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アイスクリームには謎がある

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 アイスクリームについて思うと、その思いは過去へと向かっていく。僕がまだ充分に幼くて可愛い坊やだった頃、僕はいちばん最初のアイスクリームを食べたはずで、それについての記憶はいまも残っている。幼い体の口腔感覚がとらえた、アイスクリーム専用のスプーンの感触。これを思い出す。

 おおざっぱに言えば平たいが、微妙な曲面によってぜんたいの成り立っている、普通のスプーンのような楕円ではない、四角の角を丸く落としたようなかたちのスプーンだった。片手の指先に持って支えたときの、あのスプーンの柄の感触も、まだ僕の指に残っている。アイスクリームをそのスプーンで削り落とすかのようにすくい取り、口に入れて唇を軽く閉じ、スプーンを静かに引き抜く。このときに感じ取る、滑らかに平らな、しかし微妙な曲面となっている金属の感触とそのサイズ。これも口腔の感覚のなかに残っている。

 このスプーンの大きさはちょうどいいのではないか、これより大きくてはいけないだろうな、と幼い僕が思ったかどうか。スープのためのスプーンがほとんどの場合に大きすぎたから、そのことからの連想として、アイスクリーム専用スプーンのサイズに関しても、幼い僕はなにかを思ったに違いない、ということにしておきたい。

 スプーンの記憶がこれほどにあるなら、アイスクリームの載っていた容器の記憶もある。あの容器はなんと呼ぶのか。片仮名の専門用語がきっとあるだろう。久しく見かけていない。どこかへいけば売っているのだろうか。あるなら買いたい。アイスクリームの載っているところだけなら皿だが、その皿の下のまんなかから、カクテル・グラスのようにステムがまっすぐにのびている。このステムを、柱と呼ぶのかそれとも軸あるいは茎なのか。僕としては軸と呼びたい。長さ十センチほどの軸は丸い台座に固定されていた。倒れやすそうなので、いつも左手を軽く台座に添えた。

 アイスクリームは溶けていく宿命にある。昔のアイスクリームはかなり早く溶けた、といま僕は思う。軸の上の皿には、アイスクリーム・スクープですくい取ったアイスクリームの半球がふたつ、載っていた。そのうちのひとつを、外側からスプーンで削ぎ取るかのようにスプーンで取っては、口へと運んだ。もうひとつの半球には手をつけずそのままにしておくと、それは底から静かに溶けていった。この溶けたアイスクリームをスプーンですくって口に入れると、それはすでに別世界を獲得していて、なかなか良いものだった。アイスクリームには、まだ溶けていないものと、溶け始めているものとの、ふたとおりがある。

 半球の縁からスプーンで削ぎ落としては平らにならし、なかば強制的に溶かした上で、スプーンですくって口に入れる、という食べかたもあった。スプーンをしばらく口のなかに入れて温めておくと、削ぎ落としたアイスクリームは溶けやすいのだった。温める、という言葉はこんなふうに、アイスクリームと楽しく結びつく。

 アイスクリームを食べるのはどこかの食堂である場合が多かった。テーブルにかかっている白いクロスについて、なぜこんなに分厚い布なのか、と思った記憶がかすかにある。食堂は大きな空間だった。いろんな匂いと音が、ほどよく満ちていた。あちこちのテーブルで大人たちが語らう声の混合。食器の触れ合う音。ホット・サンドイッチの香り。ベーコン。マヨネーズ。マスタード。甘いミルク。バター。幼い僕の感覚を突き抜けていくコーヒーの芳香。天井には扇風機の大きな羽根がゆっくりと回転していた。

 アイスクリームに関するごく初期の記憶を総合してそこから核心を抽出するとして、アイスクリームを食べるときの気持ちはどんなだったか、ということについて僕は思う。アイスクリームは楽しいものだったかどうか。自分はいま不思議なものを食べている、と僕はいつも思った。アイスクリームの材料は知っていたし、作りかたもすでに承知していた。家庭で自作するための簡単な装置があり、何度かは使ってみた。見事にアイスクリームが出来る場合もあれば、出来たときには完全に溶けている、という失敗作もあった。この失敗作をスープのスプーンになみなみと満たし、ちびりちびりではないが、少しずつ舐めた。アイスクリームをちびりちびりと、というような言いかたはなんの無理もなしに成立する。失敗作を前にして、適正に冷しながら適正に攪拌を続ける苦労がアイスクリームとなって報われる、と父親が言ったのも記憶している。立派な箴言のように思えたが、いまこうして書いていくと、ごくあたりまえのことでしかない。

 幼い頃のこうしたアイスクリーム以後、どんなアイスクリームがあったか。思い出すことにさほど意味はないが、ひとつだけ重要なのは、時間的に遠ければ遠いほどそのアイスクリームは美味である、という事実だ。これ以上の単純さにはなりようのない必要最小限の、きわめて素朴な良き材料による、ごく普通の意味での上出来なアイスクリーム。これがいちばん初めのアイスクリームだ。そしてそこからこちら側に向けて、時間的に近くなればなるほど、アイスクリームは嫌なアイスクリームとなる。

 好ましくないもの、あるいは必要のない余計なものが加えてあり、余計なことがしてあることによる、すっきりとしない、妙な行き止まり感のある、なぜこんなことになるんだ、と思わず言いたくなるアイスクリーム。アイスクリーム本来の良さをまったく感じさせないアイスクリーム。工場で可能なかぎり安く大量に作り、広い範囲へと出荷するためには、何日も日持ちがしないといけない、というようなところから、アイスクリームの劣化が始まったのだろうか。材料も昔のほうが産地に近く、品質もはるかに良かったのではないか。アイスクリームは過去に遡るほどおいしい。このことを文芸的に言いあらわす文章を工夫したい。僕の後半生は日本のアイスクリームがまずくなっていった歴史と重なっている、というような文章を僕はひとまず書く。

 僕が子供だった頃のアイスクリームは、材料も作られかたも、純真だった。幼かった僕は嫌な子供ではあったけれど、それなりにストレートであったはずだ。その僕とアイスクリームとの関係はどのようなものだったか。アイスクリームは単純にうれしいものだったか。けっしてそうではなかった、と僕は思う。アイスクリームを食べる、という期待感はさほど悪いものではなかったが、いざ食べ始めると、そんなにうれしいわけではなかったという記憶はまだ輪郭がくっきりとしている。アイスクリームを食べるときの幼い僕の気持ちはおおむね鎮静していたと言っていい。さらにいま少し踏み込んで言うなら、アイスクリームはほとんど常に、なんの理由も根拠も目の前にはないけれど、つかみどころはないままに充分に重みのある、妙な悲しみのようなものをまとっていた、という思いがいまの僕のなかで少しずつ強くなっていく。

 悲しさとともに食べるアイスクリーム。こう書いてその文字を眺めていると、アイスクリームに悲しさはよく似合っていることが、やがてわかる。アイスクリームを食べている彼女の目から、あるときいきなり、はらはらと涙があふれてこぼれ、そのうちの何滴かがアイスクリームの上に落ちる、というような場面は、想像のなかよりもまず現実において、充分に成立する。

 子供の頃の僕にとってアイスクリームは、なにはおいても食べたい、おいしいから食べたい、食べるのはうれしい、という単純なものではなく、まずとにかくそれは不思議なものだった。食べるたびに、アイスクリームは不思議なものだ、これはいったいなにだろうか、と僕は思った。アイスクリームには謎がある、といまの僕は言う。

 アイスクリームはけっして単純なものではない。アイスクリームを食べるとき、食べる当人の胸のうちに喚起される心理の幅は広く、奥行きは深く、そこには複雑な襞が重なり合い、ぜんたいとしてのニュアンスは陰影に富んでいる。複雑で多彩な心理の行き交う現場、つまりこの人生での、当人を中心にしてさまざまな人たちとのあいだに引き起こされるあらゆる心理関係の重なりを、アイスクリームはひとまずはすべて肯定している。単純な肯定ではなく、複雑な肯定だ、という言いかたをしてみようか。

 アイスクリームには、多くの人が思いもしなかったほどの深みがある。その深みを理解しきれていないいま、それを僕は大きくひとつかみに、謎と呼んでいる。言うまでもなくアイスクリームは西欧のものだろう。アイスクリームの起源を見るには、どのあたりまで歴史をさかのぼらなくてはいけないのか。他に言いようがないから、食べる、という言葉を使うけれど、アイスクリームにこの言葉はふさわしくない、と僕は感じる。食べるためにはたしかにそれを口のなかに入れるのだが、口のなかに入れたその瞬間から、アイスクリームの複雑な奥行きが全身全霊に広がり浸透していく。こういうものを口のなかに入れる行為を、食べる、という言葉でまかなうには、基本的なところで無理がある。

底本:『ピーナツ・バターで始める朝』東京書籍 2009年


2009年 『ピーナツ・バターで始める朝』 アイスクリーム 子供 少年時代 菓子 食べる
2016年5月9日 05:30
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