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長いつきあいはまだ続く

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「ピーナッツ」のコミック・ストリップを最初に読んだのは、まだ子供だった頃だ。父親の仕事の関係で、アメリカの新聞や雑誌、そして書籍が、雑多に大量に、いつも自宅にあった。そのような新聞で見かけて、ふと読んでみた。ひょっとしたら日本の英字新聞だったかもしれない。ずいぶん変わったコミックだ、という印象を持ったのを、いまでも僕は記憶している。しかしそれ以上の印象はなく、特に好きになったわけでもなく、ひとまずはそれっきりとなった。「ピーナッツ」という作品世界に対して、僕はまだ幼すぎたのだ。

 次に「ピーナッツ」と遭遇したのは、東京・六本木の星条旗新聞社の、図書館ないしは図書室のようなところだった。アメリカの新聞がいろいろと置いてあり、多くのコミックが連載されているページを僕は好んで読んだ。このときにはすでに、「ピーナッツ」を僕は好きになっていた。絵を追いながら、絵との対照の上で言葉を読んでいくのが、たいそう楽しいのだ。日曜版を別にすると、連載の一回分はごく短い。この小さなスペースのなかに、簡潔さのきわみのような絵とともに、いったいどんなアイディアが提示されているのか、ぱっと見ただけではわからないから、読むほかない。そして読むとじつに面白い。完全に別世界へ連れていかれる。

 日常の現実のなかに身を置いている僕は、ごく短いスペースのなかで、ほんの少しの、しかしものすごく的確な言葉によって別世界へと連れ去られ、そこでひとつのアイディアを提示され、そのアイディアに完全に呑み込まれたあと、現実へと連れ戻される。新聞に連載されるコミック・ストリップは、基本的にはすべてこういうものなのだが、現実の向こう側のずっと遠くまで連れていかれる様子は、ほかのコミック・ストリップにはない特徴であり、提示されるアイディアというほどよい抽象世界の断片の数々は、二十代前半という年齢だった僕にすら覆いかぶさろうとする現実への、ほとんど唯一の対抗手段だった。

 二十代のなかばからその後半いっぱいの頃には、アメリカのフォーセットという出版社のクレストというシリーズから、「ピーナッツ」のアンソロジーが何冊も刊行された。適当に数を揃えては題名と表紙をつけて一冊のペイパーバックにする、という方針のもとに次々に出版された。目につけばすべて買い求め、フリーランスのライターとして忙しく過ごす日々の片隅で、「ピーナッツ」のペイパーバックを僕は好んで読んだ。ひと頃はこのクレスト版の「ピーナッツ」をたくさん持っていたのだが、いまは散逸して一冊もない。インターネット経由でアメリカから全冊を買うことは、いまでも充分に可能だと思う。ふと誘惑にかられるが、『ザ・コンプリート・ピーナッツ』という全集が、年に二冊のペースで刊行中で、全巻完結までにはあと五年かかるという。いま刊行されている「ピーナッツ」を読破するという目標を、まず誰よりも先に自分に対して、僕は宣言したい。新聞に掲載された作品は一点も残すことなく、完全にすべてが収録されるはずの、貴重な全集だ。

 つい先日、『記念日おめでとう、チャーリー・ブラウン』という題名のCDを見つけて手に入れ、収録されている十二曲を、ついさきほど快適に聴きとおした。TVでのアニメーション・スペシャルに音楽をつけているジャズの人たちが作った、「ピーナッツ」四十周年記念のジャズ・アルバムだ。「ピーナッツ」にジャズがよく調和する事実は、すでに二十代の頃に僕は発見している。

 このCDに収録してあるようなジャズ曲は、描写曲や心情曲ではなく、心象をさらにそのずっと向こうまで越えた、抽象的ななにごとかのアイディアを提示している曲だ、と僕は理解している。それはどんなアイディアなのですか、という質問がもしあれば、それに対する回答として、僕は「ピーナッツ」のコミックをあげる。「ピーナッツ」も、ほどよく抽象化された、ほんのちょっとしたアイディアを提示している。CDを聴きながら、僕は思ってもみなかった発見をした。じつはこの僕は、「ピーナッツ」のコミックから、じつに大きくしかも深い影響を受けている、という発見だ。その影響はあまりにも大きくて深いから、当人がもっとも自覚しにくいかもしれないが、僕が書く短編小説は、ほどよく抽象的な、そしてほんのちょっとしたアイディアの提示以外の、なにものでもない。

 僕がもっとも頻繁に「ピーナッツ」を読んだのは、フリーランスのライターとして送っていた、多忙にしてじつは多感な日々においてだった。二十代なかばを起点にするなら、小説までまだ十年の遠さの位置にいた僕は、「ピーナッツ」の提示する抽象性への共感を拠り所にしては、何軒もの喫茶店の片隅で、さまざまな原稿を書いていた。

底本:『気持ちが楽になるスヌーピー』(解説) 祥伝社新書 2011年


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2020年2月21日 11:40
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