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美しい謎の霧子はどこへ消えたのか

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 霧子は完璧だった。彼女自身にとって、そして彼女の相手となる人にとっても、まったく負担にならない性質の、たいへんな美貌だった。控えめでもの静かで、冷静そうな雰囲気は、頭やセンスの良さの当然の反映だったにちがいない。姿は素晴らしく、うしろ姿が特に良く、ふりかえるとさらに良いという、恵まれた女性だった。

 涼しげな声はたとえば僕のなかのどこかにいつまでも余韻を残した。優しい笑顔や白い指の動き、身のこなし、歩きかた、髪のつくりなど、すべてが美しく統一されていた。ぜんたいの感触は限りなくさらさらしていて、僕はけっして接近をはかったわけではないけれど、もし接近したなら、そのつどそのぶんだけ確実に遠のく、夢ないしは幻のような人だった。

 とにかく霧子は素晴らしかった。僕が馬鹿な大学生だった頃、彼女は僕より四つほど年上で、大学の近くの JR 駅 からの通学路に面した小さなバーのホステスだった。野暮でむさくるしい学生街の、なんの変哲もない小さなバーで、なぜ彼女は単なるホステスをしていたのだろうか。なぜ彼女ほどの人がそのときそこにいたのだろうか。

 いまとなっては解きようもない謎は謎のままだが、そのバーへいけば霧子がいたので、僕はよくそのバーへいった。ひとりで、あるいは仲間といっしょに、かよった。酒は飲めないしさほど好きでもないが、霧子に会えるという理由だけで、僕はそのバーにだけは何度も入った。

 当時の僕は下北沢に住んでいた。そこから歩いていけるところに、霧子も住んでいた。送っていったことがあった。下北沢ではよく会った。映画や夕食は何度もともにしたし、ある年の夏には仲間が外房に借りた家へ彼女を誘ってでかけ、一週間ともにいた。

 しかし霧子の場所はバーのカウンターのなかだった。思い出す霧子は常にカウンターのむこうだ。カウンターの内部はすこし高くなっていて、ストゥールにすわっている僕の目の位置は、彼女のひそやかに形の良い胸とおなじだった。カウンターの僕は、霧子を、浅い角度ではあるけれど、常に見上げる位置にいた。この位置は唯一の正解だったのだと、いまにして僕は思う。

 霧子はいつでも優しく話し相手になってくれた。完全に成熟した美しい大人の女性であった彼女にとって、僕は出来の良くない中途はんぱな弟でしかなかったはずだが、なぜ彼女はいつも僕の相手をしてくれたのか。その彼女に僕は酒を注文する。彼女はバーテンダーに伝える。バーテンダーが作る。そしてそれを霧子が美しく僕の手もとに置いてくれる。平凡をとおりこして普遍に達しているようなスコッチのオン・ザ・ロックスだ。いまでもスコッチのオン・ザ・ロックスをごくたまにひと口飲むと、霧子のすべてを僕はいっきに思い出し、僕の頭のなかは霧子の渦でいっぱいになる。

『ノートブックに誘惑された』角川文庫 1992年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 1996年


1992年 1996年 『ノートブックに誘惑された』 下北沢 大学生 女性 美しい 霧子
2016年6月11日 05:30
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