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海岸にて、というタイトルでなにか書いてください

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 いつもの街で、ふたりは昼すぎに会った。四月十七日、気温の高い、気持ちよく晴れた美しい日だった。海岸へいってみようか、と彼が提案した。彼女は賛成だった。夜までには町へ戻り、ふたりでタ食を楽しむことにして、ふたりはすぐに駅へむかった。

 特急電車で一時間。そしてバスで十五分。太平洋に面した長く続く白い砂の海岸に、ふたりは到着した。海が巨大だった。その上にある空が、まっ青に輝いていた。吹く潮風をさえぎるもののなにもない空間が、自分たちの体の内部へ入りこみ広がっていく快感を、ふたりは存分に受けとめた。

 海岸になぜか人はいなかった。春の陽ざしと風のなかで、ふたりはふたりきりでいることを楽しんだ。砂浜をさまざまに歩き、砂の上に這い上がってくる白い波を相手に、きわどいところで逃れる遊びをくりかえした。

 砂丘にのぼって頂上にすわり、広い海をふたりで眺めた。水平線は明らかに湾曲していた。タンカーらしい船が小さくいくつも、シルエットになって水平線の上にいた。

 ひときわ広い平らな砂浜のまんなかで、ふたりは片手をつなぎあった。彼がまっすぐに立って中心軸となり、いっぱいにのばした彼の腕を片手で握って、彼女は届くかぎり遠くまで脚をのばした。その足先をコンパスのように使い、彼女は砂の上に大きな円をひとつ描いた。中心軸の彼が、彼女の動きにあわせて、すこしずつ回転していった。

 思いのほか大きな円が、描けた。手をつないでその円の外に立ち、ふたりは円を観察した。

「これが僕たちの世界だ」

 と、彼が言った。

「なかに入ってみましょう」

 ふたりは円のなかに入った。円のまんなかに立った。そしてふたりは抱き合った。陽が降り注ぎ、風が吹いた。彼が言った「僕たちの世界」のなかで、その瞬間のふたりは最高に幸せだった。

 彼女は小さなカメラを持っていた。近くの砂丘の頂上から、彼女はその円を写真に撮った。彼が中央に立っているところも写真に撮り、彼女が中央に立って笑顔で手を上げている様子を、彼が砂丘の上から撮った。

 彼は二十一歳、そして彼女は二十歳になったばかりだった。彼はすでに就職していたが、その日はなにかの理由で休みだった。休みだったから、ふたりは昼すぎに街で会ったのだ。

 このときの三枚の写真は、彼女が大切にしている何冊もの写真アルバムのうちの一冊に、一ページをさいて貼ってある。いちばん上には、砂に描いた円だけの写真。その下には、彼が円の中央に立っている写真。そしていちばん下には、彼女が円のなかで手を上げている写真。その三枚が縦に一列に貼ってある。空いたスペースの片隅に、『海岸にて』と、彼女の字で書いてある。その下には日付が添えてある。

 彼女の父親は、愛する娘である彼女に関して、一年分のスナップ写真を一冊のアルバムにきちんと整理するのを、家庭での仕事のひとつにしていた。一歳からはじまって毎年一冊、写真アルバムが出来ていったのだ。だから、彼とふたりで海岸へいき、砂の上に大きな円をふたりで描いたとき、彼女にはすでに十九冊のアルバムがあった。その十九冊は、いまも両親が住んでいる実家の、彼女の部屋の本棚におさめてあった。

 二十冊めからは、現在の彼女があのときとおなじ彼とともに夫婦として生活しているこの部屋に、置いてある。父親がしていたとおり、彼女も、写真を一年ごとに一冊のアルバムに整理している。二十冊めのアルバム以後、すでに十数冊のアルバムが、彼女たちの部屋に生まれていた。

 四月なかば、よく晴れた日曜日、それが今日だ。正午すこしまえだ。ダイニング・アルコーヴの丸いテーブルに、彼と彼女はむきあってすわっていた。

 せっかくのお天気だから散歩に出よう、という相談をふたりはおこなっていたところだ。

「どこへいこうか」

 笑顔で彼がきいた。彼の笑顔は、十数年まえとまったくおなじだった。その笑顔をきっかけにして、彼女は、十数年まえのおなじような春の晴天の日に、ふたりで海岸へいったことを思い出した。砂の上にふたりで描いた大きなひとつの円が、彼女の記憶のなかによみがえった。

「海岸へいきましょう」

「いいね。どこの海岸にしようか」

「すぐに出ましょう」

「いこう」

 急いでしたくをととのえて、ふたりは外出した。駅まで陽ざしのなかを歩き、電車に乗った。終点のターミナル駅までいった。そこで別の電車に乗り換え、その終点で特急電車に乗った。

 あのときとおなじ海岸へ、彼女は彼を連れていくつもりだった。ふたりで砂に描いた円について、海岸へ着くまでに彼が思い出すかどうか、そして思い出すとしたらいつ思い出して語りはじめるか、彼女はひとりで楽しんでいた。

底本:『アール・グレイから始まる日』角川文庫 1991年


1991年 『アール・グレイから始まる日』 彼女 4月
2016年4月17日 05:30
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