アイキャッチ画像

対話をしない人

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 自分専用の固い枠の内側に守られ、そのかぎりにおいて安心して存在していることの出来る自分という人のありかたは、日本人のありかたの基本だと言っていい。ものごとの言いあらわしかたにかかわる日本語の基本能力が、主観という固い枠のなかで発揮される、静止した状態を列挙していく能力であることの、必然的な結果だ。ものごとをどのように言いあらわすかは、ものごとをどうとらえるかであり、どうとらえるかは、そのまま、その人のありかたなのだから。

 このようなありかたのなかにある人にとって、およそもっとも不得意なのは、なにごとかをめぐって他者となされるべき対話というものだ。

 日本人には対話がないと、当の日本人たちが、しばしば強く指摘している。人のありかたの基本である自国語のなかに、対話に必要な条件が、そもそもほとんど内蔵されていないことに出発点を持った、対話のなさだ。したがって対話がないということに関して、当人たちは基本的にものすごく無自覚であり、対話というものがいったいなになのか、知らないままでいる。対話を多少ともあらしめるためには、対話とはなにかという地点から、始めなくてはいけない。

 対話とは、共通の関心事という問題をめぐって、他者とともに可能なかぎり言葉をつくし合い、その作業をとおして、問題とされていることについて考えられるだけ考え抜き、もっとも健全な方向を見つけていく営みだ。

 この作業にとってなによりも有効なのは、英語におけるような、「アイ」と「ユー」の関係だ。「アイ」と「ユー」における自分と他者との関係は、まず第一に、一対一の関係だ。自分ひとりが、自分のすべてだけを背後に持って、おなじようなひとりの相手と対する。相手である「ユー」の向こうには、原理的には無数の「ユー」が存在するのだが、言葉による関係では、自分と相手とは一対一だ。

 そしてこの一対一の関係は、絶対に対等でなくてはならない。両者のあいだに、どんなかたちや性質であるにせよ、高低の段差があってはならない。自分が意見を述べているとき、その自分は「アイ」という存在でしかなく、その自分が相手の意見を聞いているときには、相手にとっての自分は、「ユー」と呼ばれる存在でしかない。「アイ」であり「ユー」であること以外のいっさいを、対話のなかに持ち込み、対話の内容や方向に対しての影響力としてはいけない。

 相手の背後にあるもの、たとえば相手の立場や事情などに、引きずられてはいけない。自分もまた、自分の背後にあるものを、相手に対する影響力としてはいけない。こういう立場だからとか、こういう経歴の人だからというような、現実における個々の事情を、対話のなかに持ち込んではいけない。

 しかし、自分も相手も、それまでの人生で獲得し蓄積してきた判断力や知識などのありったけを、対話のための言葉の支えにする。対話のために使う自分の言葉には、自分のすべてが賭けてある。相手もおなじようにそうする。「アイ」と「ユー」という人が、なんらかの問題をめぐって対話をするときには、交わされる言葉だけが、そのまま核心となる。言葉に託された意味そのものだけが、一対一の対等関係のなかで対話をしていく。

 対話について仮にこのように説明していくと、非常に多くの場合、あるいはほとんどの場合、日本では次のように誤解される。対話とは、とにかくなんでもいいから言葉を巧みに操り、ときには恫喝をまじえつつ、有無を言わせず相手をねじ伏せるための、勝つか負けるかを賭けた一騎討ちである、という誤解がひとつ。そしてもうひとつは、対話とはわかり合いごっこだ、という誤解。

 対話は一騎討ちではないし、わかり合いごっこでもない。両者のあいだの共通性を可能なかぎり見つけ出していく作業を、言葉をつくし考え抜くことによって、徹底的におこない続ける。このことをとおして、両者のあいだに存在する差や違いが、とことん追い込まれていく。追い込まれれば追い込まれるほど、両者のあいだにある差や違いが、はっきりしていく。と同時に、両者にとってたがいに了解し合うことの出来る領域が、少しずつ広くなっていく。

 了解し合うことの出来た共通性の部分と、いまだ共通しない差や違いの部分を、両者は対等に観察し認識する。両者に共通した価値となるはずの、進むべきもっとも健全な方向というものが、このようにして見えてくる。対話とは、共通の価値の獲得をめざした、頭の中身による対立なのだ。頭の中身以外のものを持ち込んだなら、それは対話にはならない。

 どんなことについて対話するにしても、立場が違えば意見も違ってくる。当然のことだ。もっと当然なのは、立場というものは無数にあり得る、という事実だ。したがって意見もまた、無数だ。人が違えばものの言いかたが違ってくる。相手が言ったことへの反応のしかたも千差万別だ。言葉のつくし合いという営みは、原則として果てがない。

 自分専用の固い枠に入り、そのなかに守られて安心していたい人にとって、対話のためにまずしなければならないのは、自分専用の枠のなかから、その外へと出ることだ。出ないで対話を試みると、自分の意見とは異なる他者の意見を、その人は自分が収まっている枠で、受けとめることになる。大きく異なっている意見も、あるいはほんの少ししか違わない意見もすべて一様に、その人の入っている枠にまず衝突する。

 そのような衝突は、自分の枠に対する批判や攻撃のように感じられるのではないか、と僕は思う。対話らしきものを重ねれば重ねるほど、自分の意見とは異なる相手の意見は、自分の全存在の否定や、全人格への攻撃へと、枠をとおして転換されるのではないか。自分という人が常に入っている枠は、まずそのようなかたちで、対話を妨げるのではないか。交わされる言葉は、関係の決裂のみを生み出す。

 「自分」という固い枠のなかで、「自分」の主観の安泰をテーマに、その主観が動揺したり不安を感じたり、さらには覆ったりすることのないように図ろうとすると、枠の内側に引きこもったまま、外に対しては言葉らしい言葉を発しないでいるのが、もっとも効果的な態度となる。

 枠から出ることなく、その枠で他者の意見と接する態度ないしは方針は、対話というものの成立の可能性を、最初から想定していない。想定していないだけに、他者の意見はただちに、自分に対する威嚇として受け止めざるを得なくなる。対話がない、対話が成立しないとは、このようなことだ。

 「アイ」と「ユー」がそれぞれにまといつけている雑多な現実をいっさい引きずることなく、頭の中身の表現である言葉のみによって対話を重ねていく状況とは、公共性という価値が生まれていく過程の原型だ。だから対話のないところには、公共性という価値はない。ただ単にないだけではなく、基本的に、原理的に、そのようなものはそもそもあり得ない、というかたちでそれはない。

 つくされていく言葉や、考え抜かれていく考えのひとつひとつは、公共性という価値のぜんたいにとって、きわめて重要だ。固い枠のなかに入ってその枠に守られ、自分は絶対に「自分」でありたいと願ってそうしていると、社会のなかのひとりの人という最小単位に、その人はなれない。

 日本には公共の観念がないという指摘が、これまで何度なされたかわからない。社会性の欠如や国際性に欠けていることなども、日本人みずからによって、指摘だけは充分になされた。日本では交渉や議論が成立しないなどとも、言われすぎるほどに言われてきた。こういった指摘は、ひとまとめにもはや完全な定説となり、正しい説として通用している。「自分」という人は、枠のなかに入ったまま、外へ出てこない。枠に入ったままとは、枠の内側を守るということだ。枠の内側にいる「自分」という人は利己と呼ぶべき存在であり、利己というかたちで「自分」を守ることがもっとも重要な主題であるなら、他者との対話や議論は成立しない。

 戦後の日本は世界のなかのさまざまな相手と、交渉や議論を無数におこなったはずだ。現在までよくやってこられたものだという感概をもし持つなら、次のように考えることによって、その感概はたちまちゼロに近くなる。交渉ごとは、そこからおたがいが得をすることが出来るなら、基本的には常に成立する。そのような領域での交渉だけを、戦後の日本は積み重ねてきたのではないか。そして議論は、主題が真あればあるほど、日本は議論を回避するかあるいは相手の言いなりになってきたのではないか。

 ものごとや状況などを、すでにそうなっているものとして、静止して完了した状態でとらえて言いあらわすのが、日本語の性能にとってはもっとも無理がない、ということについてはすでに何度も繰り返した。現在という状態を、日本語では、静止してそこにあるものとして、とらえられる。

 現在という状況は、しかしいつであれ、けっして静止してはいない。すべての事態が刻々と変化しつつ、進行している。それが現在というものだ。たいして変化がないように見えても、現在は変化のただなかにある。現在というものをこのように認識するなら、その認識は常に変化と向き合っているから、変化への対応がいつでも可能だ。

 いつのまにかそうなって、いったんは完了してすべては静止している状態として認識されている現在と、変化のさなかにある状態としての現在では、完璧に正反対ではないか。「自分」という枠のなかに入ったままの状態は、ひとまず完了して静止している状態として現在を認識することと、なんの無理もなく呼応している。対話へと人をつき動かすもっとも基本的な原動力は、現在という状態を変化のさなかであると認識することから、生まれてくる。

 変化にはかならず因果関係があるのだが、そうなってしまったという静止や完了で現在をとらえる習性のなかにいると、因果関係の力学には思考がおよばない。変化を読むことが出来ないから、変化への対応は常に遅れるし不充分である、というパターンから脱却することが出来ない。

 議論というものは、まともなかたちでおこなわれるなら、かならず議論百出となる。文字どおり百人いれば百とおりの意見が出る。ニュアンスの微小差まで考慮に入れると、意見はきりがない。議論は際限なく蛇行する。

 しかし、これが、議論の大原則なのだ。賛成か反対かがいきなりきまり、全員がそれにしたがうという不健全さを避けるためにこそ、議論はおこなわれる。いきなりどちらかにきまり、全員がそれにしたがうのは、しかし日本では確立された形態だ。

 百出する議論は蛇行を繰り返し、問題がいっこうに解決しないように見えることにも、日本の人たちは耐えられないのではないか。しかもその蛇行は、とりとめなくだらだらと蛇行するのではなく、容赦なく蛇行する。目先の懸案が、まとまる、おさまるというかたちで、可能なかぎり速やかに決着することを、日本の人たちはなによりも求める。状況が出来るだけ早くに安定し静止することによって、自分にかかる負担が最小限となるように、ということなのだろう。

 容赦なく蛇行する、といま僕は書いた。容赦なくとは、いったいどういうことなのか。

 議論や対話のなかで意見をのべる誰もが、すでに書いたとおり、自分のありったけの上に立つ。持っているものすべてが自分となる。自分に蓄積されているものを総動員させ、フル稼動させて、議論にあたる。結果として、議論は容赦ない。権利の主張がそのまま議論となるような場合には、容赦のなさは最高度に達する。

 このように内容において容赦のない議論は、蛇行するのが当然だ。意見を合計して頭数で割り、最大公約数のような疑似的な公平感を引き出すのが、議論ではない。蛇行するのは、主張と主張とが、すべて丹念に突き合わされるからだ。なぜ、突き合わせるのか。問題を多視点から直視することを可能にするためだ。

 意見の重なる部分と重ならない部分とを、慎重に少しずつ、確認していかなければならない。確認のための視点を多く取ると、そのぶん蛇行する。全員の意見が完全に重なるとはあり得ない、という前提はもっとも健全だ。どこまで重なるのかを、つきつめていく。ここまでは重なる、ということがやがてわかる。重なるそこまでが、公共性という、全員にとって共通に作用する、普遍的な価値となる。

 いまはまだ実現していない夢を実現させるための果てしない手続き、それが対話や議論だ。議論や対話がめざしているものは、いまここにある現実の延長とは、似て非なるものだ。いかなる問題に関しても、現実のすぐ隣に解決策があると思う日本人は、手続きの果てしなさに耐えられない。状況はいつまでも静止しないし、いつまでたっても安定しないからだ。

 枠に入っている人にとって、もっとも迅速でもっとも現実的に有効な対処のしかたは、自分とは関係ないという、自分ひとりだけを尺度とした判断だ。日本における対話や議論のなさをつきつめていくと、根底のところでぶつかるのは、おそらくこれだ。

 いつも入っているための自分専用の枠が、なぜそんなに必要なのか。個人としてきわめて脆弱だからだ。個人としてたいへん弱いとは、どういうことなのか。鍛えられていないからだ。個人はどのように鍛えられるのか。言葉によってだ。言葉は考えを言いあらわす手段だ。その言葉が鍛えられていないとは、自分でものを考える力がきわめて弱い、ということにほかならない。

 自前の頭でものごとを考え抜くことが出来ないから、自己による確固たる判断がいっさい出来ない。なぜ人々は、そこまで弱いのか。弱い人たちは統制しやすく管理しやすいからだ、という答えがひとつある。自分ではなにも考えない人になるというかたちで、管理者や時代や状況などのすべてに順応していく、という歴史を生きてきた結果だ。

 日本人は対話や議論が下手である、不得意である、そもそも彼らは対話や議論に向いていない、という説は探せばいくらでもある。ひとまずそれは定説なのだろう。そもそも向いていないというのは、もっとも極端な説だ。この極端な説から逆算するようにして、対話や議論をめぐる日本人について考えてみるのは、けっして無駄ではないと思う。

 対話や議論に向いていないとは、対話や議論がいったいなになのか日本人は知らない、ということではないか。よく知っていながら意識的に避けている態度なら、そもそも向いてないなどとは言われないはずだ。

 対話や議論がなにであるのか、そのことをそもそも知らないとは、現実というもののとらえかたやものの考えかたのなかに、対話や議論へと結びつく経路がない、ということだ。そのようなもっとも日本人的な現実のとらえかた、というものを探してみると、それは確かにあるのではないか。

 たとえば、日本は国際社会がなにであるかわかっていないとか、日本人は危機管理がきわめて下手であるといった説は、もっとも日本人的な現実のとらえかたというものを、よく言いあらわしていると僕は思う。国際社会がなにであるかわかっていなかったり、危機管理がたいそう下手であったりするのは、なぜか。

 現実のなかのごく一部分しか見ないからだ。見ている一部分とは、どこなのか。たまたま自分の目の前にある、したがってきわめて見えやすく、なおかつ自分にとって多少とも関心のある部分だけを、彼らは見る。現実というものは、広さも深さも高さも存分にある、巨大な立体だ。そしてその内部は、複雑きわまりない三次元世界だ。そういうものとしてのぜんたいには、日本人は興味がないのではないか。だからそれは見ないから、いつまでたっても見えていないままとなる。現実のなかの、自分にとって興味や利害のあるごく一部分を、平板にとらえる。もっとも日本人的な現実のとらえかたは、おおざっぱに言ってこのようなとらえかたではないか。違うよ、まるっきり違う、と言える人は少ないはずだ。

 たまたま自分の目の前にあって見えやすく、しかもその自分にとって興味のあるごく一部分だけを、ひとつだけの角度から見る。そしてそのごく一部分は、いまはこれ、次はそれというふうに、時間の経過とともに移ろっていく。次々に移ろっていくものを線で結ぶと、それはどこまでもただのびていく線であり、核心的な一点にやがて関心が集中する、というようなことは起こらない。

 これと本質的におなじことが、頭のなかでものごとを考えるときにも、おこなわれる。あるひとりの人がものごとを考えるとは、その人がたまたま自分の頭のなかに思い起こすことの出来るイメージを、ひとつずつ、順不同につなげていくことだ。思い起こすどのイメージも、その人にとっては自分そのものと言っていいほどに具体的に手応えのあるものだから、思い起こしては主観の糸でつないでいくなら、それはいつだって自分の考えであり自分であり、その人の現実世界なのだ。

 もっとも日本人的なものの考えかたとは、その人がたまたま知っていたり、かつてなんらかのかたちで体験したことのある、したがってイメージとして呼び起こすことの出来るものを、連想ゲーム的に次々につなげていき、そのつながりを自分の思考として実感する、というような行為だ。そしてこの場合も、つながるいくつものイメージは、一本の線だ。

 もっとも日本人的な現実のとらえかた、もっとも日本人的なものの考えかたなどは、人のありかたのもっとも日本人的なスタイルや内容を、作らないわけがない。現実のとらえかたも、ものの考えかたも、それがどのようなものであれ、当人にとってはたいへんに実感のあるものだ。だからその人は、現実のとらえかたやものの考えかたのいずれにも、自信を持つにいたる。じつは自分ひとりのなかにしか根拠を持たない、吹けば飛ぶような主観のひとつにしかすぎないかもしれない、というような懐疑の念はいっさい持たない。自分の言葉はひょっとしてなにひとつ相手に伝えることは出来ないのではないか、という反省的な疑問とはほぼ無縁だ。

 人は常になんらかの場のなかにいる。おなじ場のなかにいる人たちと、場は共有される。自分による現実のとらえかた、自分が持っているものの考えかたなどですべては間に合い、自分の言葉であらゆることが人に伝わるという自信は、その人が身を置いている狭い場が作り出すものだ。

 あまりにも自信を持ってしまっているこのようなありかたは、じつは変化に対してほとんど用意を持っていない、という特徴をかかえている。いろんな意味で変化を嫌うのはなにも考えなくてもいいほどにおなじ状態が続くのが好きであり、事実そのように生きてきた。続いていくおなじ状態のなかで、誰もが似たような経験をし、おなじようなとらえかたや考えかたをしている、という状態が彼らにとってはもっとも望ましい。社会はずっと以前からいまとおなじようにそこにあった、すでにとっくに出来上がったものであり、自分はそのなかにいる、と誰もが考えている。

 おなじ場のなかにいるこの人とその人は、おなじ場という共同体のなかで、親しい関係を作る。場の外にいるあの人は、この人やその人などによって、厳しく排除的に区別される。おなじ場を共有するこの人とその人との関係のなかでも、相互に排除し合うとまではいかなくとも、二本の平行線のように、どこまでも交わらないのではないか。

 人と人とが決定的に交わるのは、両者が対等な関係にあるときだ。人と人との対等な関係は、しかし、日本語の構造や機能のなかに、前提されていない。なんらかの上下や利害の関係に、日本語の構造は適合する。そしてそのような関係のなかでこそ、日本語は本来の機能を発揮する。抽象的な対等関係となると、外国語から翻訳された日本語のなかにしかない。

 対等とは、どういうことか。対人関係のなかで、その関係の質や程度、方向などを、精緻に見きわめた上でなされる、言葉や行動へのきりがないほどにたくさんの気づかいのようなものが、いっさい不必要なものとして存在していない言葉の世界、とひとまず言っておこう。

 自分を理解する方法でもっとも有効なのは、他者の視点から自分を見ることだ。だから自分という人にとって、他者は絶対に必要だ。しかし、他者が単に存在しているだけでは、自分という人にはなにごとも起こらない。他者との関係が必要だ。他者との関係とは、たったいま書いたとおり、他者の立場や視点、他者の考えかたなどから、自分を見ることによって拡大される、自分というものの理解だ。この理解をとおして他者もまた、自分という人のなかに拡大され、理解される。

 人による創造的な営みは、他者と自分とのこのような相互作用においてのみ、可能となる。他者と対話も議論も持たないとは、自分という人は断じてクリエイティヴには生きない、ということにほかならない。社会をより良きありかたへと変えていくための、もっとも具体的で公共的な価値を発揮するはずの、クリエイティヴな営みが出来ないという、決定的な弱点のなかで人は生きることになる。

 対話や議論は、いままでなかった新しい価値の可能性だ。そのような価値は現実にはまだどこにもなくても、論理の言葉をつくし合うなかに、先取りされた可能性として、浮かび上がることは充分にあり得る。対話や議論がないと、この可能性もまたないことになる。

 人との関係のありかたがクリエイティヴではないということは、その人に自由がないことを意味する。自由があると自分の考えと行動に自分のことをとおして、とんでもない創意や独創が、現実のこととしてかたちになっていく。自由がないかわりに、ああしろ、こうしろ、人とはこうあるべきだ、というようなプレッシャーが日本社会には満ちている。そのようなプレッシャーは、誰もが枠にはまることを強く要求する。枠にはまるとは、かたちさえ守ればどこからも文句は出ない、というありかたを自分も引き受けることだ。かたちとは建前だとすると、その裏に本音がある。そして本音とはそもそも裏のものなのだということがたちまち明らかになり、裏ルールによって取り仕切られるという現在の地平へ、難なくたどり着いてしまう。

 日本人はそもそも対話や議論に向いていないとする説は、やっかいな問題をわかりやすく伝えるための、ものの言いかたの一種だと僕は解釈する。日本語そのものが、対話や議論に向いていないとは、誰も思わない。日本語の使いかたが、対話や議論のための使いかたではない場合が現実には圧倒的に多い、というだけのことだ。

(『日本語で生きるとは』1999所収)


1999年 『日本語で生きるとは』 日本 日本語 社会 関係
2016年1月9日 05:30
サポータ募集中