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君はなぜ恋しいか

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 歌謡曲、あるいは流行歌、どちらでもいいけれど、もの心についてから現在にいたるまで、僕はそれらとどのような接触を持っただろうか。もの心ついてから現在にいたる期間は、日本の戦後五十数年という期間そのままだ。

 幼時から子供の頃をへて少年時代の終わりまで、日本はラジオの時代だったようだ。どこの家庭にも、というわけにはいかなかったかもしれないが、家庭にはラジオがあった。人々はそのラジオをとおして、たとえばそのときどきの流行歌を受けとめた。レコードとその再生装置は、ラジオにくらべると、数はまだずっと少なかった。もはや戦後ではないという宣言が、日本政府から出る頃までは、そうであったはずだ。

 町ではほとんど常にラジオが聞こえていた、という記憶が僕にはある。ラジオ店、つまりいまで言う家庭電気製品の販売店では、ラジオがかけっぱなしになっていた。その音は道を歩く人たちに届いた。それは当時の人たちにとって、うれしいことだったようだ。

 時代が進むにつれて、ラジオ店だけではなく、八百屋でも魚屋でも、蕎麦屋でも喫茶店でも、ラジオは鳴っているようになったのだと、僕は推測する。そのようなラジオから、そして大人たちの鼻歌をとおして、戦後すぐの時代にヒットしたいくつもの流行歌が、幼い僕にも届いた。「異国の丘」「かえり船」「星の流れに」「夢淡き東京」というような、戦争をまだかなり直接に引きずった歌を、聞けばわかるという程度にはいまも僕ですら知っているほどに、それらの歌はいたるところにあった。歌詞の断片を知っていたりもする。人々は明らかに歌を必要としていた。

 ラジオはやがてTVに替わった。僕は子供の頃からTVを見ていない。いまでも見ない。TVから発信されていることに関して、僕はなにひとつ知らない。ラジオがTVに替わってから、流行歌が身近に届いてくる頻度が減ったのではないかと僕は思う。大学生の頃よく出入りした場所、たとえば喫茶店では、レコードによるクラシカル音楽あるいは洋楽のヒット・ソングが、聴こえていた。いつの間にかラジオの音が届かなくなっていた。

 とはいえ、ヒットした流行歌はどれもみな、まだ全国民的にヒットしていた。ヒットした歌はほとんど全員が知っていた。だから人々の鼻歌にそれは登場したし、場所によっては、たとえば バーやナイト・クラブでは、歌謡曲は必需品だった。ひとつの歌がヒットするのは、社会的な出来事だった。日常という雑多な世界のなかに、ヒット歌謡がなんとなく届いてくる経路たくさんあった。どこのどのような経路をへたものだったのか、いま特定することは不可能だが、驚くべきことに僕は『おはなはん』というTVドラマの主題曲の、出だしの数小節を知っている。寅さん映画のメイン・テーマも知っている。

 歌謡曲や流行歌との、僕にとって唯一のきちんとした接点は、全音出版というところから刊行されていた『歌謡曲全集』だった。大学生の頃から始めて十年近く続けた趣味として、僕はその『歌謡曲全集』を買っては楽譜を読むことを、好んでおこなった。シングル盤で出た歌謡曲をかたっぱしから収録していき、一定の数に達したなら本にして刊行するというような方針の、たいへんに貴重な資料となり得る本だった。基本メロディだけの譜面に、簡単なコードと歌詞が添えてあった。

 この全集を、第一巻から買ってきて楽譜を読むという趣味を、僕は大学生のときに始めた。僕の知るかぎりでは、この全集は六十巻くらいまで出た。いまでもなんらかの形で継続されているかもしれない。いい歌、つまり自分が気に入ることのできる歌に出会うのは、たいそう楽しいことだった。自分で歌ってみる。歌詞をいつのまにか覚える。歌舞伎町のまんなかでもきちんと学割のきいたバーで人に歌って聴かせると、誰もがどの歌も知っていた。

 レコードで聴きたくなると、レコード店へいって僕はその歌のシングル盤を買った。歌のタイトルを店員に告げると、ああ、それは誰それの歌ですよ、とすぐに教えてくれた。その歌手のシングル盤のなかからその歌の盤を見つけ、買って帰って聴いてみる。そのようにして聴いたどの歌手も、歌がたいへんにうまかったという記憶が僕にはある。 

『歌謡曲全集』で知った歌のなかで、時代的にもっとも遠くまでさかのぼることができるのは、手もとに資料を持たないまま記憶だけで言うと、「君恋し」という歌ではないかと僕は思う。コードはそのままメロディであり、歌詞はメロディと見事に一体である、というような出来ばえの歌だ。この歌を譜面で最初に見たとき、これはじつに良くできたフィクションだ、これは傑作だ、と僕は思った。歌詞から判断して、ずいぶんと昔の歌なのだろうということはわかるが、それ以上にはなにも知らないまま、僕は「君恋し」のレコードを買いにいき、フランク永井を教えられ、彼の歌として僕は「君恋し」を聴いた。

 そのときは、そこまでで終わった。「君恋し」という歌を発見したけれど、それ以上のことは起こらなかった。いまになってようやく、この文章のために少しだけ勉強してみると、「君恋し」は一九二六年の歌だったことがわかる。二村正一という人が最初に歌った、ということだ。ヒットしたのは浅草オペラの高井ルビーによるもので、SP盤で二十万枚を売ったという。レコードが日本で十万枚を超えて売れたのは、これが初めてのことだったそうだ。

 一九二六年。いきなり年号だけ出てきても、なにもわからない。自分の生年からさかのぼって見当をつけようとしても、それは遠すぎる。年表を見るほかない。一九二六年は大正十五年だ。そしてその年は昭和一年でもある。一九二九年にはアメリカで株式市場が大暴落し、歴史始まって以来の不況となった。その影響は日本にも届いた。もっとも象徴的だったのは、生糸の値段が暴落し、まるで売れなくなったことだ。

 当時の日本からアメリカへの、唯一と言っていい輪出品は生糸つまり絹だった。アメリカという市場で絹が大量に売れたという事実は、そのときの日本というシステムに、そしてその後のそれに、決定的な影響をあたえた。ついでに書いておくと、不況とは多くの人が食えなくなることだ。多くの人が食えなくなることをとおして、自分のとこには多くの人がいるのだという事実を、国家は自覚していく。その多くの人の食いぶちのために、国家は外に向けて軍事的に拡張していった。一九三一年には満州事変が始まった。

 一九二八年、十八歳未満の男女のダンス・ホールへの出入りを、日本は国家権力で禁止した。ダンス・ホールはすでに流行であったこと、そしてそこへ十八歳未満の男女が多く出入りしていたことを、年表の簡単な記載は教えてくれる。一九三〇年には「エロ・グロ・ナンセンス」という言葉が流行した。一九三一年には新宿にムーラン・ルージュが出来たし、日本で最初のトーキー映画が公開された。東京という都会が、さらにいちだんと都会的になっていく拡張が、動かしがたい底流としてそこに存在していたことは、間違いない。

『ミュージック・マガジン』に連載されていた細川周平さんの、「日本の芸能100年」によると、「君恋し」という歌は、最初は妻を追悼する歌だったという。歌詞はリアルで、それゆえにつまらないものだったそうだ。つまらないとは、妻の追悼歌というリアルな枠ゆえに、都会的なイメージの情緒的な広がりを欠いていた、ということだ。時雨音羽は、妻をカフェの女給というフィクションに、置き換えた。カフェの女給の恋愛感情は、当時の人々にとって、もっとも新しい都会情緒というフィクションだった。その「君恋し」は、だから二十万枚売れた。「君恋し」のキーはGマイナーだ。そうか、Gマイナーなのか、と僕は思う。構成はAABA。コード進行はそのまま曲であり、”君恋し”という主題がさびとなる部分では、GマイナーはGセヴンスとなる。そのことによってカタルシスがもたらされ、解放が生まれた、と細川さんは書いていた。それまではGマイナーにからめ取られていたものが、セヴンスで解き放たれた、ということだ。

 いくつかの重要な意味で、「君恋し」は日本のヒット流行歌の見本だ。記念すべき作品だ。その時代でもっとも先端的だった都会的な情緒、というフィクション。そのフィクションの、イメージとしての純度の高さ。その高さゆえの、カタルシスの強さ。そのようなものすべてが、「君恋し」のなかには、見事に揃っている。無用のものとして大衆が退けるまでは、ヒットする歌謡曲にとってそのようなものは、なくてはならない核だった。

(『音楽を聴く』第3部「戦後の日本人はいろんなものを捨てた 歌謡曲とともに、純情も捨てた」1998年所収)

今日のリンク

二村定一「君恋し」(1928年/昭和3年 時雨音羽・作詞 佐々紅華・作曲)
フランク永井「君恋し」(1961年/昭和36年)

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1998年 「戦後の日本人はいろんなものを捨てた─歌謡曲とともに、純情も捨てた」 『音楽を聴く』 昭和 歌謡曲 音楽
2016年7月12日 05:30
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