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『オール・マイ・ラヴィング』のシングル盤

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 おもに仕事の打ち合わせの場所として、その頃の僕は、その小さな喫茶店を毎日のように利用していた。ある日、彼女は、そこにいた。ウェイトレスをしていた。僕の注文を彼女が受けてくれた。注文したものを彼女がテーブルまで持ってきてくれた。水も注ぎ足してくれた。夏の始まりの季節だった。

 その日以来、その喫茶店へいくといつも、彼女がいた。彼女を見る機会が重なれば重なるほど、僕は彼女の魅力にひかれることとなった。彼女の顔立ちは、シャープに彫りの効いた美貌と言っていい出来ばえだった。表情は少なく、どちらかと言えば冷たい印象があった。彼女自身はまったく意識していなかったようだが、寄らば切るぞという雰囲気が、いつも濃厚に漂っていた。そしてそのような雰囲気は、彼女に良く似合っていた。

 小柄でも大柄でもない、微妙な中間域の身長の体は、きわめてバランスがとれて骨格が良く 引き締まった強さを持ち味としていた。動きかたが素晴らしかった。

 目から入った情報が脳を経由して体の神経に伝達され、その命令を受けて人の体は動く。視神経による情報の受け取り能力が抜群に高いから、動きの途中で先を見越した微調整が、無意識にいくらでもくっきりと可能になる。太腿の裏の筋肉がよく働いている、と僕は判断した。

 ある日の夕方、日本橋の三越百貨店のライオンの前で、僕は彼女に呼びとめられた。姉に頼まれて中元の注文伝票を書きに来た、と彼女は言った。いつも仕事をしている喫茶店は姉の店であり、いまの自分はそこを一時的に手伝っている、というような立ち話をライオンの前でした。

 夕食の時間が近かった。夕食に誘うと、「あらうれしい」と、彼女は言った。彼女の声と口調によるこのひと言を、いまも僕は記憶している。見た目には鋭角的な彼女の雰囲気とは、まるで異なった口調だったからだ。

 天麩羅が食べたい、と彼女は言った。白木のカウンターがきれいな、落ち着いて食べることの出来る店を、たまたま僕は知っていた。だから僕たちはその店へいった。

 自分はストリッパーであり、十九歳のときから踊り始めていまは六年めになる、と彼女は語った。僕はそのとき二十八歳だった。いろんな話をした。彼女がステージで踊るときの曲についての話もあった。ビートルズの『オール・マイ・ラヴィング』が好きでそれを使っているのだが、シングル盤が手に入らなくて困っている、と彼女は言った。テープはすぐにのびるから使いものにならず、シングル盤がいちばんいいということだった。では僕が何枚か手に入れておこう、と僕は約束した。

 明日にも梅雨は明けるかという頃、彼女から葉書が届いた。ストリッパーとしての旅先からだった。向こうひと月ほどの出演スケジュールと劇場の名前そして所在地などが、丁寧な字できっちりと書いてあった。『オール・マイ・ラヴィング』のシングル盤を十二枚、僕はすでに手に入れていた。

 梅雨が明けた。いきなり始まった真夏の日に、僕は上野駅から急行に乗った。彼女が出演している劇場のある町へいき、劇場に彼女を訪ねた。彼女は風邪をひいて休んでいると劇場の人は言い、泊まっている旅館を教えてくれた。地方都市の真夏の陽ざしのなかを歩いて、僕はその旅館へいってみた。

 彼女は浴衣を着て部屋でひとり寝ていた。昨日は舞台に立ったけれど、夜のあいだ悪寒が止まらなかったから、今日は一日こうしているつもりだ、と彼女は言った。十二枚の『オール・マイ・ラヴィング』を、僕は彼女の枕もとに置いた。「あらうれしい」と、彼女は言った。三越のライオンの前で夕食に誘ったときと、まったくおなじ言葉と口調だった。

 愛の物語でも恋のストーリーでもいい、ここからなにか始まっていれば、それはそれでなかなか良かったのではないか、と僕は思う。しかし、彼女とはここまでとなった。その日の午後遅い急行で僕は東京へ帰り、それっきり彼女には会っていない。喫茶店は夏の盛りに閉店した。ごくたまに『オール・マイ・ラヴィング』を聴くと、少なくともその曲のあいだは、あの小さな喫茶店で、彼女が客にコーヒーを運んだり水を注いだりしている。

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

今日のリンク

The Beatles, All My Loving(1963)

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2016年7月27日 05:30
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