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故郷へ帰りたい

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 高速道路にあがると、都会の匂いがいっそう強く全身に感じられた。

 初夏の快晴の日だ。だが、都会は薄黄色いスモッグにおおわれていた。せっかくの青空は、そのスモッグにさえぎられ、頭上のほんのせまい部分がうっすらと青いだけだ。

 陽ざしの強さは、しかし、スモッグごしでも充分感じることができた。

 陽に照らされたコンクリートの路面にこすりこまれている、タイアのゴムの匂い排気ガスの匂い。ディーゼル・トラックの、黒い排気にひそむ重い匂い。

 オートバイにまたがってむきだしの体に、風といっしょにそんな匂いが叩きつけられてくる。

 大きなビルの壁面をすれすれにかすめたカーブを抜けると、路面はのぼり坂だった。のぼりきって、都会のもっとも都会らしい光景を、オートバイのシートから見渡すことができた。

 無秩序に散らばり、悪性の増殖細胞のように地表を埋めつくしている、きたない灰色のビル群。

 その上におおいかぶさる黄色い空。ビルのあいだを走る無数の自動車の列。

 排気ガスとスモッグが、高速道路に渦を巻いていた。その渦の中を、彼はオートバイで走った。

 この匂いをかぐと、どうしても戦闘的な気持になる。全身の動きを支配する感覚から緊張を抜かずにおくには、多少とも戦闘的になっていたほうがいいことは確かだが。

 両腕をまっすぐにのばし、突っ張りぎみにした。グリップに置いている両手に、力をこめた。

 こうすると、とたんに、路面のフィードバックが両腕にくる。高速道路の荒れた路面をタイアがひろい、ハンドルを介して彼の両腕に伝える。両腕を小きざみにふるえるにまかせておくと、彼の体は、やがて路面のすさんだ荒れに同調してくる。そのときの緊張が、奇妙に心地よい。

 首都高速を走りきり、そのまま東名高速道路に入った。ウィーク・デーの東名だが、自動車の流れかたは、いつもとおなじようだった。

 東名に入ると、雰囲気が一変する。走るときの全身の感覚も、首都高速のときとは、ちがってくる。

 今日のような陽ざしの強い日など、明るい解放感がある。走るほどに都会をうしろに置きざりにし、行手に丹沢の山が見えはじめるせいもあるだろうし、東名の設計じたいとてもよくできているから、走っていて楽しい。

 そして、都会がうしろに遠のくにしたがって、正直なもので空がそれだけ青くなる。

 スモッグのフィルターをかけられてぼうっと散光していた陽ざしが、本来の生の陽ざしとして、降り注いでくる。

 東京から大井川あたりまでなら、カーブの状態のひとつひとつから、場所による横風の受け方の変化まで、彼は知りぬいている。どこにどんな標識があるか、すでに暗記している。

 春おそくから秋のなかばごろまで、この道路は、彼にとっては都会を抜け出すための重要なルートになる。

 この道路を走るときの感覚が充分呼びさまされ、指さきから足のさきまで全身にみなぎってから、彼はトラックのごぼう抜きをはじめた。

 荷台に高く積んだ荷物を、濃いグリーンの幌でおおった十一トン・ディーゼル。幌を縦横におさえている黒いゴム・ベルトが風にはためく。

 追いこしをかけると、右後輪の前でわきに突き出ている排気管から、風に乗った排気ガスが、彼の顔を直撃してよこす。

 運転席を追いこすとき、ちらっと左上を見上げると、運転手は頭を前へかしがせて居眠りしている。彼のオートバイの気配に、運転手は、はっと目覚める。

 追いこし車線を走る乗用車にパッシングをかけ、走行車線に追いもどす。左に寄った乗用車を抜き、コンテナが銀色に輝くトレーラー・トラックに追いすがる。荷台のうしろに赤い文字で「全長十八メートル追越し注意」と読める。見とおしのきく直線で、全長十八メートル殿をあっさり追い抜いた。

 こんなふうにトラックを抜きながら、海老名サービス・エリアをすぎるあたりまで、ひと息に走った。

 厚木インタチェンジをこえ、片側二車線になったとたん、車の流れがとまった。前方までぎっしりとつかえ、のろのろ運転になった。二車線のうち一車線が補修工事で通行止めになっているときの、つかえかただった。

 車のあいだを縫って進むこともできないまま、彼は低速で走った。

 2000CCのかったるいハードトップのうしろにくっついてしばらく走り、やがてその車の右に出た。運転席のドアにならんだ。

 若い女性がふたり、乗っていた。都会ふうな化粧と服に、美しいけれど妙にとげのある表情は、彼女たちを実際の年齢よりもふけて見せていた。

 シートのあいだにポテトチップの袋を置き、ふたりでけだるくつまんでは食べていた。カン入りのソーダ水を、ストローでまわし飲みしていた。

 上体をかがめ、彼は左手を運転席の窓の中にさしのべた。

「俺にも、くれ」

 ふたりは、彼を見た。運転している女性が、ポテト・チップをふたつ、彼の掌に置いてくれた。

「どこへいくの?」

 と、彼女がきいた。 

「故郷」 

「え?」 

「故郷」 

「故郷へ帰るの?」 

「そう」 

「なんだか昔に流行したテーマみたい」 

「もっとくれ」 

「図々しいわねえ。いきなりそばに寄ってきて」

 また二枚、彼女はポテト・チップをくれた。 

「ほんとに、どこまでいくの?」 

「故郷」 

「どこなの、それ」 

「遠く」

「御殿場で降りて、箱根でも走ってみない?」 

「やだよ。もっと遠くへいくんだ」

 ポテト・チップをもらっては食べながら、渋滞の区間を抜けた。

 彼のサングラスを見上げて、彼女が言った。 

「今日はお天気がいいから、箱根でもドライブしてコーヒー飲もうって出てきたのよ。つきあう気はない?」

 掌に乗せてくれたポテト・チップを、彼はハードトップの運転席にほうり出し、すてた。車が流れはじめた。ハンドルを握った彼は、前方にできたすきまへ突っこんですり抜けた。ものういハードトップをあっさり置き去りにして、オートバイは見えなくなった。

『アップル・サイダーと彼女』角川文庫 1979年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』太田出版 1996年


1979年 1996年 『アップル・サイダーと彼女』 エッセイ・コレクション オートバイ 東名高速道路 片岡義男エッセイ・コレクション『彼の後輪が滑った』 道路
2016年5月25日 05:30
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