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日米関係は四文字熟語か

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二〇〇三年十二月十五日*本文末尾「まえがき」参照

 一九四五年八月二十八日。日本を占領する連合国の先遣隊が、厚木の飛行場に到着した日だ。そして三十日、その連合軍の総司令官であったマッカーサー元帥が、おなじく厚木飛行場に降り立った。小ぶりなプロペラ機の胴体には楕円形のドアがあり、そのドアはいっぱいに開かれている。その胴体のなかからドア口に元帥が姿をあらわし、夏の軍装に元帥の帽子、そしてサングラスにコーン・パイプといういでたちで、おもむろにタラップを降りていく様子をとらえたカラーの映像は、何度も繰り返される凝視に値する。

 戦後日本の始まり、というようなテーマのヴィデオ作品のなかに、この映像がある。ごく普通に市販されている。このときの元帥は、芝居っ気たっぷりな自己演出を楽しんでいた、と定説は言う。なるほど、そうだったのか、などと思いながら観察すると、映像から受ける感銘はよりいっそう深まる。深まって当然だろう。戦後の日本はこの瞬間から、この人のもとで、占領政策をほどこされる対象として、始まっていったのだから。戦後における日米関係の、まさに始まりそのものの瞬間だ。僕が満五歳だった夏の終わりの出来事だ。

 この映像を収録したヴィデオ作品さえ手もとにあれば、戦後日本にとっての日米関係の始まりの瞬間を、きわめて象徴的に、しかもカラー・フィルムによる元帥の動く姿かたちという、これ以上ではあり得ないほどに個別的で具体的な感銘や印象として、いつでもモニターの画面に現出させることが出来る。ここから始まっていまもなお続いている日米関係のなかで、日米をめぐるおびただしい量の映像が、フィルムによって、そしてヴィデオ・テープで、撮影されたはずだ。このときこの瞬間に日米関係は大きく転換したとか、次の段階へと移行していったというような、いま見直すと象徴的な意義を感じることの出来る映像は、そこかしこにありそうなものだと思うのだが、思い起こしてみて記憶のなかになにひとつ見つからない事実を、いま僕は発見している。多少とも重要な出来事は、ニュースの取材の一環として、かならずや16ミリ撮影機で撮影されたはずだ。それらの映像のなかで、日本の戦後史にとって節目となった出来事は、日本の戦後を映像で見せる何巻ものかのヴィデオ作品のなかに、おそらく採録されてはいるだろう。

 たとえば一九五七年の六月におこなわれた、岸首相とアイゼンハワー大統領との会談は、日米関係のなかの出来事としては、国家元首どうしの会談だし、話し合われた内容は、岸首相によれば日米新時代を指向するものだったのだから、出来事としては最大級に大きい。ふたりが握手を交わしている映像をヴィデオで見ることが出来たとして、その映像に僕は象徴的なものを感じ、感銘を受けたりするだろうか。しないと思う。なぜなら日米関係はこのときすでにすっかり出来上がっていた。少なくとも日本にとってはそうだった。この会談で話し合われたのは、日米安保条約という条約の締結の可能性だった。語り合われたのは純粋な可能性ではなく、日本のなかに深く組み込まれているアメリカとの関係を、進展していく時代の要請に対応させて、軍事同盟へと固めていく補強策が語り合われた。ただそれだけのことだから、象徴的な映像がそこで撮影される可能性は、あらかじめほとんどゼロだった。

 もう少しあとの時代になにかなかったか、と思いつつ記憶をたどると、佐藤栄作首相の善処事件とも言うべき出来事があったのを、僕は思い出す。思い出すとは言っても、善処という日本語の問題として僕は記憶しているだけであり、それがいつのことだったかを知るには、歴史年表のページを繰っていかなければならない。一九六九年の十一月に佐藤首相はアメリカを訪れ、ニクソン大統領と会談した。安保条約の堅持が共同声明として発表されたりしたのだが、続いていく日米関係にはなんら変動はなく、次の年に安保は自動的に延長された。

 安保のほかにも話題はいくつかあり、そのなかのひとつはダラー・ブラウスだった。ダラー・ブラウスとは一着が一ドルのブラウス、つまり当時の日本からアメリカへ輸出されていた、破格的に安い繊維製品のことだ。あまりにも安いからアメリカの繊維業界が苦境に陥っている、なんとかしてもらえないか、と首相は大統領から要請された。お話はうかがいましたがおそらく私にはなにも出来ません、という意味で首相は「善処します」と大統領に答えた。これで繊維業界にいい顔が出来るとプラグマティックな大統領は思ったのだが、首相はいっこうになにもしない。やがて大統領は善処という言葉の真の意味を知るところとなり、かんかんに怒ったという。この出来事は面白さとしてはかなりのものだが、単なる経済問題のひとつであり、ニクソンが怒ろうがどうしようが、別にどうと言うことはない。ふたりが真面目くさって話をしている映像は、探せばかならずあるだろう。しかしそれをいま見ても、僕はなにも感じないと思う。

 そのあとに続いた時代になにかなかったか、と僕は年表を見ていくのだが、いっこうになにもあらわれない。これだ、と言えるものがないままに、時代は一九八三年まで飛んでしまう。中曾根首相の訪米とレーガン大統領。ロンとヤス、というのがここにあったではないか。日米は運命共同体です、と首相は大統領に告げ、日本を不沈空母にする、そしてなにかあればその空母で海峡を封鎖する、などと発言して問題となったが、そのことじたい、軍事同盟を軸にした日米関係は、強化されこそすれ揺らぎなどいっさいなかった事実を、指し示している。施政方針演説で、いまは戦後史の大きな転換点だ、と首相は語ったというが、日米どちらにも転換はもたらされていない。拡大とさらなる延長が約束され合っただけだ。首相の山荘に大統領は招かれ、山伏の衣装に身を包んだ首相の吹く法螺貝の笛を聞かされた。このときの映像はTVで見ていまも僕は記憶している。ただし、たまたま記憶しているだけであり、記憶していることに意味はない。

 このときから七年飛んで、一九九一年。一月に湾岸戦争があり、それは二月に終結した。このときの大統領はクリントンの前のブッシュだった。そして首相は海部俊樹だ。彼らふたりはジョージ・アンド・トシキではなかったか。ペルシャ湾には海上自衛隊の掃海艇が派遣され、優秀な技術を発揮した。アメリカによる軍事作戦への参加というよりも、日本がその高度な技術を発揮してみせたケース、として理解するほうが正しいのではないか。避難民を輸送するために自衛隊機が派遣された、とも記憶している。

 そして日本は前年に拠出した十億ドルの支援資金に、一九九一年には九十億ドルの追加をおこなった。まず十億、そして追加は九十億という、かなり大きな落差のなかに、いまから見ると信じがたいほどにおっとりしていたあの頃、というものを僕は感じる。戦費を調達に日本へ来たアメリカの高官が、おかねのことは大蔵省なのでそちらへいってください、と官邸に言われてほんとに大蔵省へと出直したりしたのだ。ジョージ・アンド・トシキの映像をいくら見ても、そのなかに戦後日本の本質的な転換点を感知するのは、ロンとヤスの場合とおなじく、難しいだろう。継続されていく日米関係のなかに、転換点などをもたらす大きな出来事は、なかったと言っていいからだ。二〇〇三年十二月のいまから振り返ると、湾岸戦争は少なくとも日米関係にとっては、なんということもない中加減の出来事だった。なにしろすべてはおかねで済んだのだから。

 二〇〇三年十二月のいま、これまで続いて来た日米関係は、転換点を通過してその向こうへと出ていった、と新聞は書いている。新聞がそう書いているだけではなく、多くの人がそう感じているようだ。転換をもたらさずにはおかないような性質の出来事がこれといってなにも見当たらない、という平和な状態が、二〇〇一年九月十一日、突然に終わった。戦後の日米関係にもたらされた最初の大きな転換点は、この日から始まった。アメリカに対してテロ攻撃がしかけられ、そのテロと戦うアメリカの意思と行動に、日本の小泉純一郎内閣総理大臣は、アメリカへ出向いて全面的な賛成と支持を表明した。アフガニスタンへのアメリカによる軍事攻撃に、日本は給油艦の仕事を提供した。そしてイラクに対する戦争行為にも首相は全面的な賛成と支持を表明し、そのことの具体的な国家行動のひとつとして、戦争が継続していることをアメリカも認めているイラクへ、自衛隊の派遣を決定した。

 日米関係という言葉は、ほとんどの人にとって実感も意味も感じられない、しかし目にする機会はなんとなく多いかなと思う程度の、四文字熟語のようなものだったのではないか。そのような平和な日々は、突然に終わった。そしてもう二度と戻っては来ない。日米関係は軍事同盟の上に立つ関係であり、それゆえに、軍事国家であるアメリカの軍事行動つまり戦争によって、その戦争のなかへ日本が連れ出され押し出される状況が、ある日のこといきなりスタートした。じつは日米関係とは、アメリカによる戦争への、日本の参加だった。参加の機会が半世紀以上にわたってなかっただけで、関係の本質は以前からずっとそうだった。そしていまその本質が突然にあらわとなった。

 このような日米関係は国家と国家の関係なのだが、もっとも高いレヴェルでの接点は、国家元首どうしの接触ないしは関係だ。アメリカの大統領と日本の首相との関係。大統領がブッシュ政権のジョージ・ブッシュであり、首相は小泉内閣の小泉純一郎であるのは、いまはまだ単なるめぐり合わせのように思えるかもしれないが、いま少し時間を経たのちに詳しく考察すると、どちらも動いていく歴史のなかに浮かび上がった必然であったことが、はっきりするはずだ。このふたりの国家元首の関係とは、ふたりの人物がそれぞれに持っている、もっともわかりやすく言うなら人となりにおける関係であり、他のすべての人たちは、この事実を如何ともすることが出来ない。

 イラクに対する戦争行為に向けて、アメリカが自分だけの考えにもとづいて突き進みつつあった頃、ドイツとフランスは懸命にそれを牽制していた。国連を中軸にした多国間主義を必死に説くフランスのドヴィルパン外相の様子を日本のTVで見て、「僕はあんなには舞い上がらないよ」と、日本の首相は言った。あいつは舞い上がっている、としか思えない首相の、人となりというものがこの言葉に悲しいほど露呈されている。

 ドゥヴィルパンが舞い上がっているなら、自分はクールなのだろうか。首相になって最初にアメリカを訪問し、大統領からキャンプ・デイヴィッドに招待されたときの首相をとらえたヴィデオ映像は、これは確実に日米関係史のなかに残る。大統領の胸に飛び込んだ首相、と言われても反論のしようがないほどの、なんという熱意と純情に満ちた、全面的な支持や肯定、賛意、賛美、一体化であったことか。首相がその全身で表現してみせたこのような感情に、噓や作為などはまったくないと僕は思う。彼はああいう人なのさ、としか言いようがない種類の行為だ。相手である大統領に関して、ほとんど知識を持たないままの初対面の瞬間からあのように全開で、じゃれるともなつくとも言えるような関係の始まりを世界に向けて披露した彼は、日本の戦後史のなかでもちろん最初の首相であり、おそらく唯一の首相となるのではないか。ロンとヤスのヤスはロンとの密着や一体ぶりを批判されたし、ジョージとトシキのトシキは、ただうろたえるだけだったが、それでも相手とのあいだには、おたがいに正しく計測された距離感というものをなんとか失わずに保ち続けた。いま淡く思い出すそのことに、望郷の念にも似た気持ちを僕は覚える。あそこにはまだまともな日本があった。その日本への望郷の念だ。

 キャンプ・デイヴィッドでの首相と大統領の様子を記録したヴィデオ映像は、首相の日米関係観を批判するときなど、日本のTV番組のなかでしばしば引用されている。僕が感じているよりもはるかに強く、あの様子を奇異に思う人は多いのだろう。自由な放映に圧力のかかる日が、やがて来るかもしれない。ふたりがいきなり始めたキャッチ・ボールは、あれは暗喩として理解すべきものなのかどうか。相手に向けてボールを投げる行為は、英語という言葉の世界では、さあ、ここからはきみにまかせたよ、頼んだよ、ちゃんとやってくれたまえよ、というような意味になる。だからそのボールを受けて投げ返せば、承知しました、引き受けました、おまかせください、という意味を相手に返していることになる。暗喩が暗喩にとどまるかぎりでは、それは夢のようなものだが、この夢は正夢になってしまった。

 キャンプ・デイヴィッドでの晴れた日に、首相はシャツ姿で大統領の前にあらわれた。シャツのボタンを上からふたつはずし、その下には白いTシャツが見えていた。ファッション・アドヴァイザーの進言にしたがったいでたちとのことだったが、あのシャツの色は奇妙な色だったとだけ書いておこう。大統領はカジュアルなジャケットを着用していたのだが、シャツの胸をはだけて登場したお客さんに合わせて、すぐにジャケットを脱いだ。そして首相は大統領からボマー・ジャケットの進呈を受けた。ボマーつまり爆撃機の搭乗員が着るからボマー・ジャケットと呼ばれている革製のそのジャケットを、首相はすぐさま身につけた。「ジャスト・フィット」という彼のひと言が音声として収録されていた。このボマー・ジャケットも、深い暗喩なのだろうか、それとも質の悪い冗談なのか。

 さあ、ほどなく戦争だよ、という暗喩であったなら、ジャケットをその場で着てみせた我が首相は、その戦争への参加を承諾したことになる。広島上空、あるいは日本全土の上空まで時間をさかのぼると、ボマー・ジャケットは最高に質の悪い冗談へと一転する。大統領自身はヴェトナム戦争当時、徴兵逃れといまは誰もが言っているとおり、州兵として国内にいた。州兵としての彼はジェット戦闘機のパイロットだった。ボマー・ジャケットはそのことにちなんでいたのか。パイロット姿で愛機のかたわらに立つジョージ・ウォーカー・ブッシュの写真を、アメリカの雑誌で僕は見たことがある。添えられていた記事のなかには、「ジェット戦闘機のパイロットとしての彼の適性は限りなくゼロに近いものであった」という、直属の上官だった人のコメントがあった。大統領の父親は、太平洋戦争で雷撃機のパイロットを務め、小笠原の父島近辺で撃墜されて海上を漂う、という戦争体験の持ち主だ。首相にプレゼントされたボマー・ジャケットは、ひょっとしたらここともつながっているものなのかもしれない。しかし、それにしても、なぜボマー・ジャケットだったのか。ほんとに心を許した信頼する相手には、テキサス男はカウボーイ・ブーツを贈る。首相との関係はまだ始まったばかりだった。それにキャンプ・デイヴィッドはテキサスではないことだし。

 このときの映像と直接には関係しないものの、首相と大統領との関係が始まるにあたって、いろんな意味できわめつけに深いと言っていい暗喩が、さらにひとつ存在する。すでに知る人の多い、『真昼の決闘』の暗喩だ。『真昼の決闘』とは、一九五二年にアメリカで製作・公開され、日本でもおなじ年に封切られた西部劇だ。当時はただの子供だった僕だが、それまで数多く見てきた西部劇の延長として、この作品も見た。僕と同世代の首相も見たのだ、そして感動したのだろう。それはそれでいい。しかし西部劇としてはたいそう奇妙で、凡百の西部劇を見たあとに共通して体験した能天気な気持ちにはなれず、気持ちは明らかに沈んだのを、いまでもかすかに記憶している。よりによって、この西部劇は、それじたいが暗喩なのだ。

 小さな町の保安官が教会で結婚式をあげる当日、かつて彼が逮捕して投獄した悪漢たちが、出獄して汽車でその町へ帰って来ることが判明する。悪漢の仲間たちは駅へ迎えにいっている。悪漢たちは保安官に借りを返すときめている。悪漢に立ち向かう保安官は、町の人たちに協力を求める。しかし誰ひとりとして力になろうとはしない。愛想をつかした保安官は、遺言状をしたためたのち、ひとりで悪漢たちを引き受ける。悪漢をやっつける保安官が遺言状を書く西部劇というものを、このとき僕は初めて見た。悪漢たちが乗って来た汽車で保安官の花嫁が難を逃れて町を出ていくとは、いま思えば見え見えというやつだが、時間の進行が要領よく画面にあらわれることと重なって、緊迫感を高めていた。悪漢たちの倒しかたにも工夫が効いていて、そこはたいへんいいのだが、ぜんたいとしてやはり充分に奇妙だった。

 それもそのはずと言うべきか、協力しない町の人は暗喩としてアメリカぜんたいであり、ひとりで悪漢に立ち向かう保安官は、そのアメリカに愛想をつかし絶望さえしている。『真昼の決闘』とはそういう映画なのだ。首相がまだ首相になる以前、いまの大統領のお父さん、つまりクリントンの前のブッシュ大統領に会ったとき、彼の容貌や立ち居振る舞い、雰囲気などから、子供の頃に見て感激した『真昼の決闘』の保安官を演じたゲーリー・クーパーという俳優を強く想起した。そしてそのことを、首相になってから、初対面の大統領に首相は語って聞かせたという。

 英語でどんなふうに語ったのか、たいへん興味のあるところだが、トランスクリプションでも公開されないかぎり、具体的なディテールを知ることは誰にも出来ない。『真昼の決闘』をブッシュ大統領は見ていないと僕は思う。そんな西部劇のことなど聞いたこともない、というのが正直なところだろう。映画を見ることによって、そのときの自分の気持ちがどうこうするといった生活から、およそ無縁だったはずだ。しかし悪に決然とひとりで立ち向かう保安官に父親がなぞらえてもらえるなら、それはけっして悪いことではない。演じた俳優はゲーリー・クーパーだということだし。そうかそうか、それはうれしい、有り難う、と大統領は喜び、首相が二度目にアメリカを訪れたときには、この『真昼の決闘』のポスターを首相に進呈したそうだ。

『真昼の決闘』という昔の西部劇に関して、片方はまったく知らない、そしてもう一方は正しくは知っていない、という組み合わせを取り持ったのが、その西部劇の主人公であった保安官であるという、両者にとってまことにふさわしいと言うならそうも言える、珍なるエピソードを介して、両者は親しく急接近した。日本の首相とアメリカの大統領とが、一本の西部劇をめぐって、しかもその誤解をめぐって、肝胆相照らす仲へと急速に向かったのは、空前の出来事であり、おそらく絶後となるのではないか。大統領のほうに自国の大衆文化への歴史的な教養が多少ともあったなら、『真昼の決闘』を持ち出した日本の首相を前に、初対面の開口一番で相当にきつい一発をかまされたと思い、対抗の姿勢を整えるために緊張しつつも、なぜかうれしそうな首相の笑顔をどう判断すればいいものか、戸惑ったことだろう。

『真昼の決闘』をめぐるこのエピソードは、いま僕が書いたのがオリジナルの純正ヴァージョンだと思う。こんな西部劇のことなどまったく知らず、知ろうともしない世代の人たちが新聞や雑誌に記事を書くことの結果のひとつとして、すでにいくつかの異なったヴァージョンが存在している。原題の『ハイ・ヌーン』という言葉を連呼するだけで、そこから先の説明が出来ない首相を、通訳が懸命に補ってどうやら話が相手に通じた、というヴァージョンがあるけれど、さすがにこれは、まさかそんなことはないだろう、と僕は思っている。首相のイメージのなかであの保安官に重なったのは、お父さんブッシュではなくいまの大統領である、とするヴァージョンもある。『真昼の決闘』を知らないことから派生する、ただの間違いでしかない短絡ヴァージョンの見本のようなものだ。

「善処します」と言った佐藤栄作と、その言葉の現実的な意味を知って怒ったリチャード・ニクソン。さきほども書いたとおり、これはいまから三十四年前の出来事だ。三十四年を遠いと思うか近いと思うかは、どうでもいいことだと思う。「善処します」という日本語に一ドル・ブラウスをめぐってアメリカの大統領が怒ったという、もはや二度とあり得ない遠い出来事という意味では、懐かしさすら覚えるほどに存分に遠い。不沈空母のヤスとSDIや悪の帝国のロン。湾岸戦争のブッシュ大統領とおかねだけ出したトシーキ。どちらもつい昨日の出来事だが、大統領と首相とのあいだには、まだ充分な距離があった。そしてその距離ゆえに、時代はいまよりもはるかに良質であり、いまと比較すれば牧歌的だったとすら言えるのではないか。

 小泉純一郎内閣総理大臣とジョージ・ウォーカー・ブッシュ大統領の日米関係となったとたんに、両者は急接近した。どちらの人もつきつめれば人となり以外になにもないし、ふたりが作る日米関係はそのような人となりの上にしか成り立ちようがないけれど、冷戦の終結後の世界を自国の軍事力の下にどう編成しなおすかという、アメリカの戦略の新たな展開には、ふたりの関係は緊密につながっている。自国の軍事力の下に世界を自分の思うとおりに配置したいけれど、自分だけではまかないきれないから、いまのアメリカの言葉で言うところのコアリション(有志連合)各国に、それぞれが軍事的に出来ることを分担させるというUSセントラル・コマンドのなかに、日本は抜きも差しもならないほどに巻き込まれている事実の端的なあらわれが、いまの首相と大統領が維持する日米関係だ。

 大統領にとって首相は、「お気に入りのひとり」(ワン・オヴ・マイ・フェイヴァリッツ)だという。その大統領に対して我が首相は、「アイ・スタンド・バイ・ユー」と、ことあるごとに繰り返している、と新聞は書いていた。支持しますという意味の定型的な言いかたであり、ひとつ覚えのしかも言いやすいひと言だから、つい口をついて出て来るのだろう。すべてを相手に預けた上での、異論まったくなしの全面的な味方としてすべてを幇助する姿勢を言いあらわす、「ともに地獄の果てまでも」というような言葉を、日本の首相がアメリカの大統領に無自覚に繰り返す時代のなかに、いま誰もが自分を置いている。

底本:『影の外に出る──日本、アメリカ、戦後の分岐点』NHKブックス 2004年

今日のリンク:カラーフィルム:1945年8月30日|マッカーサー日本着

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*「まえがき」より

影の外に出る

 二〇〇三年の夏が終わろうとする頃から、主として報道をとおして、次のような言葉がこの僕の目や耳にも、しきりに届くようになった。日本の主体的な判断。国益。対米協力。国際社会への貢献。イラク復興の人道的支援。非戦闘地帯。アメリカ追従。状況を見きわめる。隊員の安全には配慮する。テロとの戦い。秋が来てそれが深まっていくにつれて、これらの言葉が飛び交う密度はいちだんと濃くなっていった。印象としては、いわく言いがたい奇妙な違和感のある言葉ばかりだった。このような言葉によって、いったいどんな内容のことが、どのような人たちによって、どんなふうに語られ論じられているのか、僕が興味を抱くにいたった最初のきっかけは、僕がどの言葉に対しても感じた、たったいま書いたとおりの、いわく言いがたい種類の奇妙な違和感だった。

 考え抜かれた末のものであれ、ろくになにも考えてはいない結果のものであれ、人の口から他の人たちに向けて出て来る言葉というものは、その人がその問題に関して考えをめぐらせた証拠のようなものだ。こういう言葉で言いあらわされる思考とは、いったいどのようなものなのかという淡い興味を持った僕は、おなじような問題をめぐって自分でも考えてみることにした。考えた結果として、自分にはどのような言葉が可能になるのか。自分でも言葉を使ってみることによって、自分が感じている違和感の内側へ、多少とも入ってみることが出来るかどうか。

 この本に収録してあるいくつかの文章の最初のものには、二〇〇三年十月二十日の日付がある。文字どおりこの日に書いた、というわけではないが、この日付の近辺でまず僕はこれを書いた。誰に依頼されたわけでもなく、どこに対して責任があるわけでもない、自分ひとりだけのために書いてみるという、きわめて個人的な営みとしての文章だ。軽く読めるタイプのほんのちょっとした時評のような文章だ。そのように書きたいと思ったからではなく、こんなふうにしか書けないからという理由で、こうなっている。

 書き始めて僕は面白いことをひとつ発見した。気楽な文章であるとは言え、相手にする領域はたいへんに広い。日本国内だけではなく世界のいたるところで、時々刻々と発生してはただちにさまざまに変化しながら複雑に重なり合う事態、といったものぜんたいをカヴァーしなくてはいけない。ごく基本的な材料を手もとにためておくだけでも、作業としてはかなりの時間を必要とする。これはしかし当然のことだからそれでいいとして、問題はその奥にある。

 世界じゅうで時々刻々と発生しては変化していく事態がどこまでも続くのだから、そのなかに巻き込まれると、そこから出られなくなる。つきあいは際限なく続くから、たとえば文章を書く仕事をそこでするなら、どこまでも書き続けなくてはいけない。書くためには考えるのだから、こういう世界で仕事をする人たちはすべて、考え続けなくてはいけない。時々刻々に合わせて考えるだけでは足らない。そのずっと向こうを正確に見とおす視線で考える必要がある。

 考えることをどこかでやめると、考えを停止したことによってそこから先に発生するマイナスは、借金が雪だるま式に大きくなっていく、というようなことに例えることが出来る。思考を停止した人が最も陥りやすいのは、べきである、べきではないという、すでにその人のなかで出来上がって固定されている価値観によって、すべてを性急に裁断してしまうことだ。その人の価値観はその人の財産であり、少しだけおおげさに言うなら、それはその人の既得権益のようなものだ。これを守ろうとして活用される、べきである、べきではない、という価値観は、持続させることがもはや不可能なほどに効用のつきた制度であり、現在という現実に対して、これほど無力なものはない。


2004年 『影の外に出る──日本、アメリカ、戦後の分岐点』 アメリカ 戦後 日本 日米関係
2016年5月26日 05:30
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