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いま、ここにある、自分の場所

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 世界地図を、じっくりとながめてみよう。地図帳ではなく、できるだけ大きな一枚の紙に印刷した、世界地図だ。

 日本でつくった世界地図だと、なぜだか日本がその地図のまんなかにくるような構図になっている。どこの国の世界地図でも、これはおなじだろう。みんな、自分の国を、まんなかに置きたがるのだ。

 まんなかにある日本を、つくづくとながめる。

 ながめているうちに、いろんなことが、わかってくる。

 いまさら言うまでもないことだが、日本は小さい。チョン、チョーン、チョ、チョンという感じで、ほんとに小さな島が四つある。日本は小さな四つ五つの島なのだということは、かなりしっかり地図を見ないとわからない。それほどに小さい。

 しかし、小さいことは、マイナスでもなんでもない。小さい、小さいとしきりに書いているけれど、マイナスの意味をこめて小さいと言っているのではない。大陸にくらべるとたしかに小さいという、ただそれだけのことだ。

 日本をまんなかにして描いた世界地図の、非常に大きなひとつの利点は、太平洋もまた、まんなかにくる、ということだ。

 何度も日本に目をもどしつつ、太平洋を中心にそのまわりをながめていてやがてふと気づいたことがひとつある。

 それは、太平洋もまた国なのだ、ということだ。国といっても、普通の意味の国ではない。いくつかの国をたいへんに緊密なかたちでつなぎあわせるための土台のようなものといった意味で、ぼくはいま仮りに、国という言葉を用いている。

 太平洋は、国だ。このことに、まずまちがいはない。

 日本は太平洋のはしっこにある、と多くの人が言っているが、ぼくの見方によれば日本は、太平洋の全域を広く見渡す非常に有利な位置にある。

 いま、日本は、太平洋のはしっこで、孤立している。太平洋の存在など、すっかり忘れてしまっているかのようだ。自分が太平洋に抱かれていることなど、もうすこしも重要なことではないかのように、太平洋に対して知らん顔をしている。

 日本、韓国、東南アジア、というおかしな呼び方で呼ばれている、いくつもの島の国。オーストラリア、ニュージーランド、そして、南太平洋に浮かぶ、いくつもの魅力的な島たち。このようないくつもの、それぞれに興味深くことなった国々をひとつにつなげてくれているのが、太平洋という国だ。

 太平洋という広大な海の縁に、位置的につらなっている国々を、内容的につなぎあわせる構想が、環太平洋というような考え方としてすでにずっと以前から存在していることは、いまさらここで書く必要もないとは思うけれど、とても重要なことだから、自分自身にもう一度たしかめなおす気持で、いまこうして書いている。

 日本は、ものすごくいいかたちで、太平洋とつきあわなくてはいけない。日本が生きのびれるかどうかは、今後における太平洋とのつきあい方にかかっている、と断言しても、さしつかえないという実感が、いまのぼくにはある。太平洋によってつなぎあわされているさまざまな国とどのようにつきあっていくか、そして、環太平洋という国を世界のなかでどう位置づけるかが、日本にとって最重要なことになりつつある。

 日本から見て太平洋のむこう側に、アメリカがある。北アメリカと南アメリカだ。この、たとえば北アメリカの太平洋岸地帯も、太平洋に接していて、南太平洋にまでそしてアジアまで、確実に足場をのばしている。

 その足場は、主として軍事的なものだ。軍事的な意味での、拠点とか防波堤の感じで、アメリカは太平洋のなかのあちこちに、すでにある。

 日本と太平洋との、ものすごくいいかたちでのつきあい方のなかに、こういったアメリカのやり方に同調したり協力したりすることは、含まないほうがいい。本能的に、ぼくはそう感じる。度はずれのした破廉恥なずるさを、さも正義のように言いたてて押しつけてくるのがアメリカだと思っていてまちがいはない。したがって、太平洋を自分たちにとっての軍事拠点としてしか考えないアメリカとの価値観を相手に渡り合うもうひとつの、もっとすぐれた価値観をつくりあげるための環太平洋の、ひとつの重要な中心に、日本はなるといいのだ。日本の未来は、この方向にしかないように、ぼくは感じる。

 と、こんなふうに言うのは簡単だが、やるとなったらたいへんな困難がいたるところに山づみになるにちがいない。

 しかし、やらないでいていいはずがない。そして、こういったことにきちんと取り組むための、ほんとうの土台は、まず誰もが、自分たちの国の本質をはっきりと知ることなのではないか、とぼくは思う。

 たとえばぼくたちの日本だが、日本の本質をぼくなりにひと言でとらえるなら、日本は雨の島なのだ。

 あとでまた書くと思うけれど、雨の島という日本の本質には、地理的なさまざまな条件、あるいは気象上の条件など、自然環境が深くかかわっている。

 小さな島ではあるけれども南北に長いという言い方ができ、おなじ時期に全国的にほぼおなじ季節感のなかにありつつ、場所によって微妙なニュアンスのちがいによるさまざまなバラエティが生み出されている。

 春、夏、秋、冬という、それぞれにくっきりとことなった四季があり、その四季が、一年というみじかい時間のなかで、周期的にめぐってくる。

 三か月ごとにちがった季節を楽しめるところなんて、この地球にそう多くない。雨の島だから水に恵まれ、したがって緑は多く、おだやかな自然環境だから人は住みすい。微妙なニュアンスに満ちた四季の展開は、非常にユニークな世界観や自然観を日本人の世界につくりだしてくれている。

 おおざっぱな言い方になるけれども、このへんが日本というアイランズの、本質なのだ、とぼくは個人的に感じる。

 そして、この本質は、人間が文化的な営為の可能性をさまざまに追求していくにあたって、たいへん有利な味方になってくれる。世界の文化のあり方を、これまで一度もなかったようなすぐれた方向へ、全地球的なスケールで先導するような、そういった文化的な力を、これからの日本は持たなくてはいけない。

 残念なことに、日本は、自分の本質を忘れようとしている。効率や数字だけが基本命題となった工業大陸のような錯覚をそのまま信じこんだり、なんにもない小さな島国、といういわれのない被害者意識の底にあぐらをかいたりして、真の意味ではいっこうに文化的ではない。

 いまの日本の状態をさまざまに嘆いたりけなしたりすることが日本のなかでさえ普通になっているが、いまの日本を必要以上にマイナスの方向から見ることを、ぼくはとらない。ひどい状態にある、と言ってもいいのだろうけれど、より正確には、とても不思議な状態にある、と言ったほうがいいようだ。そして、日本のいまの状態の不思議さは、世界ぜんたいの不思議さと、からみあっている。

 海や島を楽しむために太平洋を旅すると、行くさきざきで、やはり日本はこうした太平洋の国国とひとつにまとまっていかなくてはいけないのだなということを、海や島をとおしてうけとめる感覚ぜんたいの問題として、強く感じる。

 沖縄やサイパン、パラオあたりからはじまって、オーストラリア、フィージー、ニュージーランドそして南太平洋の島々と旅をかさねていくと、ほんとうに太平洋はひとつの国だと、ぼくは感じる。

 小さな島の、砂浜に立って、太陽が海に沈むのを見るとき、空や海にくりひろげられる壮大な色彩のドラマと大空間の息づかいは、誰がなんと言おうとぜったいに確実にそこにあるものであり、したがって、それは真理なのだ。

 海と空というふたつの大空間の息づかいに自分のリズムがかさなるとき、この空間で結びあわされているものはどれもみな自分にとって非常に大事なものなのだと、底なしに近いうれしさのなかで、ぼくは思う。

底本:『コーヒーもう一杯』角川文庫 1980年


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2015年11月15日 05:30
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