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リトル・ゴールデン・ブックスを開くと子供の頃のぼくがいる

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 まだごく幼い頃のぼくにとって、大きな謎であったことのひとつは、リトル・ゴールデン・ブックスはいったい全部で何冊あるのだろうか、ということだった。いまでも、本の三方を黄色く塗ったこの小さな本たちを書店で見るたびに、全部で何冊あるのだろうかと、ふと思う。

 リトル・ゴールデン・ブックスは、幼児むけの絵本のシリーズだ。平均して二十四ページくらいの薄い本で、いい感じのボール紙の表紙にはさまれて、かなり不思議な質感にできあがっている。ぼくが幼児の頃すでにあったから、歴史は古いにちがいない。

 ウィスコンシン州のラシーヌにあるウェスタン・パブリシング・カンパニーという出版社が刊行している。日本の洋書店でもよく見かけるから、知っている人も多いだろう。

 背中に貼ってある金色の紙のデザインがすこし変わったかなと思う以外、昔とまるで変わっていない。まったくおなじだ。表紙のボール紙の感じや、つるつるした表面の手ざわりは、すこしちがうかなとも思うが、それはぼくの思いすごしかもしれない。手にとって開くたびにタイムマシーンに乗ってほんの一瞬だけ過去にもどったような錯覚をおぼえるから、昔のまんまのリトル・ゴールデン・ブックスがいまでもつづいていると言っていいだろう。おもての表紙をあけると、その裏側に、「このリトル・ゴールデン・ブックは私のものです」と印刷してあり、自分の名前を書きこむスペースがつくってあるが、これも昔のまんま、すこしも変わっていない。

 いまぼくの手もとに、五十冊ほどのリトル・ゴールデン・ブックスがある。一冊が四十九セントだ。いまのアメリカが体験しつつあるはげしい物価上昇を考えると、リトル・ゴールデン・ブックの四十九セントは、ほっとするような安さだ。子供の頃にはいろんな人たちがプレゼントしてくれたのだが、いまではぼくが自分で買っている。リトル・ゴールデン・ブックスを全部ほしいと思っていた時期があったので、見るとつい手が出て買ってしまう。

 ぼくにとって乳母のような役をつとめてくれていた美しい女の人に、リトル・ゴールデン・ブックスを全部ほしい、と言ったら、あなたにとって重要なのはこの絵本をみんな手に入れることではなく、手に入ったものを最大限に吸収して自分のものにすることです、と英語で諭されたことを、いま思いだした。

 リトル・ゴールデン・ブックスから受けたいろんな影響は、ぼくのなかにいまでもかなり濃く残っている。

 この絵本のシリーズを見るたびに、いわく言いがたい独特の感慨がよみがえってくるから、幼児のぼくにとって、リトル・ゴールデン・ブックスは、かたちの小ささとは反比例した、大きな世界だったにちがいない。

 なにしろほんとに幼児の頃のことだから、自分が持っている現実の世界と、リトル・ゴールデン・ブックスを開くとそのなかにあるファンタジーの世界とが、ちょうど対等につりあっていたのではないだろうか。

 いまのぼくがリトル・ゴールデン・ブックスを開くと、独特の個人的な感慨はあっても、なかに描かれているファンタジーの世界が自分にのしかかってきて、自分をその内部にのみこんでしまうようなことは、もうない。しかし、幼児の頃にはそれがあった。

 自分のものとして持っている現実世界の認識と、絵本を開くとそこにぽっかりと別な空間をつくって待ちかまているファンタジーの世界とが対等につりあい、ファンタジーとも現実とも区別のつけがたい世界が楽しめてしまうという時期が、幼児期にはきっとあるのだろう。

 そして、ぼくにとって、そのファンタジーの世界は、主としてリトル・ゴールデン・ブックスがつくってくれた。

 リトル・ゴールデン・ブックスの内容は、さまざまだ。マザー・グースやベッドタイム・ストーリーズのように、昔からある伝統的な世界がまずひとつの柱として存在し、さらに、ドナルド・ダックやミッキー・マウス、アンクル・リーマス、ウィニー・ザ・プーといった、フェイマス・キャラクターのシリーズがある。そして、リトル・ゴールデン・ブックスのために書きおろされたいろんなオリジナルもある。この三つが大きな柱になっているようだ。

 各作品のコピーライトを見ると、比較的あたらしいものもたくさんある。と同時に、一九四二年とか四七年とかの、古いものも多い。そしてそのどれもが、昔のままに、なんら変更なしに、いまでもひきつづき刊行され、子供たちの手に渡っている。

 昔からある幼児むけの有名なストーリー、たとえば『ベッドタイム・ストーリーズ』のなかの『リトル・レッド・ライディングフッド』や、単独で一冊になっている『ヘンゼルとグレーテル』『ジャックと豆の木』『マザー・グース』など、これまでにすでに無数に近く刊行されている。もうあらたなイマジネーションの割りこむ余地などなさそうに素人は思うけれど、こういう世界こそ腕のふるいどころなのだろう、どの画家もそれぞれに工夫をこらし、不思議な雰囲気の絵をつけている。『マザー・グース』のなかにある、ハンプティ・ダンプティが塀から落ちてしまったあとのありさまの絵など、感心してつくづく見てしまった。パターンにはまったようなはまってないような、一流とも二流とも見当のつけがたい、不思議な技法とイマジネーションによる絵の世界だ。『ベッドタイム・ストーリーズ』の表紙の雰囲気など、ぼくが幼児期に楽しんだファンタジーとも現実ともつかないワンダーランドへの、まさに入口の絵だ。

 寝るまえに幼児たちが昔から語りつがれてきたストーリーズを読んで楽しむという作業は、人として誰もがそなえているべき想像力の充電作業なのではないかという気がする。

 幼児むけのごく単純な辞書のようにつくった何冊かのリトル・ゴールデン・ブックスも、不思議で楽しい。『ハッピー・ゴールデンABC』とか、『リトル・ゴールデンABC』あるいは『リトル・ゴールデン・ピクチャー・ディクショナリー』など、たまに手にとると全ページ読んでしまうぼくは、すこし変わっているのだろうか。

 『リトル・ゴールデン・ピクチャー・ディクショナリー』は、全二十四ページを一ページにつき八コマに等分して、辞書になっている。一九五八年のコピーライトだから、その時代の産物なのだろう。絵が適当に古っぽくていい。誰がどう見たって幼児むきなのだが、お勉強をする気ならこんな本でも馬鹿にできない。

 たとえば、《アンブレラ》(雨傘)の項目には「雨の日に私は傘をさします」と出ているが、この「さします」をなんと言うか。丁寧に何語も使って言うのではなく、一語で間にあわせると「キャリー」なのだ。「一年は三百六十五日です」は、日本ふうだとゼアー・アーとなりそうだけど「一年」を主語にして、一年は三百六十五日を持つ、となる。動詞は「ハズ」だ。もちろん、ゼア・アーでもかまわない。五合がふたつで一升です、というのはなんと言えばいいだろう。《クォート》の項目には「パイントがふたつでワン・クォートです」とある。ワン・クォートのなかにはパイントがふたつあります、と言えば英語そのままになる。このときはゼア・アーだ。タコには八本の「脚」がありますと日本語では言うが、英語だと普通はアーム(腕)だ。おさいほうの針の穴に糸をとおす行為をひと言でなんというか。糸という名詞を動詞につかって、スレッドがそのまま糸をとおす行為の言葉になる。すでによく知っていることをリトル・ゴールデン・ブックスで確認しなおす作業は、ぼくにはなぜかとても楽しい。

『ブックストアで待ちあわせ』新潮社 1983年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『自分を語るアメリカ』太田出版 1995年

今日のリンク: Little Golden BooksGolden ABC

▼ハッピー・ゴールデン・ABC(1972)


1983年 1995年 『ブックストアで待ちあわせ』 『自分を語るアメリカ』 エッセイ・コレクション リトル・ゴールデン・ブックス 子供 少年時代 片岡義男エッセイ・コレクション『自分を語るアメリカ』 絵本
2016年4月23日 05:30
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