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ホノルルのダウンタウン、キングス・ベーカリーから、ハワイアン・スィート・ブレッドをお届けします

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 ホノルルに、キングス・ベーカリーというパン屋さんがある。パン、ケーキ、クッキー、ドーナツ、パイなどいろんな種類のペイストリーを自家製造して売っている店だ。

 地元ハワイではあまりにも有名で、たったいまぼくが書いたみたいに、キングス・ベーカリーというパン屋さんがある、などと言うことじたい、成立しない。それほどに有名であり、ハワイでの生活になくてはならないものだ。キングス・ベーカリーのハワイアン・スィート・ブレッドを食べたいばっかりにジャンボ機ではるばる太平洋をこえてホノルルへ、かつてぼくはいったことがある。

 キングス・ベーカリーは、ホノルルのサウス・キング・ストリートの一九三六番にある。1936 S. KING ST.だ。この番地名を見ただけで、ハワイアン・スィート・ブレッドの味や香り、そしてあの絶妙なやわらかさなどを、生理的な、あるいは心理の奥深くとつながった快感として、思い出す人たちは多いにちがいない。

 キングス・ベーカリーは、現在ではカリフォルニアにも工場を持っている。キングス・インターナショナル・ベーカリーといい、ハワイアン・スィート・ブレッドだけをつくっている。西海岸全域ではだいたい手に入るから、ハワイでは知らなくても西海岸で食べた人もいることだろう。こんどハワイへいったら、ホノルルのダウンタウン、サウス・キング・ストリート一九三六番のキングス・ベーカリーで、いろんなパンやケーキを食べてみてほしい。

 キングス・ベーカリーのパンのおいしさは有名だが、商業的な成功を大きく勝ちとったサクセス・ストーリーとしても、非常に有名だ。創業社長はロバート・ロクロー・タイラという日系二世で、一九八○年にはハワイのSBA(スモール・ビジネス・アドミニストレーション)によって、一九八○年度ハワイの最優秀スモール・ビジネスマンに、選出されている。タイラさんは、いまでも現役の社長だ。

 ロバート・タイラさんと彼のキングス・ベーカリーの物語は、たいへんに面白い。このサクセス・ストーリーを、ぼくは『ホノルル・マガジン』の一九八〇年八・九月号で知った。

 タイラさんは、ハワイ島のハマクア・コーストにかつてあった、ハカラウというシュガー・プランテーションで生まれた。両親のタイラ・ゼンショーおよびカメ夫妻は、十代の新婚夫婦として、一九〇六年に日本からハワイ島の砂糖キビ耕地・粗糖製造工場へ、来たのだった。いまで言う海外移住だが、当時の日本人はハワイへいってしまうことをそんなに深刻には考えていず、手ぬぐいを一本持ち、いってくるよ、という感じだったらしい。

 タイラ夫妻のナンバ・ファイヴ・サン(五人目の息子)であったロバート・タイラは、上の兄たち四人が、砂糖キビ畑の労働から抜け出してもっと生活を向上させる手段として高等教育をうけるためにプランテーションを去ったあと、父といっしょに砂糖キビ畑で働いた。父の片腕として十三歳から働きはじめたボブ・タイラは、とても頼りになる、しっかりとした優秀な働き手だったという。

 ビジネス・センスは少年の頃からあったらしく、プランテーションのなかで少年たちの誰もが自分のものとして持っていた野菜畑での収穫が誰よりも多く、プランテーションのなかでその野菜を誰よりもうまく完売するのは、いつもボブ・タイラだった。

 プランテーションから十六マイルはなれたハイスクールにかようには、月間六ドルの料金をとられるプライベート・バスに乗らなくてはいけない。ボブはこのバスのパートタイムのドライバーとなり、料金を払わないでいいことになった。畑で働いている人と工場とのあいだの連絡係を、自動車をとばしていつもやっていたボブにとって、スクールバスの運転など朝めしまえだった。

 あと六か月でハイスクールを卒業するという、十二月の日曜日の朝、ジャパニーズ・インピーリアル・ネイヴィーが、パール・ハーバーを攻撃した。

 ハワイ島の田舎に点在するカントリー・ストアとヒロとのあいだを結ぶ運送会社を、自分のトラックを二台かかえて運営してすごしたボブ・タイラは、一九四三年に、二十歳で、アメリカ陸軍に入隊した。

 ハワイ島の田舎プランテーションしか知らなかったロバート・タイラ青年にとって、軍隊生活は、それまで思ってもみなかった巨大な世界を見るための扉だった。たとえば、軍隊というものがいかに大量の食糧を消費するかを、自らの体験として直接に知ったことは、その後のタイラ青年の進路に大きな影響をあたえた。

 戦争が日本の負けとなり、タイラ青年はオキュペーション GI として、両親の祖国へはじめて来た。焼け跡がまだいたるところに残っている敗戦国なのに、アメリカの影響がすでに日本の日常生活のなかに深くしみこんでいることに、ロバート・タイラは気づいた。

 この日本でなにか商売はできないだろうかと思った彼は、アメリカにはごく普通にありながら、日本にはまだないものを、さがした。やがて、興味深いものがひとつ見つかった。パン屋さんだ。日本のように人口の多い国では、食べものが毎日、大量に消費される。これからアメリカの影響をさらに深くうけて、やがてベーカリーが日本にとって大いに必要になるはずだ、と発想したロバートは、日本でベーカリーを開く夢をもち、ハワイに帰った。

 一九四七年に陸軍を除隊したロバートは、ホノルル・ヴォケーション・スクールでパン焼きを学びつつ、戦争で中断したハイスクールのディプロマをとった。日本へいく準備をすすめたのだが、朝鮮戦争のせいでヴィザがとれず、しかもロバートはすでに結婚して子供がいた。老いた父の世話もしなくてはならなかった。

 日本へいくことはあきらめたが、どうしても自分のベーカリーを持ちたいと思っていたロバートに、父親は、生命保険のかけ金三千ドルを、資金として提供した。

 一九五〇年十月、ひと月のレントが百五十ドルという小さな店をヒロのダウンタウンに借りて、ロバート念願のベーカリーは開店した。店の名前は、ロバーツ・ベーカリーといった。

 ロバートの店のケーキやパンは、開店の初日からたいへんな売れゆきだった。注文に応じるだけでも大仕事という状態がつづき、二か月後にはロバートは働きすぎのために入院しなくてはいけないほどだった。ベーカリーは調子よく発展していき、自分で設計したベーカリーと店の建物を自己資金で建て、一九六一年には年商二十五万ドルとなった。ヒロの町にしては、たいへんなスケールだ。そして、この年、ロバートは自分のベーカリーを売り払い、その代金にあらたな資金を加え、ホノルルにベーカリーをつくった。サウス・キング・ストリートの一九三六に店を構え、店名はキングス・ベーカリーとした。この店がまた大繁盛し、サクセス・ストーリーは現在にいたる。

 ハワイに観光旅行した人がおみやげに買ってきてくれたのを食べたり、クリスマスのプレゼントにハワイから送ってもらったりして覚えたキングス・ベーカリーの味が忘れられないという人たちが西海岸にたくさんいた事実が潜在的な力となって、キングス・ベーカリーのアメリカ本土進出は可能となったのだ。

 キングス・ベーカリーのペイストリーをハワイみやげにもらった人は、そのあまりのおいしさに手紙でさらに注文するために、パッケージをいつまでもとっておくという伝統的習慣を、昔から身につけている。

『5Bの鉛筆で書いた』角川文庫 1985年所収
底本:片岡義男エッセイ・コレクション『僕が書いたあの島』太田出版 1995年

今日のリンク:ハワイアン・スィート・ブレッド( KING’S HAWAIIAN 公式ホームページより)


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2016年4月12日 05:30
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