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僕の国は畑に出来た穴だった 1

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この作品は、『日本語の外へ』「第2部 日本語──ペシミズムを越えようとしていいのか」
に収録されたものです。

 僕はいま一枚の写真を見ている。八十センチ四方ほどの大きさにプリントされた、黒白の航空写真だ。ニメートルほどの距離を置いて画面のぜんたいを眺めると、ディテールのなかなか鮮明な写真だ。プリントのしかたに注意を払い、範囲をもっと狭くしぼり、これの四分の一ほどのサイズにプリントしたなら、細部はもっと克明に浮き上がるのではないか。昭和二十二年十一月七日の午後、おそらく二時から三時頃にかけて、上空から撮影されたものだ。

 占領した日本を統治していくにあたって、GHQは膨大な基礎資料を整える作業をおこなった。たとえば戦後の日本全土を飛行機から写真に撮影し、重要な基礎資料の一部とした。文字どおり全土を、くまなく撮影しつくしたのだ。僕がいま見ているプリントは、そのような写真のネガからプリントしたものだ。撮影された当初は米軍にとっての軍事的な資料だったはずだが、いまではとっくにそのぜんたいが公開されている。位置と範囲を指定し、自分がもっとも希望している撮影年月日に近いものを選んでリクエストすると、それはじつにあっけなくかなえられる。なにかをするにあたって、情報を収集し蓄積させて機能的に管理し、正しく解読して有効に使用していくというシステムの機能力は、日本とアメリカとのあいだでは昔もいまも馬鹿ばかしいほどに格段の差がある。その格段の差に、いまでは公開度の差が加わっている。

 僕がいま見ているその航空写真の右端は、上から下まで瀬戸内海の海だ。上空からとらえた海の、黒白のプリントにおける色には、僕の視線を引きつける力がある。その海に沿って、上から下まで、今津川の河口につながる海岸線だ。その今津川が画面の下を左から右へと横切っている。画面の右上から左下に向けて、山陽本線がのびている。昔の国鉄の、いまの言葉では在来線などと呼ばれる線路の、地形に則した結果から生まれてくる必然としてのカーヴをたたえたのびかただ。地形や線路、そして道路などのごく基本的なありかたは、昭和二十二年と現在とのあいだに、さほど大きな変化はないはずだ。

 昭和二十二年十一月七日に撮影されたこの航空写真のなかに、僕がいる。この年のこの月、この日のこの時間、この航空写真がとらえた範囲のなかに、まず間違いなく僕はいた。僕はここにいました、と指先で一点を示すことが出来る。まだ就学以前の幼さだった僕が、住んでいるとも滞在しているとも言いがたい、そのどこか中間のような状態でいた家を、この航空写真はとらえている。

 当時の国鉄岩国駅は画面の中央にある。ひと目でそれとわかる。駅からその家まで歩くとき、あるいは家から駅まで歩くとき、妙にまっすぐな幅の広い道をかなり長く歩いた、という記憶がある。これがその道かな、と僕は黒白の写真のなかから一本の白い筋を選び出す。その筋を画面の右上に向けてたどっていくと、「あの家がここに映っている」と自分に言いながら、僕はその家を指先で押さえることが出来る。

 四倍のルーペでのぞき込むと、かなりぼけた写真であることがわかる。しかしそのぼけ具合のなかにもディテールを読み取ることは可能だ。そしてそのディテールのひとつひとつが、僕の記憶のなかのディテールと重なっていく。記憶の曖昧な部分、あるいは不正確な部分を正しく修正してくれるほど、写真のディテールは鮮明だ。

 駅からのまっすぐな道を右上に向けてたどっていくと、その道は一本の川と合流する。潮の干満に合わせて、その川も満ちたり干いたりしていた。人々はその川を入り川と呼んでいた。合流地点には橋がある。しかしその橋は渡らず、川の東側にぴったりと沿い始めるその道をなおもいくと、ふたたび橋がある。この橋を渡る。橋の下、東側の水面に橋の影が出来ている。その影をルーペごしに見る僕は、あの頃のこの地方で体験した、十一月初旬の気候の感触を、全身の感覚のなかに思い出す。陽ざしは淡く斜めだ。寒さとしては、もう冬かなあ、と思う程度でしかないが、その寒さにはくっきりとした透明な直接性が満ちていた。思い出すそのような気候感のなかを、いまの僕がルーペごしの視線で歩いていく。

 道は橋を越え川の向こう側にまわり込む。川に面して家なみがあり、やがてその道は山陽本線の下をガードでくぐる。橋からそのガードまでのあいだの家なみのまんなかあたりに、当時の僕がいた家がある。僕の祖父がハワイから帰国し、故郷に錦を飾ったその錦の一例として建てた家だ、と僕は聞いた。上空から見る家なみのなかではいちばん大きい。家のすぐうしろは、老齢な中国山脈のあの優しげな山裾だ。雨の季節には土砂崩れが危険だ。細かく砕かれた花崗岩という土質と、その上に積もった松葉の匂いが独特だ。その山裾に向けて、家の建物は中庭を抱き込んで「コ」の字になっている。農家ではないし商家でもなかったから、町家の一種だろう。子供心にも使い道のよくわからない、不思議な家だった。二階から外の道を見下ろす部屋のひとつが、僕の部屋だった。窓から屋根へ出て、屋根の縁から電柱を伝わって道へ降り立つ、というのが僕の得意なコースのひとつだった。

 昭和二十二年、一九四七年、幼い僕がいた家の周辺を、四倍のルーペごしの視線となって、僕は歩きまわる。その視線は、いまの僕だけのものではなく、当時の僕のものであるようだ。山陽本線のガードは懐かしいというよりも現在そのもののような気がする。線路はスロープの上にあり、このスロープは全線にわたって子供たちの絶好の遊び場だった。列車の通過を狙って線路に釘を置いておくと、通過したあとその釘はものの見事に平たくなっていて、子供にとっては財産となった。川にかかる短い鉄橋の、線路の下にある鉄の桁や柱につかまって体を小さくし、頭上を貨物列車が轟々と通過していくのを体感する、という遊びもよくおこなった。

 航空写真の画面を斜めに横切る山陽本線の上に、列車はいないだろうかと思った僕は、右上から左下まで、ルーペごしに線路をたどってみた。二階の僕の部屋から、スロープの上を走る列車がよく見えた。窓辺で待っていると、いつだってほどなく、蒸気機関車に牽引された列車が走って来たものだった。しかし航空写真のなかには、走る列車はとらえられてはいなかった。岩国駅には貨物列車が停車している。貨車の数を数えることが出来る。二階の窓から見る貨物列車の貨車の数を、僕はよく数えた。ひっきりなしにと言っていいほどに、貨物列車が走っていた。貨物列車とは、物流にほかならない。昭和二十二年の日本では、早くも貨物列車がひっきりなしに走っていた。岩国駅から今津川に向けて下ったのち、画面の左上に向けて方向を変え、岩徳線がのびていく。この汽車にも錦帯橋へいくために僕はしばしば乗った。航空写真のなかには岩徳線の列車もとらえられてはいなかった。

 テーブルの上に広げて見ていた航空写真を、僕は押しピンで壁の低い位置に止めた。二メートルほど離れて写真と向き合い、僕はフロアにあぐらをかいてすわった。僕の正面に昭和二十二年十一月の岩国駅が見える。駅のすぐ南側には操車場が見える。線路が何本もある。この操車場の転車台で蒸気機関車が向きを変えるのを、飽きることなく眺めたことを僕は数十年ぶりに思い出した。僕はルーペでその転車台を探した。すぐに見つかった。やや白く映っている丸のまんなかに、まっすぐに太い直線のあるこれが、あのときのあの転車台だ。一般の公道から操車場の敷地に入るまでもないすぐのところに、その転車台はあったのだ、といまの僕がルーペの倍率の彼方で思う。

 駅と操車場を中心にしてその周囲には畑が広がっている。畑の作付けの様子まで、写真のなかにはっきりと見ることが出来る。そしてその畑には、小さな黒い丸がたくさん散っている。規則性があるようなないような、奇妙な散りかただ。岩国駅と操車場をあいだにはさんで山陽本線の両側に広がる畑の、ある一定の範囲内に、黒い小さな丸の散乱は集中している。その意味では、黒い小さな丸点の散りかたには、規則性があると言っていい。

 この黒い小さな丸のひとつひとつは、爆弾の爆発によって出来た穴だ。一九四五年八月十四日、つまりあの戦争が終わる前日、マリアナから飛んで来たアメリカの第二十航空軍の、B–29という爆撃機の編隊が落としていった爆弾の炸裂が畑に作った穴だ。

 B–29による爆撃を岩国は五回にわたって受けたという。一九四五年の五月十日、七月二十四日、二十八日、そして八月九日と十四日だ。第二十航空軍が公式に発表した資料を見ると、五月十日には八回の出撃が記録されている。そのうちのひとつでは、大島の燃料庫と呉の海軍工場とに、八十八機のB–29が爆撃を加えている。五月十日の岩国空襲とは、おそらくこれのことだろう。七月二十四日には川西の宝塚工場と桑名が、おなじく八十八機のB–29で爆撃を受けている。川西とは、今津川の西側にある工場地帯だ。

 七月二十八日の岩国空襲は、第二十航空軍の資料には見当たらない。僕の調べかたが不徹底なのかもしれない。八月九日の爆撃記録も見つからない。そして八月十四日には、じつに百十五機のB–29が、四千七百メートルから五千五百メートルという高度から、麻里府操車場に爆弾を落とした。操車場のあるあたりは、いまでも麻里府という。僕が壁にピンで止めていま見ている昭和二十二年十一月の航空写真のなかで、駅と操車場を中心に散っているたくさんの黒い小さな丸点は、この八月十四日の爆撃によるものだ。

 昭和二十年に撮影された航空写真だけを見ると、投下された爆弾は駅にも操車場にもほとんど命中していず、その両側の少しだけ離れたあたりに、集中的に落下したように見える。当てようとした操車場にはぜんぜん当たってないじゃないか、という見かたはまったく間違いだ。昭和二十二年というと、敗戦から二年が経過している。鉄道に受けた被害は、このときすでにすべて修復されていたはずだ。だから鉄道には丸い小さな黒い点はひとつも見えない。鉄道を中心にしてその両側に向けて、爆弾の穴は次々に埋め戻されたに違いない。だから昭和二十二年の航空写真には、操車場の両側の畑のなかにしか、爆弾の穴はない。

 日本の各地に爆撃を加えているさなかあるいは爆撃直後に、米軍によって撮影された航空写真もいまでは公開されていて、珍しくもなんともない。日本の出版物のなかでも、そのような写真を嫌というほどに見ることが出来る。たとえば『米軍が記録した日本空襲』(草思社)には、岩国の麻里府操車場に爆撃が加えられた直後の写真が掲載されている。

 それと知らなければこれがどこなのかまずわからないだろう。なにを写した写真なのかすら理解出来ないのではないか。いま僕が見ている昭和二十二年の航空写真と照合させると、これはまさに上空から見た爆撃直後の麻里府操車場だ。駅と操車場には大量の爆弾が命中している。その周辺一帯も、無傷の地表はほとんどないほどに、重なり合う爆弾の穴でびっしりと覆われつくしている。百十五機のB–29が積めるだけ積んで来た爆弾を、ひとつの駅とその操車場を狙ってばら蒔けば、その結果はこうでしかあり得ない。爆撃は午前十一時十五分から始まり、三十分続いたという。駅の国鉄職員や汽車を待っていた人たちを中心に一千名以上の死者が出て、遺体の処理が終わったのは十日後つまり八月二十四日だったという。

 操車場の南側に広がる畑のなかに、僕の祖父の所有していた畑、あるいは親戚の人たちが所有して野菜を自ら作ったり、人に貸したりしていた畑があった。この畑へ僕はしばしば出かけた。畑のなかにひとりでいていろんなことを観察していると楽しいからだ。学校へはいかないかわりに、僕はひとりで無鉄砲にいろんなところへいく子供だった。畑へいって親戚の人が作業をしていると、僕は日が暮れるまで喜んで手伝った。

 畑そのものとはなんの脈絡もなしに、畑のあちこちに丸い池があるのはたいそう不思議だった。僕が爆弾の穴を最初に見たとき、その穴はすでに池になっていた。雨水がたまり、地下からの湧き水もおそらく加わり、満々と水をたたえて水草ののどかに繁る、立派な生態系としての池だった。蛙は当然のことのようにいたし、おたまじゃくしもいた。池によっては人の放った魚が、すっかりそこになじんで生活していた。

 このような池に絶対に入ってはいけないと、親しい人々もそうではない人たちも、無鉄砲な僕に常に厳しく警告してくれていた。警告されるまでもなく、僕はそのような池は観察するだけでなかには入らなかった。大小の差は多少はあるものの、どの池もきれいに丸かった。そして池の中央に向けてのスロープがかなり急だ。生態系としてはたいへんに牧歌的なのだが、そのようななぜか丸い池には、どことは言いがたく暗い雰囲気があった。危険な感じと言ってもいいし、冷たさと表現してもいい。五千メートルの高度でB–29の弾倉を出て地表に落下して炸裂した、破壊と殺戮のみを目的とした爆弾の作った穴の池だ。暗くて危険そうで冷たい雰囲気があって当然だろう。野山や海で遊びまわって直感を感覚の内部にたくわえた子供なら、こういう池には手を出さない。

 畑のあちこちにあるこうした丸い池が、アメリカの爆撃機の落とした爆弾によって出来たものであることを、親しい人たちは幼い僕に教えてくれた。敗戦の前日に麻里府操車場が爆撃を受けたとき、さきほど書いたあの「コ」の字型の大きな家に僕はいた。駅からその家まで、子供の足で歩くとかなりあるが、爆撃機にとっては至近距離だ。しかし僕には、たとえば編隊の爆音を聞いた記憶すらない。駅が爆撃を受けたという話は、身近にいた人たちから聞いたような記憶がうっすらとある。

 東京で信濃町の慶応病院で生まれた僕は、そのままいけば東京の子供になっていたはずだった。しかし東京は日増しに激しく爆撃を受けるようになり、父親は僕を遠くへ避難させることにした。とっくにハワイから引き上げていた祖父のところなら東京から充分に遠い、と父親は単純にも思った。麻里府が百機を越えるB–29の爆撃を受けると知っていたなら、父親は僕をどこへ避難させただろう。東京から汽車で一昼夜以上におよぶ疎開旅を、種明かしされるときのサブリミナル映像のように、僕は記憶している。

 空襲、焼夷弾、爆撃、防空頭巾、防空壕、といった言葉を東京にいるときに僕はすでに知っていた。「出てこいニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」という歌の文句も、その部分だけはメロディとともに知ってもいた。まだ赤子同然なのだが、その赤子を取り巻く外界の様子に、なにか変だなあ、という感触を持っていた記憶がある。自宅のなかが守られた安全な世界だとするなら、その外にある外界に関しての僕の最初の記憶は、これはなにかが変だ、というものだ。おそらく練馬あたりだと思うが、ある晴れた日に爆撃を受けた。僕が住んでいた目白周辺まで、晴れた日の昼間だというのに、空は濃い灰色に変わった。曇った日の灰色とは基本的にまったく質の異なる、奇妙で不気味な灰色だった。妙な匂いがした。当時の木と紙そして土壁の民家が、折り重なって燃えるときの匂いだったのだろう、といまの僕は思う。黒こげになった障子紙や襖紙の破片が、灰色の空の下を奇妙な匂いとともに飛んで来ていた。赤子をあなどってはいけない。赤子は事態の核心を相当なところまで感じ取って記憶しているものだ。自分の国は戦争をしていて、しかもすでに敗色が濃厚だったから、外界は赤子にとっても変だったのだ。

 麻里府の操車場が大爆撃を受けた明くる日、自分の国がしていた戦争は終わった。戦争が終わった、と人々は言っていた。そうか、戦争は終わったのか、と幼い僕は思った。聞いたことをおうむ返しのように自分でも思ってみただけであり、具体的なあるいは特別の感慨はなにもなかった。そしてそれはそのときの僕の、年齢的な幼さにたいそうふさわしい。

 終わってから十日ほどあと。はっきり日数を記憶しているわけではないが、いまならかなりの根拠を持ってそう書ける。戦争が終わって十日ほどあと、八月も終わりに近い日のお昼前後、家の外で遊んでいた僕は、橋のほうから歩いて来たひとりの男性に声をかけられた。三十代なかばないしは後半の年齢の、中肉中背を絵に描いたような、誠実そうな雰囲気の人だった。日本の軍人のような服装をしていた。軍靴にゲートル、そして国防色のズボンに白い開襟シャツ。家の人を呼んでおいで、とその男性は優しく僕に言った。

 家のなかに入った僕が、たまたまそこにいた人たちとともに外へ出ると、その男性は隣近所の人たちを数人、すでに自分の周囲に集めていた。集まった人たち全員に向けて、その男性は奇妙なことを言った。あと十五分ほどもすると、この道を三台のトラックがとおります。どうか皆さん、そのトラックをご覧にならないように、家のなかに入っていてください、特に子供たちがトラックを見ないように気をつけていてください。よろしいですか、お願いしますよ、三台のトラックがとおり過ぎるまで、皆さんは家のなかにいて外を見ないでください。そう言い残して、その人はさらに次の隣近所へと、歩いていった。ほどなくここを通過する三台のトラックを見ないように、と人々に触れてまわるのが、そのときの彼には職務の一部だった。

 見てはいけないと言われると僕は見る。二階の自分の部屋に上がり、なんとなく窓辺にいるだけで、川に沿って直線でのびてくる道を遠くまで見渡すことが出来た。橋を越えると道は家の前を鉄道のガードに向けてのびていく。眼下をトラックがとおるなら、橋を渡るずっと以前からガードをくぐって見えなくなるまで、二階の僕の部屋の窓からまる見えだ。

 待っているとまっすぐな道の向こうにトラックが見え始めた。さきほどの人が言っていたとおり、三台のトラックだ。走って来るそのトラックに、見てはいけないような理由はどこにもないように思えた。橋に向けて接近し、一台ずつ橋を渡った。そして僕の家の前の道に入り、最初の一台が僕の目のすぐ下を通過していった。荷台にはその四辺に大きな板をあてがい、荷台が見えないように、そして通常よりは余計に積めるようにしてあった。積み荷がなにであるのか、誰にでもひと目でわかったはずだ。

 丸裸の焼死体が山積みになっていた。どの死体も胴や四肢が丸々とふくれ上がっていた。四肢を縮ませる途中でそのまま固定してしまったようなポーズで、なぜか仰向けになっているものが多かった。文字どおり黒焦げの部分と、鮮やかなピンクの部分とに分かれている焼死体は、荷台の上での向きがばらばらだった。一台めのトラックの積み荷をそのようにして見た僕は、二台めからは見なかった。さらに見ることに、どれほどの意味があるだろう。

 荷台の上に積み上げられた数多くの焼死体の、向きがばらばらであることを見て、ひとりの子供は直感する。焼死体をこのトラックに積み上げる作業をした人たちは、心を鬼にして、とにかく一体ずつ荷台にほうり上げたのだ。直感することはもうひとつある。荷台の上で折り重なる焼死体のなかに、子供の小さな焼死体があるとするなら、それはこの自分であってもなんらおかしくはない、ということだ。

 麻里府操車場が爆撃を受けて千人を越える死者が出たこと、そしてその遺体の処理には十日もかかったことを、さきに僕は書いた。僕が二階の窓から見たのは、処理される途中のその遺体の一部だった、と断定していいと僕は思う。操車場の周辺の畑に、いまはもう爆弾の穴はないだろう。ひとつくらい残っているかもしれない。あるいは、畑そのものがすでに残っていないかもしれない。しかしいま僕の目の前にある航空写真には、敗戦二年後の爆弾の穴がたくさん見える。奇妙に丸い、静かに危険な池として、爆弾の穴は僕の記憶のなかにもある。

 爆弾の穴の記憶は、見ないでくれと言われたトラックの荷台の、積み上げられた焼死体と分かちがたく重なる。そしてそこからさらに延長線をのばしていくと、国家つまり自分の国というものに関する、時間的にも内容的にも原点と言っていい記憶に、その延長線はまともに突き当たる。生まれてふと気がつくと、自分の国は戦争をしていた。その戦争には、客観的な形容語句をつけたほうがいい。まるっきり勝ち目のない、というような語句だ。開戦当時の日米の海軍力の差を示す数字を見ると、絶望と悲しみで気持ちはまっ平らになる。「出てこいニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」と人々は歌った。こういう歌の品性の上下は問わないとしても、それを支えている主観的な願望の、なんと浅くそして脆くあったことか。

 壁にピンで止めた昭和二十二年の航空写真に接近して、僕はすわりなおす。そしてルーペごしに見ていく。ルーペの丸い視界の底には、昭和二十二年に幼い僕が住んでいた近辺が、ほどよくぼけて浮かび上がる。ルーペをのぞき込んでいるのは現在のこの僕だが、その視線がいったんルーペのなかに入ると、そこからはその視線は昭和二十二年の僕の視線に入れ替わってしまうようだ。僕は二重になる。僕は当時の僕に戻り、当時の自宅の近所をルーペのなかで見て歩く。

 夏の晴れた暑い日、自宅で僕は昼食を食べる。食べてしばらくして、僕は二階の窓から外の川を見る。潮の満ち干きに合わせて、水位が大きく上昇したり下降したりする川だった。いつもの満潮時の水位を越えて、ひときわ満潮になるときがあった。そのときには、水位は路面とはばおなじ高さになった。川に潮が満ちているのを確認した僕は、一階へ降りていく。家の奥から玄関に向けて走っていき、家の外へ出る。

 家のなかのひやっとした空気から、外の暑く照らされた空気のなかへ僕は出る。夏の陽光を全身に浴びて、僕は川に向けて走っていく。十歩も走らずに道を横断出来たと思う。舗装されてはいない道の、裸足の足の裏に対する感触を、当時の僕に戻って僕は感じる。道の縁をひと蹴りして、僕は潮の満ちた川へダイヴする。子供の体はいっぱしに水面を叩き割る。そのままクロールで対岸まで泳いでいき、石を積み上げた護岸を上へよじ昇っていく。夏の陽を受け続けていた石の熱さを、両手に、顔に、腹に、そして足に、いまも僕は感じる。

 橋の欄干を突き破って消防自動車が川へ落ちたことがあった。川の向こう側を、川に沿ってまっすぐにのびる道が、川のこちら側へ移るために斜めに越える橋だ。川はほぼ満ち潮だった。橋に向けて入って来るその消防自動車を、僕は自宅の二階の窓から見ていた。速度は速すぎる、と僕は思った。次の瞬間、消防自動車は木製の欄干をへし折り突き破り、川に向けて落ちていった。盛大な水しぶきが上がった。自動車はすぐに川の底に沈んだ。乗っていた人たちはみな無事だった。笑いながら、あるいは首をかしげたりしながら、それぞれに護岸へ泳ぎ、道へ上がってきた。

 川底に横倒しになった赤い消防自動車は、しばらくそのままだった。潮が干くたびに、不思議な光景が川のなかに現出した。潮が干ききった川でも、子供たちはよく遊んだ。消防自動車のそばへいってはいけない、と大人たちは厳しく言っていた。自動車を引き上げる作業がやがて始まった。いまならクレーン車が来て、おもむろにつり上げてそれでおしまいかと思うが、当時は違っていた。

 川底からちょうど僕の家の前あたりに向けて、木製のスロープが何日かかけて組み上げられた。横倒しになったままの消防自動車は、川底で本来の姿勢に戻された。一台のトラックが道の上からワイアー・ロープで斜めに引っ張りながら、それに合わせて何人もの男たちが、川底で赤い自動車を押した。自動車は少しずつ木製のスロープへと接近していき、いったんスロープに乗るとそこからはかなりあっけなく、道へ引き上げられてしまった。消防自動車はどこかへいってしまい、丸太や板を組んだスロープだけがあとに残った。それはしばらくのあいだそのままそこにあった。子供たちの遊び場になった。そしてある日のこと、それも取り壊され、跡形なくすべては消えた。

 思い出すことはいくつもあるが、それひとつでくっきりと独立した出来事の思い出は、ありそうでいてなかなかない。断片的で小さな思い出がおたがいにいくつも重なり合い、にじんでぼけてくっつき合い、遠いと言うなら遠い過去にふさわしく、曖昧に漂っているだけでほとんどなんの役にも立たない。僕は瀬戸内育ちですというようなひと言を、僕だけのためにかろうじて支えてくれている。

 橋から川に落ちた消防自動車という出来事は、おそらくもっとも輪郭の鮮明な、しかもそれだけで独立し得ている出来事だ。その川の前に建つ家に住んでいた頃の僕にとっては、この出来事が輪郭の明確さにおいても独立度の高さにおいても、最高の出来事だった。しかしいまの僕にとっては、これを越える出来事がひとつだけある。当時はさほどにも思わなかったが、いまなら一位にしなければならない出来事だ。

 一九四五年八月六日の午前八時十三、四分頃、僕は自宅近くの山陽本線のガードの下をくぐった。前夜を自宅ではないどこかで過ごした僕は、朝のその時間、自宅へ帰ろうとしていたのだろう。どこで過ごしたかとうてい思い出せないという事実には、朝のその時間に自宅に向けて歩いていたのなら、しばしばそうであったように朝食を食べに家へ帰ろうとしていたに違いない、という推測を重ねるほかない。

 ガードから自宅の前まで、子供が普通に歩いて三分もかからない。自宅の隣りの家の前を歩いていたとき、僕の背後のぜんたいから、非常に明るい光が射して僕の全身をかすめてとおり越し、前方に向けて走り去って消えた。ほんの一瞬の、しかし強力に明るいその光に対して、子供は子供らしく反応した。誰かがうしろから懐中電灯を照らしたのだ、と僕は思った。僕は振り返った。道を歩いている人はひとりもいなかった。

 真夏の晴れた日の朝の、あの強く明るい、すべてのものをくっきりと浮き立たせる自然光のなかを、それとはまったく異質の、そしてその異質さにおいて自然光を越える光が、重なりつつもひとつに溶け合うことはないまま、自宅前の見なれた光景のなかを一瞬のうちに走り抜けた。なにが光ったのだろうかと思いながら、僕は自宅に入った。そしてすぐに、その光は僕の意識の外へ出てしまった。

 このときのその光は、広島に投下された原子爆弾が、上空五百メートルほどのところで爆発した瞬間に放った、閃光だった。ピカドンの「ピカ」のほうだ。ピカッと光ったのちにドーンと爆発音が轟いたからピカドンだ。庶民の端的な造語能力が見事に発揮された一例だ。「ピカ」は僕をかすめて走り抜けていったが、広島から岩国まで離れていると、さすがに「ドン」のほうはまったく聞こえなかった。

 いつものとおり一日じゅう外で遊んだ僕は、夏の午後のいちばん奥の時間がゆっくりと夕方へと落ちていく頃、自宅に帰ろうとして道を歩いていた。潮の満ち干きするあの川の外側にぴったり沿うまっすぐな道のまんなかあたりまで歩いていくと、そこに近所の人たちが数人、立っていた。彼らは東のほうを見ていた。

 当時の空気中にはたとえば排気ガスや煤煙などの不純物は皆無だったと言っていい。たいそう牧歌的に澄んだ夏の夕方の東の空は、昼間とは違った色調のきれいなブルーだった。視界の端のほうに少しだけ白い雲があり、その雲の複雑な造形の縁は低く位置を落とした太陽の光を受けとめ、淡くピンク色に染まっていた。

 その空に、黒い雲の柱が高く立ち上がっていた。黒い雲といま僕が書くのは、それを見たそのときそうとしか言いようのないものに見えたからだ。円柱だということは見てすぐにわかった。太かったかそれとも細かったかと問われるなら、それは明らかに細かった。かすかにでこぼこのある、まっ黒くて細い、途中で少しだけ曲がったりしている、しかし高さは充分にある黒い雲の柱だった。そしてその柱の頂上には、黒い傘のような雲が広がっていた。

 生まれて初めて子供が目にする異様なものだったが、それほど驚愕した記憶はない。あれはいったいなんだろう、とは思った。広島に爆弾が落ちた、その爆弾は原子爆弾だ、というような大人たちの会話を僕はそのときそこで聞いた。黒い傘を頂上に広げた、細く高く黒く立ちのぼっている雲の柱を、僕はしばらく眺めた。それからどうしたか、記憶はなにもない。いつものように子供は自宅へ帰った。そして夕食に向かう時間のなかで、東の空に見た光景は子供の関心の外へ出たのだろう。

 爆発して一分後には一万メートルもの高度に達し、さらに上昇を続けたというキノコ雲を、僕はこのようにして見た。その日の朝、やはり外で見た一瞬の人工の光を、このキノコ雲と結びつけて理解出来るようになったのは、中学校を終える頃ではなかったかと思う。

(2)

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年

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2019年7月19日 15:00
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