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日本語で生きるとは

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「言語は実用の具であるとともに、人としての尊厳を支えるものである」
 と書いた一枚の情報カードを、さきほどから僕は見ている。何年も前、本あるいは雑誌から、書きとめたものだ。僕自身の言葉ではない。ほかにもおなじようなカードが、いま僕のデスクの上に何枚もある。

「日本人の傲慢さは、言葉で関係を作ろうとしないことである。言葉をつくして、双方のために、論理を重ねようとしないことである」
 というカードも見つかった。「言葉で関係を作る」ことの、おそらくもっとも大きな例は、「言葉をつくして、双方のために、論理を重ねる」ことだ。最初のカードが言っているとおり、「言葉は実用の具である」にもかかわらず、その「実用の具」をもっとも大切なことに用いようとせず、そのように用いることに関心もない日本人の尊厳は、いかにして支えられるのか。「傲慢」であることによって、それは支えられるのか。

「日本人は自分で考えなくてもいい状態が大好きである」
 と書いたカードがあった。「言葉で関係を作ろうとしない」ことや、「言葉をつくして、双方のために、論理を重ねようとしない」ことなどは、「自分で考えなくてもいい状態」というものの、最大の例ではないか。

「日本語は支配原理のための言葉になりやすい。慎重に理知的に思考をめぐらせることの苦痛を目の前にすると、日本人は思考をあっさりと放棄するからだ」

 こんなことを書いたカードも、僕は見つけた。「慎重に理知的に思考をめぐらせることの苦痛を目の前にすると、日本人は思考をあっさりと放棄する」という言いかたは、「日本人は自分で考えなくてもいい状態が大好きである」という言いかたと、内容はおなじだ。

 思考を放棄するとは、言葉を放棄することだ。そして言葉を放棄するとは、たとえば「お上」に、思考のための言葉をいっさい預けてしまい、思考もなにもかも代行してもらうことだ。「日本語は支配原理のための言葉になりやすい」とは、言葉を預かったほうは、その言葉を人民の支配や管理のために使う、という意味だと僕は解釈する。

「日本では問題が複雑でやっかいであるほど、他に同調する人が多くなる。判断に関して集団的な基準が重みを持ってくる」
 と書いたカードを僕は見る。これまでのカードとおなじく、これもかつて僕がどこかで読んで気になったひと言だ。「他に同調する」ことの最大のものは、「お上」に言葉と思考を預けてしまうことだ。そして「集団的な基準」のもっとも強力なものは、人民に対して「お上」がおこなう統制だろう。

 言葉や思考に関して、基本的に以上のような傾向を強く持っているという日本の人たちは、いったいどのような人生を送るのか。次のカードが、それに答えてくれている。

「日本文化とは、人間万事色と欲とする、典型的な男性社会の文化である。人は色と欲の面でガードが甘くなる」

 これまで見てきた6枚のカードの内容ぜんたいを、ひと言でまとめあげるカードを僕は見つけた。そのカードには次のように書いてある。

「人は自分が獲得している言葉の質量の人生しか生きることが出来ない」

 内容も含めて、このような表現は、いまやごく限定された通用力しか持たないのではないかと僕は思う。いつもどの程度の言葉をどんなふうに使っているかによって、その人の人生の質はおのずからきまってくるというような意味だ。ひとりの日本人から、日本という国ぜんたいまで、広くあてはまる法則だろう。

 日本という国、日本語という言葉、その日本語で生きる日本人というぜんたいにとっての自分たちの言葉によって獲得された質や方向とは、どのようなものなのか。さまざまな視点からの意見があると思う。あるひとつの視点からの、端的な指摘を僕はカードのなかに発見した。日本語によって成り立った日本という国の近代および現代の質と方向とは、そのカードによるなら次のようだ。

  「日本語のなかにあらかじめ一定の傾向を持って存在している特性を、ナショナルな利益の追求という目的に合わせて、日本人はよりいっそう特性化した」

 解説が必要だろう。「日本語のなかにあらかじめ一定の傾向を持って存在している特性」とは、これまで何枚かのカードで見てきたとおりの、日本語とその使われかたに関するもっとも大きな傾向、というほどの意味だ。人々は言葉を国に預け、国はその言葉を統制や管理、支配などのために使う、といういちばん大きな傾向だ。

 「ナショナルな利益」とは、人々の幸福や生活の安定ではなく、財界の一部や政界の裏人脈にとっての利益や権力の維持、と解釈したほうが正しいと僕は思う。国家による支配のイデオロギー、というやつだ。カードに書かれたひと言の後段の意味は、日本語の使われかたに関するもっとも大きな特徴を限度いっぱいに増幅して使った、という意味だ。

 人が日本に生まれて日本人として育つとき、国語教育として日本語の教育を受ける。その国語教育とは、いったいなになのかという大きな疑問に対して、一枚のカードは次のように答えてくれている。

 「日本の国語教育は、人を権力体制にしたがわせ、自由を捨てさせるものである」

 ここまでの文章のために、参考にし引用してきた数枚のカードは、すでに書いたとおり、何年も前に僕が本や雑誌で目にしたひと言を書きとめておいたものだ。そのときは自分だけにとっての勉強のためだったから、なんという本や雑誌で読んだのか、筆者は誰だったか、日付はいつかなど、どのカードにも書いてなく、それが残念だ。引用であることは確かだが、書き写すにあたっては、自分にわかればそれでいいという考えから、原文どおりではなく多少は略して書いた可能性もある。

 現在日本人論や日本語論は、すでにたいへん多い。日本も日本語も、そして日本人も、日本人自らの手によって、ずたずたに解き明かされていると考えていい。かつて僕が読書しながら書きとめた数枚の情報カードによってすら、日本人論や日本語論の正しい結論にたどりつくことが出来る。

 結論の正しさは、そのまま、暗澹とした気持ちというものであり、その暗澹とした気持ちから今度は逆に、ほんとにこうなのだろうか、ほんとにこれが正しい結論なのだろうかという思いが立ち上がってくる。カードはさらに何枚もある。なにを書きとめたかすべて忘れている。気をとりなおし、一枚ずつ見ていく。

 「日本人は、いま起きていることがらに、強く執着する。時勢についていくのが奇妙に巧みであり、流行に関してきわめて敏感である」
 と書いたカードがあった。違う、まったく違う、日本人はその正反対だ、という意見は日本のどこからも出てこないと思う。なにをいまさら、とじつに多くの人たちが思うほどに、この指摘は正しい。

 「日本人の生きかたは現在を絶対的な中心とした生きかたであって、即物性や即時性を強い特徴としている。赤裸々な現実やあられもない姿、腹を割ったと称する状態などは、したがって日本人がたいそう好むところである。いまここで自分の目の前にある臨場感こそ、生きてこの世にあることの唯一の具体的な証であり、日常的にはそれは流行や時流、トレンドなどのかたちをとる。そしてそれらは具体物であり、目に見えるし手に取ることも出来る。視覚的に楽しめるもの、個々人が手に取って愛でることの出来るものへ、人との好みは大きく傾いている」という内容のカードもあった。かつて僕が読んだ文章のなかから、主要な言葉だけがつまみ出されて、ならんでいた。それらをつなげて文章に戻していくと、以上のようになる。カードの内容はさらに続く。

 「日本人にとって言葉は、常に現在の現象を写し取るものである。現在の現象とは、世のなかの移り変わりや、時々刻々の変化だ。その現在へ、ありとあらゆる過去が、主観のおもむくままに、自由自在によみがえって重なる。これほどまでに現在主義の自分たちにとって、存在証明のようにどうしても必要なものは、ただいまこの瞬間のものだ。この存在証明は、日常的には、物を買うというかたちであらわれる。彼らにとっての時間というものは、自分の目の前で刻一刻と更新され続けている、いまという現在である」

 こういう人たちは、ものごとというものを、いったいどのように理解するのだろうか。それに対する答えとして、あるカードは次のように言う。

 「日本人にただひとつ出来る理解のしかたは、自分がすでによく知っていることやなじみのあることにあてはめて理解する、という理解のしかたである」

 すでに書いたとおり、日本の謎はすべて解き明かされている。しかも、とっくに。このカードの内容はさらに続いていく。次のとおりだ。

 「自分が持っている現実や人間関係などにあてはめて理解する、きわめてゴシップ的な理解のしかたであり、あくまでも自分を中心にした現実に貼りついているから、自分のごく小さな体験世界の外へ出ることが出来ない。このような現実べったりの身のまわり主義は、多少とも抽象的な理解力を必要とされることに対しては、まったく反応を示さないという特徴を発揮する。自分の経験の外の世界、つまり未知の世界は、いつまでも未知のままにとどまり、理解は出来ない。おたがいの利益のために、論理の言葉で思考を重ねていくための手がかりとして、AとBというふたつのアイディアが対立的に提示されているとき、日本人はそこへ自分の知っている人間関係を持ち込み、あの人がAの側につけばBは負けるというふうな、敵対する合戦としてとらえてしまう。現実べったりの考えかただと、アイディアの対立は常に敵対でしかなくどちらかが負けなくては収まらない」

 日本人はあらゆる対象を、自分との関係という場のなかに置いて、理解しようとする。だから理解とは、あらかじめいくつかあるパターンのなかから、もっとも都合のいいものを探し当てることだ。どのパターンをとるか、つまりその対象についてその人がどのように考えているか、ほかの人から察知されやすい。察知されることを避けたいとき、意味がありそうでじつは空疎な紋切り型で、のらりくらりとかわしていくスタイルが、日本では社会的に認知されてきた。

 現実主義や即物主義、人間関係主義などは、次々に自分の目の前にあらわれるいまこの現在、という時間の上に立っている。ついさっきの現実は、いまここにあるこの現実へと、すでに変わっている。そしていまこの現実は、早くも次のあの現実へと、変わろうとしている。こんなふうに、ただひたすら転変し続ける時間のなかでは、慣習くらいなら作られていくかもしれないが、伝統が形成されることなどとうてい無理だし、伝統が育たなければ文化などあるわけもない。文化とは、深い蓄積が生み出す、普遍性なのだから。

 ただひたすら次の状況へと転じ続ける時間に対しては、日本の人々といえども、たとえば戦後の五十数年間、適応を重ねるだけで精いっぱいだったのではないか。強制された適応を生きる日々は、経済の右肩上がりがもたらした絶えざる大変化の連続という戦後に、まさに適応した生きかただった。そして、適応の連続を強制されて引き受けた日々のなかには、自由などなかった。自由になる自由すら知らずに、日本の人たちはここまで来た。

 日本人がおこなってきた適応の連続に関して、次のように書いたカードを僕は見なくてはいけない。

 「西欧文化のなかにある抽象的なものや観念的なものを、日本語にすることはほとんど不可能である」

 明治このかた、西欧から日本に入ってくるものに対して、それが抽象であれ具体物であれ日本人が懸命になって漢字をあてはめ、一種の造語活動をしたことは確かだ。

 自由という言葉も、そのような苦しい造語の一例だ。自由という当て字は可能だったが、もともとそのようなものは体験したこともなく、当面は目にも見えない価値については、それがなにであるのか知らないだけではなく、そのような価値が存在するということすら知らなかったし、いまもおそらく知らない。抽象や観念は西欧文化から日本へ移植されなかったが、技術つまり物質は、充分に日本のものとなった。日本がかかわりを持ったのは、物質という最終的なかたちになったうえでの、西欧文化だった。

 西欧では歴史が大事にされている。そこでは、現在までつながっている歴史の深みのぜんたいが、自分たちだ。単に観念としてだけではなく、日常の生活実感として、自分たちとは歴史の深みのことなのだ。戦後の日本は、敗戦とともに過去のすべてを悪と規定し、そこから自らを断ち切った。現在だけが次々にあるという日々のなかで、いまという最先端だけが、他のことをいっさいかえりみることなしに、経済を原動力として突進を続けた。

 歴史の深みが機能しているなら、いまこの現在という価値だけが、次々に更新されつつ突進していくというようなことは、効果的に抑制される。歴史の深みのなかで、現在の新たな価値というものが、厳しい審査を受ける。日本ではこのようなことはいっさいなかった。

 というようなことを書いていく僕は、「言葉とは人間の生活を可能にしている、基本的な道具である」と書いたカードを手にとって眺める。自分がいままさに体験しつつある、この現在のなかでの即物主義という日本人の態度に対して、このようなひと言は、もはやほとんど意味を持たないのではないか。しがらみの日常をこなしていくための、あの人にはこう言う、そんなときにはこう言っておくといった、言葉づかいという処世術のことかな、とでも受けとめてもらえるなら、それ以上を期待してはいけないのではないか。

 「人間にとっての生活を可能に」するものとはなにか。それは論理というものだ。必要があるたびに、出来るだけきちんとしたかたちで、論理は表現されなければならない。その表現の手段は言葉だ。言葉がなければ論理など作れない。そして言葉で論理にかたちをつけていくときの基本ルールは、人と人とがどのような原則をどこまで共有するのかをはっきりさせる、というルールだ。人のありかたを規定し、その規定のなかに人を拘束するもの、それが論理だ。

 「言語とは国境内においては統合の要具であり、国境外からのインパクトに対する防壁である」と書いてあるカードのこのひと言は、このあたりに配置しておくと正しく収まる、と僕は思う。日本という国の内部がひとつに統合されているのは、日本語という要具が機能していればこそだ。日本語によって日本の内部がそのように統合されている状態は、日本の外からなかに入ってこようとする力に対して、防壁として機能する。西欧はもちろん、日本といえども言語は国家にとっては組織原理なのだ。

 国家という言葉を目にしたとき、あるいは耳から聞いたとき、日本人の反応のしかたとしてもっとも多いのは、自分の知っている具体物をあれやこれやとりとめなく思い浮かべる、という反応のしかただ。自衛隊、どこからか飛んでくるミサイル、税金、年金、首相の顔、不景気、金利、戦時下の生活、若い帝国兵士として自分が戦地へ赴いたときのことなど、人によってさまざまだし、際限はない。

 国家という言葉に、日本の人たちは、自分がなんとなく知っている現実のなかから、なんらかの具体物をつくろって、あてはめる。言葉によって抽象的に構築されている国家というものは、彼らの思考の視野には入ってはこない。

 国家という観念が、それだけで単独に想定されていても、そこからはなにごとも始まらない。国家は国家理念というものを持たなくてはいけない。国家理念とは、自分のところの利益を守ることだ。いかなる手段によろうとも、というただし書きがつくのだが、通常はこれは暗黙の了解事項として、伏せられている。

 いかなる手段によろうとも自分のところの利益を守るという国家理念は、たちまち国家どうしの深刻な衝突を招く。それを避けるために、外交というじつに面倒くさい駆け引きが、世界じゅうで複雑に何重にも交錯することになる。いつ果てるとも知れない面倒な駆け引きでありそれが果てるときはその国家が消えるときだ。

 この外交を戦後の日本は徹底的にさぼった。国家のもっとも国家らしい部分を持たない国家、それが戦後の日本だったと言ってもいい。世界は東西に分かれて冷戦のなかにあり、憲法の条文の上では軍事力を放棄した日本は、アメリカの傘の下でアメリカの求めるままに軍事力を持った。まともなかたちと質での外交は、これでは最初からありようがない。

 そこに乗じきって世界を相手に戦後の日本がおこなったのは、原材料を仕入れるための商談と、自分の国で作った製品を売るための商談だった。戦後の日本は会社立国の商談国家なのだ。最後はすべて数字に帰結するというルールのもとに、商談はとりおこなわれる。その数字が自分の都合に合うか合わないか。合わなければ断って商談をやめにすればいい。自分の都合に合うならば、最終的にどれだけ儲かるかの判定が、次の課題となる。儲けにならないときにも、商談は断っていい。商談国家の戦後日本は、いやなものはすべて断れる、と思い込むにいたった。

 商談以外の経路による世界とのかかわり。これがなになのか、だから日本にはわからない。

 外交は究極の商談だと思えばいい。かかわったとたんにすさまじいリスクが生じる。引き受ける、というかたちでかかわったなら、その瞬間に発生する責任や義務は、ただごとではない。

 いやだよ、そんなの、断れ。なにもそこまですることないだろう。うちの社にとってなんの得にもならないし。世界に対して日本がもっとも得意としているのは、こういうことだ。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年


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2015年12月30日 05:30
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