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きまぐれ飛行船

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『ドント・エクスプレイン』という歌について書こう、と思った。ジャズ・ヴォーカルのスタンダードのようになっている曲だ。二語だけで出来ているこのタイトルを、どんなふうに日本語訳にすればいいのだろうか。意味だけをとって、ごくつまらなく日本語にするなら、「言い訳はやめて」とでもしておけばいいだろう。もっと意味の深い、洒落た言い方ができそうにも思うのだが、いまはまだ思いつかない。

 ヘレン・メリルがこの歌をうたっているLPをぼくは持っているから、ヘレン・メリルの歌で聴きなおし、それからこのみじかい文章を書こう、とぼくは思った。

 たくさんあつまってしまったジャズのLPのなかの、ヴォーカルものがひとかたまりになっているところをさがしてみたら、ヘレン・メリルのこのLPが見当たらない。

 ほかのところにまぎれこむことはまずないのだが、ジャズのLPぜんたいのなかをさがしても、出てこなかった。

 FMの番組『きまぐれ飛行船』のために使ったまま、スタジオのロッカーに置きっぱなしなのかと思い、番組の収録の日にロッカーをさがしてみたが、見つからなかった。その日、帰りみちにレコード店に1軒だけ、寄ることができた。新しくできたばかりの、大きなレコード店なのだが、ストックの状態はめちゃくちゃで、ヘレン・メリルは区分けの仕切り板すらなかった。

 この『ドント・エクスプレイン』を、ビリー・ホリデーの歌で、ぼくは、はじめて知った。ビリー・ホリデーのLPはぜんぶ友人に貸したままだ。ほかのジャズ・ヴォーカリストのLPがたくさんあるのだが、なぜだかその誰もが『ドント・エクスプレイン』はうたっていない。

 どうしようかと考えていて、ふとジュリー・ロンドンのことを思い出した。『ベスト・オブ・ジュリー・ロンドン』というタイトルのLPのなかで彼女がこの『ドント・エクスプレイン』をうたっていたはずだ、とぼくは思った。

 さっそく、ジュリー・ロンドンのLPをあたってみると、『ベスト・オブ・ジュリー・ロンドン』はすぐに見つかったが、彼女は『ドント・エクスプレイン』はうたっていなかった。『ベスト・オブ・ジュリー・ロンドン』に入っているのは、『ゲス・フー・アイ・ソー・トゥデイ』という歌だった。

 この歌を、ぼくは『ドント・エクスプレイン』とかさねあわせ、とりちがえていた。

『ドント・エクスプレイン』と『ゲス・フー・アイ・ソー・トゥデイ』とは、よく似ている。両方とも主人公は人妻だ。その人妻が、自分の夫がおこなっている浮気の確実な証拠と言っていいようなものを手に入れ、心のなかに波紋が広がっていく、というストーリーの歌だ。

『ドント・エクスプレイン』のほうは、ある日の夕方、仕事から自宅に帰ってきた夫のシャツのえりに口紅がついているのを妻が見るところから、はじまっている。私にはすべてわかっているのだから、言い訳だけはやめてちょうだい、というような終わり方をしている歌だ。

『ゲス・フー・アイ・ソー・トゥデイ』は、「今日、意外な人を見かけたのよ。誰だと思う?」という意味のタイトルが示すとおり、昼間、町へ買い物に出かけた人妻が、出かけたさきで自分の夫を見かけるのだ。夫は見知らぬ若い女性を連れていて、ほの暗いカフェの片隅で、いかにも恋人たち、という感じで楽しそうにしている。ショックを受けて自宅に帰ってきた彼女は、夜になって帰宅した夫に「ゲス・フー・アイ・ソー・トゥデイ」と、心のなかで問いかける、というしかけの歌だ。

「ゲス・フー。ゲス・フー」とくりかえす部分が、せつない感じをうまく出していて、『ドント・エクスプレイン』という歌と、ぼくの記憶のなかではよく似ている。

 ヘレン・メリルの『ドント・エクスプレイン』は手もとにないまま、ジュリー・ロンドンの『ゲス・フー・アイ・ソー・トゥデイ』を、いまこれから、聴きなおしてみよう。聴いているあいだ、休憩のコーヒーを飲もうと思う。

 聴きおえ、半分ほどコーヒーの残ったマグを持ち、ぼくはライティング・デスクにもどってきて、この文章のつづきを書きはじめた。

 よく出来た歌を、ジュリー・ロンドンは非常にうまくうたっている。出だしのところなど、泣かせる。彼女の声の質、その声の出し方、うたい方の雰囲気、情感のあり方など、こういった歌にもぴったりだ。

「今日は、遅かったのね。いつもの電車に乗りおくれて、時間がかかってしまったのかしら。雨に降られて、雨宿りでもなさっていたの? いいのよ、説明なんかしてくれなくたって。マティニでもつくりましょうか。そうね、私もいっしょにマティニをいただくわ。あなたは遅くまで会社でたいへんだったみたいだけど、今日は私もたいへんだったのよ」
 というふうに、この歌は、はじまっていく。

『ドント・エクスプレイン』とおなじように、この歌のなかでも、一個所だけなのだが、エクスプレインという言葉が使用されている。この、エクスプレイン、という言葉のところにさしかかると、反射的に、『ドント・エクスプレイン』のことを思ってしまう。

 昼間、この人妻は、町へ買い物に出た。すこしお腹がすいたので、なにか軽く食べようと思う。車をとめた近くに、小ぢんまりしたフランスふうの素晴らしいカフェがあったことを思い出し、そこまでひきかえす。

 カフェに入る。ほの暗い奥まった席に、ウェイターは彼女を案内する。あたりに目がなれてきて、ふと見ると、知らない若い女性を連れた自分の夫がいるではないか。

 ショックにぼうぜんとなりながら、彼女は席を立ち、店を出ていく。夫と、その連れの女性は、彼女に気がつかない。

 描写してうたってある情景は、ここまでだ。くどくどとうたってはいない。簡潔に、すっきりとした出来上がりになっている。

「ゲス・フー。ゲス・フー」とくりかえしている部分があると、さきほどぼくは書いたが、くりかえしの部分はタイトルの文句である「ゲス・フー。アイ・シー・トゥデイ」がそのままぜんぶ、二度くりかえしてあった。そしてそのあと、「アイ・ソー・ユー」というひとことが来て、この歌は終わる。じつは私が見かけたのは、あなただったのよ、というわけだ。

『ドント・エクスプレイン』と『ゲス・フー・アイ・ソー・トゥデイ』に共通しているものとしてぼくの興味をもっとも強く引くのは、夫の浮気を知った人妻の悲しみが、じつにきれいに澄んでいる、ということだ。心にあいた風穴はたしかに虚ろで悲しいのだが、その悲しさには、にごった部分がすこしもない。

 言い方をすこし変えるなら、夫の浮気を知っても、彼女は、まったく取り乱さない。泣きわめいたりしない。ヒステリーをおこしたりしない。子供に当たり散らしたりしない。信じていたのにだまされた、などとは、けっして言わない。

 夫の浮気を知って彼女の心におこってくる反応は、まったく逆なのだ。彼女は、りりしくひきしまる。すっきりと緊張する。悲しみは、静かに澄みわたる。つまり、自分の存在というものを、以前にもまして堅牢に、意識化する。日本の女性なら、自分の存在などたちまちにしてしどけなく四散してしまうのだが、そんなことはぜったいになく、そこがとてもいい。

『ターザンが教えてくれた』角川文庫 1982年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 1996年


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2016年1月31日 05:30
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