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僕の肩書は「お利口」

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 その日の僕は中学校三年生だったと思う。いまから何年前だろう。原節子が女優として現役だった頃、というほどに昔だ。彼女は三十代だった。現役だから彼女は仕事をしていた。仕事とは撮影所で女優として撮影カメラの前に立ち、さまざまな演技をすることだった。撮影所は主として東宝で、それは砧にあった。

 仕事で移動するときの原節子は基本的には電車とバスであった、と書いてあった記事をかつてどこかで読み、このことだけはいまも僕は記憶している。撮影所での仕事を早くに終えた彼女は、次の仕事のために上りの各駅停車に乗っていたのだろうか。それとも撮影所の近くにあったという自宅から最寄りの駅まで歩き、そこから電車に乗ったのだろうか。僕が世田谷区立の中学校の三年生だったその日、なんの変哲もないきわめて平凡な日の午後四時頃、彼女は小田急線の電車にひとりで乗っていた。

 僕もおなじ電車に乗っていた。なにかをしに、どこかへいった帰り道だったに違いない。僕が降りる駅は世田谷代田駅というところだった。成城学園前駅よりもさらに西から、僕はその電車に乗ったと思う。座席には空席があったので僕はそこにすわった。豪徳寺と梅ヶ丘の中間あたりをその電車が走っていたとき、僕の斜め前で片手で吊り革につかまり、もういっぽうの手に分厚い文庫本を持って読んでいる原節子に、僕は気づいた。

 顔と名前はすでに僕も知っていた。当時はまだ映画の時代だった。下北沢ですら最盛期には映画館が四つもあった。下北沢だけではなくいたるところに映画館があり、街なみのいろんな場所に、公開中の映画のポスターが貼ってあった。原節子の顔と名前を僕はそのようなポスターをとおして知っていた。

 座席にすわっていた僕は、原節子に席をゆずることにした。彼女は熱心に文庫本を読んでいた。座席にすわって読めばもっと集中して読めるだろう、と僕は思った。映画のポスターでよく見るあの女優さんだから席をゆずる、というような考えはまったくなかった。

 席を立った僕は、「どうぞここにおすわりください」と、原節子に言った。僕をまっすぐに見てにっこりと笑顔になった彼女は、「私はいいから、あちらのかたにすわっていただきましょうね」と、あの声で、あの顔で、あの身のこなしで、言った。彼女は、少し離れたところで支柱につかまって立っていた地味な着物の老婦人に歩み寄り、「あちらのお席が空いてございます。おすわりになりませんか」と、あの声で、あの顔で、あの身のこなしで、言った。

 当時の電車の車両のなかには、床と天井をまっすぐにつなぐ金属製の支柱が、一つの車両につき三本ほど立っていた。原節子とは知らないまま、何度も優しく丁寧に礼を言いながら、その老婦人は僕の空けた席まで歩いてきて、そこにすわった。そしてさらに何度か、原節子に礼を言った。

 少年にゆずられた席を老婦人にゆずりなおし、一件は美しく落着し、さて、文庫本の続きを読もうとして吊り革につかまりなおした原節子は、当然のなりゆきとしてかたわらにおなじく吊り革を片手で握って立つことになった僕に顔を向け、「坊やはお利口なのね」と言った。あの声で、あの顔で、そして全身から発散してやまない、あの雰囲気で。当時の僕はすでに書いたとおり中学校の三年生だったのだから、誰にも何にも憚ることなく、坊やだった。世田谷代田駅に電車が停まるまで、坊やは緊張していた。電車が停まり、ごく軽く彼女に会釈して、僕は電車を降りた。原節子は坊やに会釈を返してくれた。

 言葉で綴るなら以上のようになるこのエピソードを、僕よりも年上の友人や知人たちに、僕は何度となく語って聞かせた。本当にこのとおりのことが現実にあり、ノンフィクションとして事実だけで成立している話なのだが、誰ひとりとして信じる人はいなかった。「お前ねえ、そんなことがねえ、この世のなかでねえ、あるわけがないんだよ」とすら言った人もいた。いったいなにを根拠に、そんなことがあるわけがない、と断言出来るのだろうか。誰にとっても、原節子は、崇高な頂のさらにどこか上のほうで、燦然たる純粋な輝きを放っていて、その輝きを、一介の坊やごときが、こともあろうに電車のなかで、ほんの束の間とは言え、ひとりでその全身に受けとめることなど、断じてあってはならないことなのだろう。

 名前のあとに括弧をつけてそこに肩書を入れるとき、いま僕の肩書は作家だが、作家をやめにして、お利口、という肩書にしたい、と僕は考えている。なにしろ原節子が直接にそう言ったのだから、お墨付きとしてはこれを超えるものはないほどの、神々しさではないか。

底本:『原節子のすべて』新潮社 2012年11月


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2020年3月19日 07:00
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