アイキャッチ画像

壁面とマネキンの街を歩く

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

「今回はふたりで別々にテーマを持って、おなじ街のなかでともに撮影するというセッションをしました。僕のテーマはマネキンです。一回のセッションでは数多く撮ることは出来ないので、最近のものにストックのなかから選んで加えたもの八点で、ひと組です」

「マネキンは被写体として面白いですか。マネキンそのものをただ見てるだけでは、あまり面白くありませんね。だいたいにおいて平凡で、どうということもないです。これはマネキンですよ、そうですね、それがどうかしましたかといった程度のものですけど、写真に撮ると面白くなります」

「写真に撮ると、現実にウインドーのなかにいるマネキンという物体とは、どこかちがった別のものになるんだ」

「そうです。写真に撮ると、まず光が変わるのです。整理される、と言ったほうがいいかな。日常の平凡な光が、マネキンを中心にして、ちょっとだけ特別なもの、たとえば舞台照明のような光に変化して、そのなかでマネキンが引き立ってくるのです」

「マネキンが立っているウインドーは、舞台なんだ」

「出来あがって来たリヴァーサルを見ていくと、これはこんなふうに撮れたのか、と感銘を受けるショットである場合が多いですね、すくなくとも僕の場合は」

「マネキンにも男と女がいて、日本人と西欧人に大別出来るけれど、きみが写真に撮るのは、どれですか」

「マネキンは圧倒的に西欧白人なのです。アジアやアフリカ系など、要するに白人ではないマネキンは皆無と言っていいです。そして日本人のマネキンは、いなくはないのですが、活躍の場がきわめて限定されています。ですから、ここで言うマネキンとは、西欧白人を模したマネキンのことです。そして男性のマネキンは、写真に撮っても面白くもなんともないのです。面白くなるのは西洋白人の女性です」

「日本人による西洋の白人の、固定パターン的な認識のありかたを、三次元で立体にしたものが、たとえばウインドーのなかにいるマネキンだね」

「顔立ちや体つき、つまりプロポーションだけを模したのではなく、骨盤のありかたや胸のふくらみかたの様子なども、模してあります。十一月の終わりに府中駅周辺でいっしょに撮影セッションをしたとき、商店街のとある洋品店のウインドーのなかで、店主とおぼしき中年の女性が、西欧白人女性のマネキンに、服を着せ替えているところへたまたま僕たちはとおりかかりましたよね。そのときマネキンは上半身が裸だったのです。商店街の通行人にむけて、マネキンの胸のふくらみは、ウインドーのガラスごしに、あらわでした。そのマネキンの胸のふくらみは、西欧白人女性の胸のふくらみそのものでしたよ。胸のふくらみというものは、おおざっぱに言うなら、胸筋の上に乳腺が乗っていて、皮下脂肪とともにふくらみを形成し、そのぜんたいは皮膚で支えられているだけです。垂れるにしろまだ垂れていないにしろ、なんらかの下垂をする運命にあるわけですが、その下垂のしかたが、あのマネキンの場合、思いがけない文脈のなかで眼前につきつけられたまぎれもないエスニシティそのものだったので、僕ははっとなりました」

「マネキンはセクシーですが、エロティックですか」

「マネキンに対してそのようなことを感じる人はいるでしょうけれど、僕にとってはセクシーでもエロティックでもないですね。エロティックと言うなら、生きて温かい血が体内を駆けめぐっているほうがいいし、特に脳みそのなかが問題になりますね。そしてセクシーというのはそのひとつ前の段階です。マネキンは、冷たくて固い、ただの造形物です。さほどシュールリアリスティックでもないですね。日常領域のなかの出来事です。しかし、どこかすこしだけ奇妙なのです。退屈な日常がべったりと連続する商店街のなかを歩いていて、ウインドーのなかにマネキンを見ると、ほっとする気持ちがありますよ」

「マネキンは洋服を着てみせるのだから、西洋白人なのかな」

「日本人の西洋コンプレックスのあらわれだとか、日本人の世界観の極端な狭さを物語るものだとか、いろいろ言うことは出来るでしょうけれど、そういうかたちでマネキンを批判するというのも、ちょっと虚しいですね」

「ウインドーのなかで立ったりすわったりしてるけど、ポーズにはあまり芸も能もない感じがするね」

「奥行きのさほどないショー・ウインドーのなかに、あらかじめ静止して、しかもどこをも見ていない視線を持って、マネキンはあるとき人に抱きかかえられて登場するのです。ダイオラーマになっていると楽しいかな、とも思うのですが。たとえばヨーロッパの石畳の街でいましも市街戦がおこなわれていて、自由を求めて戦っている男女の誰もが、最新の服を着てたいへんにファッショナブルであるとか。ほとんどの場合、マネキンには背景すらあたえられていません。逆から考えるなら、マネキンを一体立てさえすれば、ほかになにもなくても、ショー・ウインドーはウインドーとして成立するということです」

「不気味なマネキンは思わず撮ることがあるけれど、マネキンを特に意識して狙ったことはないなあ。日本じゅうを歩いたらどうですか。日本マネキン紀行」

「マネキンを中心にその左右一メートルくらいのところには、かなり奇妙な世界があることは確かです」

「ほどよく構図を作ってぽんと撮ると、それだけで写真らしい写真が手に入る、というだけのことかもしれないよ」

「僕の場合、それはあるかもしれませんね。これはここの部分をこう撮ってやろうと思って、じっくり構えて撮るという撮りかたではないですから。ウインドーのマネキンは、特定の意図を持って撮らないほうがいいようですね。撮りかたは、いろんなふうに工夫して楽しむことが出来ます。そして工夫するたびに、おなじマネキンでもすこしずつちがって撮れるのです。お写真を拝見したところ、そんなふうになってるとは思えませんが、と言われてしまうとそれっきりですけど。きみの写真教室でマネキン撮影講座を開いてくださいよ」

「マネキンのある部分を、あるアングルからある光のなかで見たとき、頭のなかに喚起されてくるイメージや意味を、きみは写真に撮っているのかもしれない。おそらくそうだと、僕は思うな。造形や雰囲気だけでは、きみは写真に撮らないでしょう。きみの写真は、きみの小説とおなじだもの。撮る写真を見てると、カメラで小説をやってますよ」

「被写体そのもののありかた、造形、あるいは被写体を中心にしたその場ぜんたいの雰囲気、光のあたりかたなどだけでは、僕は満足出来ないのでしょうね」

「場面をさがしてるんですよ。場面とは、イメージではなくて、意味ですよ。そして意味とは、ストーリーのなかのどこか一部分なんだ。マネキンということで言うなら、ウインドーのなかのマネキンは、舞台の役者になぞらえると、見得を切った瞬間がそのまま凍結したようなものなんだね」

「なるほど、そう言われるとよくわかりますね。瞬間が静止していますから、そこから前後どちらの方向にも、イマジネーションがのびていけるのです。前とは、これから来る時のことで、後とはすでに過ぎ去った時間です。時間とはストーリーのことですよ。物語というものは、過ぎ去った時間のことなのですから。イマジネーションが前後にむけてのびていくことの出来るような光景を、僕は好いているのですね。ここからもはやどこへも行きようがなく突き当たりに突き当たってそのままそこで時間だけが虚しく経過していくだけ、というような光景も写真に撮るのは好きですけど」

「それも時間の流れかたのひとつの例であることには、まちがいないのだから」

「きみの今回のテーマである、壁面に話を移しましょうか。なぜ壁面なのですか」

「なにかテーマを持って街に出て撮影しようかというとき、壁面というものが立ちふさがってくるんですよ」

「壁面とは、建物の壁と、その建物を取り囲む塀ですね。どちらもきわめて人工的なものです。つまり、人間が作った人間のものであり、人間そのものと言っていいほどに人間的なものなのです。カメラもまたたいへんに人間的な産物ですから、レンズは本能的に人間のしわざを求め追いかけるのでしょう。しかし、壁や塀そのものだけでは、面白くもなんともないはずですね」

「壁面にはなにかが貼ってあったりくっつけてあったり、あるいは取り付けてある、立てかけてある、寄せて置いてあるのです。貼ったりくっつけてあったものの跡だけが残ってたり。こういった、なにか別なものが加えられた状態のありかたを撮ると言えばいいかな。その場ぜんたいの雰囲気のなかにそれがある、そのありかた」

「僕は意味で撮る人ですね。平凡きわまりない民家の板壁やブロック塀でも、二十年、三十年と時間が経過していくと、一種の雰囲気が生まれて来ますね。過ぎ去った時間の蓄積がそこにあります。その一軒の家で営まれた日常生活の、ほぼ最終的に凝縮された意味のようなものです。たとえばそのブロック塀に、おなじく三十年まえに取り付けられてそのまま時間を受けとめ続けて来たような郵便受けがあるなら、そのぽっかりと開いた口など、僕は撮らざるを得ないですね」

「そういうときには、止まる寸前の時間を見ているんだ」

「時間が蓄積されればされるほど、終わりは近くなっていきますからね。いろんな意味を託されたさまざまな時間が、日常生活のありとあらゆる場所で、生まれたり止まったりしているのです。どうしようもなくせつない、どうでもいいような、まったく取るに足らないよな意味である場合が、圧倒的に多いようですよ。時間というものは、本来はただそこにあるだけで、進みも動きもしないものだとすると、そこに人間が出てくるとそのとたんに、ごく通俗的には、時間は一本の線になって、過去から現在を経て将来へと、流れはじめるのです。建物を作ってそれを塀で取り囲み、その塀にポスターを貼ったりする行為は、デザイン行為であり意味の行為なのですが、そのような行為は線として流れる時間の上に乗ってますね」

「今回の僕が撮ったような写真は、撮る人としてはこれをこういう目的のためにこう撮るのだ、とわかって撮ってるからいいようなものの、そこをたまたまとおりかかった人には、撮っている僕はとても奇異に見えるだろうね」

「なにをしてるのだろうかと思いますよ、きっと。子供がまだ屈託のなさを残している地方へいくと、地元の子供たちによく言われます。おっちゃん、なにしてんねん、けったいなやっちゃなあ、などと。あるいは、なしてそがいなもん撮りよるんじゃ(なぜそんなものを写真に撮るのですか)などと」

「買物のおばさんなんか、本当にけげんそうに見るね」

「かなりの時間が経過しているとおぼしい黒い板塀に、押しピンがいくつか残っていて、ポスターの最終的な残骸としての小さな切れ端がいくつかその押しピンに刺されてとどまっている、という写真を撮りましたね」

「これを撮ったときにも、とおりかかったおばさんが、まったく解せない、という表情で僕を見てた」

「塀や押しピン、そしてポスターに託された意味は、すでにとっくに消えているのですね、すくなくともこの写真のなかでは。しかし、意味が消えてもなお、それは面白いのです」

「せつなく面白いね」

「いまふとアンセル・アダムズの写真を思い出したのです。時間の経過が力強い風格となっているような、分厚い板塀に植物がからんでいるところを撮った、相当に有名な写真作品です。あれも壁面と言えば壁面ですね」

「あの写真の場合は、壁面がメディアのための場所になっていないから、植物やそこに当たっている光の力強さに、木製の塀も力強さとして呼応している」

「メディアというものは、まず必ずと言っていいほどに、なんとも言いようのない寂寥感をともないますね。寂しくてせつなくて、哀れでもの悲しく、明らかにいき止まりで抑圧的で、いくら明るく作っても基調としては暗く、ぜんたいの印象は陰鬱です。日常の街にはメディアがあふれてます。広告ポスターにしろ看板にしろ、とにかくメディアばっかりです。日常の街の陰気な悲しさは、雑多にあふれるメディアのせいなのです」

「マネキンもメディアだよね」

「そうです」

「日常的な街を歩いていて、マネキンが目にとまるとほっとする、とさっききみは言ったけれど、ほっとするのはなぜだろう」

「マネキンでは時間が止まってるからですよ。とにかく流れてくほかない日常の時間と意味のなかで、意味は持たされているけれど、そしてメディアのひとつではあるけれど、マネキンの身の上では時間はじつに見事に静止してます。マネキンに安心感を覚えるのは、そのせいですね」

「静止しているからには、時間は蓄積もしていかない」

「古びて傷んだマネキンや、時代遅れの容姿をしたマネキンというものは、なくはないですけど、基本的に言ってマネキンは流れる時間とは無関係な存在なのです。人のかたちをしているにもかかわらず。日常の街に流れる時間の、最終的な意味のなさと対比するとき、マネキンの時間を越えたありかたは、冷たいけれど美しいですよ」

底本:『ノートブックに誘惑された』角川文庫 1992年

今日のリンク:片岡義男.com「掲載情報|「BRUTUS」森山大道と作る写真特集」


1992年 『ノートブックに誘惑された』 マネキン 写真 時間
2016年2月18日 05:30
サポータ募集中