江戸時代から続く日本の伝統だ。江戸には他の場所から流入し続ける浮動人口が多く、彼らのなかにはここと定まった住処を持たない人も多かった。住処がなければ食事も自分で作るわけにはいかない。外で手軽に済ませる、という一食の食ベかたのかたちを作ったのは、江戸の町に浮動した労働者人口だった。握り寿司、蕎麦、天麩羅などの屋台は、小腹を空かせた人たちのための、おやつの場であり食事の場でもあった。おやつと食事の重なり合いという、江戸から継承されているその伝統の、現代におけるきわめて端的な一例に僕が初めて接したのは、東横食堂で友人の父親に御馳走してもらったスパゲッティ・ナポリタンだった。歴史は江戸までのびているのだから、十三、四歳の僕が、日本らしさそのものをナポリタンに感じたことに、不思議はなにもない。

 食事がおやつと重なりあう傾向を、伝統として、つまりきわめて自然なものとして持っている日本では、食事がおやつの方向へ、そしてそれを越えてさらにその向こうへと、崩れていく危険が食生活の土台の一部分として最初から存在した。ファースト・フードを経由してコンビニでの買い食いへと、食事がとめどなく大崩れしていく過程のなかにあるいま、おやつのような食事であるスパゲッティ・ナポリタンは、食事とおやつのもっとも幸せな合体例として、最高に素朴で牧歌的な、その意味では限りなく懐かしいはずの、唯一無二の座にいまもある。

 午後の喫茶店でうれしそうに注文する彼が、「ナポリタン」と言うときのその音声の語呂について、僕の思いは動いていく。語呂、あるいは、リズム。つまり、音としての言葉の、舌および口腔の筋肉の動きへの乗りかたそれじたいが、楽しげだったことを僕は思い出す。ナポリタン、という音声そのものが、開放感に支えられて楽しく浮いている。そして、ナポリタン、のひと言でひとまずはすべてが完結し、そのひと言ですべての用が足りることに対する、緊張を解ききった安心感が、彼の音声による、ナポリタン、のひと言には託されていた。だから彼が音声でウェイトレスに向けて発するナポリタンには、アンポンタン、キンコンカン、マンキンタンなどにごく近い、日本的な語呂が持つ呪術性を、ほのかにではあるが明らかに、感じることができた。セイロガン、ドクソウガン、カッコントウ、ウメジンタン、といった音と重なる要素があったし、さらに言うなら、ポンカン、キンカン、アンパン、カンパン、カレーパンなどとも、重なりあった。

 音声として「ナポリタ」ではよろしくないし、締まりがない。収まるべきところに収まっていない。子音ひとつにかならず母音がついて、子音の後始末をしつつ子と母が一対になる、というのが日本語音声の基本だ。ナポリタだと最後の「タ」のところで口は開いたままとなり、ナ・ポ・リ・タとつながってきた音が、決着を迎えない。ここをなんとかしなくてはいけないという意味において、ナポリタンとなった場合の「ン」のひと文字による音は、きわめて重要な役を果たす。この「ン」ひとつがそこにあることによって、ぜんたいは引き締まり、すべて収まるべきところに収まり、きれいに決着がつく。しかしそれだけではない。効果はさらにある。それまでの音のつながりぜんたいが、「ン」ひとつによって、軽く跳ねるような感触を獲得する。そしてその感触は、なんとなく楽しいようなうれしいような効果を、心理的にもたらす。

 ナポリタンとししゃもの彼とは、夕方に飯倉のキャンティへもよくいった。彼がそこを好いていたからだ。彼にとっては酒の時間の始まりだったのだろう、なにか前菜のようなものを食べながらスパークリング・ワインを彼は飲んだ。僕はスパゲッティ・バジリコを五十回くらい食べた。昔のジェノアという海洋共和国から海へと出ていく男たちにとって、ペスト・ジェノヴェーゼはヴィタミンの補給に欠かせない保存食だった。このペスト・ジェノヴェーゼはトーストに塗るとたいへん結構であるという発見を僕は子供の頃にしていたから、そこからキャンティのスパゲッティ・バジリコへとすんなりとつながった。

 彼とは四年近くつきあっただろうか。僕の仕事の方向が変化すると次第に疎遠となり、彼は週刊誌を辞め、ついには会う機会がなくなった。そしてそこで、僕とスパゲッティとの関係は、ふたたびなくなった。次に関係ができたのは、一九七〇年代の前半からなかばにかけて、仕事の関係でつきあう人たちの都合にあわせて、壁の穴という店へよくいった頃だ。全員がその店をひいにしていて、ある日のこと僕は連れていかれたのだ。渋谷の東急ハンズの前の、坂道の縁にくっつけたような店だったと記憶している。この店も繁盛していたが、すでに書いた六〇年代の十和田にくらべると、スパゲッティの店としてスパゲッティの方向に向けて、その時代なりの進化を感じることができた。僕はいつもおなじものを注文した。サーモンのホワイト・ソースだ。

 壁の穴をしばしば訪れる状況は、二年くらいで終わったと思う。そしてその次にスパゲッティとの関係ができたのは、一九七〇年代の終わり近くになって、当時の自宅から早足で歩いて五、六分のところにあったリストランテの常連になってからだ。イタリアで修業して日本へ帰って店を開くという、日本におけるイタリア料理の新しいありかたの草分けのひとり、と言われていた人が開いた店だった。

底本:『ナポリへの道』東京書籍 2008年


2008年 あさりベーコン うどん玉 おやつ ししゃも アンパン アンポンタン イタリア イタリア料理 ウェイトレス ウメジンタン カッコントウ カレーパン カンパン ガラス戸 キャンティ キンカン キンコンカン クラフト・フーヅ コンビニ サーモン ジェノア スパゲッティ スパゲッティ・ナポリタン スパゲッティ・バジリコ スパークリング・ワイン セイロガン タクシー タバスコ タバスコ・ペパー・ソース ドクソウガン ナポリへの道 ナポリタン ピッツア ファースト・フード フリーランス ブレイザー ペスト・ジェノヴェーゼ ペパー・ソース ホワイト・ソース ボンゴレ ポンカン マンキンタン ミート・ソース ライター リストランテ 一九七〇年代 一九五〇年代 三時ですよ 乾物 佃煮 保存食 割り竹 十和田 半ズボン 喫茶店 壁の穴 夕刊新聞 大学生 天麩羅 子供 子音 庶民 御八つ 握り寿司 新宿 新書 新聞紙 日常 月刊誌 東京書籍 東急ハンズ 東横食堂 母親 母音 江戸時代 渋谷 炭水化物 瓶詰 簀の子 粉チーズ 紀伊國屋書店 編集者 缶詰 若年勤労者 葦簾 蕎麦 蝶ネクタイ 表参道 週刊誌 醬油 青山 青山通り 食べる 食料品店 飯倉
2020年9月11日 07:00
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