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自分とはなにか

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 自分とは、生まれてから現在まで生きてきた、そしていまもこうして生きているこの個体である、という言いかたは、確かに事実の一面を言いあらわしている。では、その個体は、いま、なになのか。こういう質問にはどう答えればいいのか。ですからいまの自分はここにいるこの私です、というような答えでは、らちは明かない。

 自分とは記憶である、としか言いようはないだろう。生まれてから現在までのあいだに体験したこと、つまり頭のなかや体のなかに入って、いまもそこにとどまっているものすべて、それが自分だ。そのような記憶に関して、自覚のあるないは問わない。すっかり忘れていてもいっこうに構わない。なにかきっかけがあれば、記憶の層の底から射出されたかのように表面にあらわれ、なんらかのかたちで自分を手助けしてくれるものであれば、それでいい。

 記憶だけでは、しかし、それは過去の単なる記録にすぎない。しかも記録としてはほとんどあてにならないほどに、不正確で曖昧だ。いまの自分をめぐって、なにに、どのようなかたちで、それは役に立っているのか。現在のその人にとって、欠かすことの出来ない能力や機能として、記憶は役立っているのかどうか。記憶はその人の現在にどのように寄与しているか。

 豊かないい体験に恵まれていれば、それらは後日、いつかどこかで、かならずや、その人にとって好ましい能力の土台となるのではないか。この意味では、自分とは、生い立ちや育ちの質以外の、なにものでもあり得ない。生い立ちや育ちという過去の体験がいまの自分であり、その自分とは、過去の体験の蓄積つまり記憶のなかから引き出されている、能力や機能のしかたなのだ。

 自分で考える力。なにかを考え出す力。考えをまとめて方向を見つけ出す力。それを実行に移す能力。そしてその過程のなかで、なにごとかをひとつまたひとつと、達成させていくという機能のしかた。自分とは、こういったことのぜんたいだ。これ以外のところに自分はあり得ない。自分という問題をめぐって、人々のあいだで多用されている言葉、たとえば自分探しという言葉が、いかに本質から逸脱しているか、よくわかるではないか。自分というものが、完成されたかたちで丸ごとどこかに転がっていて、それを見つければそれが自分になるという。探して見つかる自分があるとすれば、それは記憶をすべて入れ替えて作るサイボーグのような自分だ。

 人は時間のなかでいろんな体験をする。経過し続ける時間は、じつは体験そのものだ。どこでどのように経過した時間のなかに自分はいたか。これでおそらくすべては決定される。この体験という性質の時間が、数えきれないほどの無数の、しかも不定型な層となって記憶のなかにある。とんでもない層の、とんでもない箇所にある、まったく関連のない数多くの点どうしが、なにかの必要をきっかけにして一瞬のうちに結びつき、それまではなかった新たなアイディアとなってその人を手助けするとき、一瞬のうちになされるそのような数多くの記憶の結びつきは、閃きとなる最小単位でとらえるなら、なにかを作り出していく発端として機能するこの閃きこそ、自分自身と呼べる唯一のものではないか。

底本:『自分と自分以外──戦後60年と今』NHKブックス 2004年


2004年 『自分と自分以外ー戦後60年と今』 時間 自分 過去
2016年3月20日 05:30
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