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ABCで苦労する子供たちと、ひらがなで楽をする子供たち

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 昨年の12月31日の午後、ぼくは東京にいた。東京の片隅でふとひらめくものがあり、そのひらめきにもとづいて洋書店へいき、アメリカおよびイギリスのABCブックを、目につくはじから買ってみた。ABCブックは、じつにたくさんあった。

 そして正月に、このABCブックを、ぼくは何度もながめた。素朴なできばえの、必要最小限のことしか書いていない、あからさまに幼児むけのABCブックから、ABCブックとしてほんとうに役に立ちそうなもの、そしてABCブックの名のもとに、大人が自分のやりたい芸術活動をやってしまったようなものまで、どれもみな個性に富み、ぼんやりとながめているだけでも充分に面白くむくわれるところ大だった。

 ABCの26文字を子供が覚えるとき、日本ではあいうえおの48文字を覚えるのと基本的にはまったくおなじやり方で、覚えているようだ。あいうえお、という自国語のベーシックを学習するときのやり方を、そのまま、外国語のABCの学習にも、あてはめている。

 ごく普通の知能を持ち、どちらかといえば従順に日本で育った子供なら、あいうえお、の48文字は、極端に言えば1時間もあれば覚えてしまう。ぜんぶを正確に書くことはできないだろうし、指さされて読むときにもまちがえることはあるだろうけれど、とにかくあいうえお48文字を覚えるという学習作業に、確実に入りこんでいける。さらにほんのすこし時間をかければ、あいうえおは書けるようになるし、読めるようになってしまう。「あ」は「ア」の音だし、「い」は「イ」の音、「う」は「ウ」の音であり、音と文字の結びつきも単純だから、あいうえおはとにかく非常に覚えやすい。あいうえお、を覚えるのにたいへん苦労する、という体験は、日本の幼児にはないのではないだろうか。あいうえおを覚えるのに3年も4年もかかる、というようなことは、ないはずだ。そして、この48文字を覚えてしまうと、あいはうつくしくとうといものですなどとひらがなで書いてある文章は、たちまち読めてしまう。ひらがなで書いてあるかぎり、ごく幼い子供でも、文章が、そして本が読めてしまう。

 ABCは、26文字だ。48文字にくらべるとだんぜんすくない。かたちは、日本語のひらがなのように、微妙なカーヴを持ったものはない。直線と半円とで構成されていると言っていいような、わかりやすいかたちだ。

 こういうAのかたちをしたものは「エー」、Bのかたちは「ビー」、そしてCは「シー」と、かたちに音をつけていけば、ひらがな学習を体験ずみの子供なら、30分で覚えてしまうだろう。

 だが、アメリカでは、このアルファベットの学習が、じつは子供にとって至難の業なのだ。プリスクール、そして小学校の1年で、ABCはしつこくしっかりと教える。それでも、小学校の高学年になってもまだABCがろくにできない子供が、ざらにいる。そしてさらに、アルファベットの読み方は知っていても、言葉の読めない子供が、とても多い。読めるふりをしていてじつは読めないという人は、高校生になってもいる。

 英語を覚えていくとき、まず最初に非常につらいのはAは「エー」、Bは「ビー」と、アルファベットを正確に読み書きできるようになっても、そのアルファベットで構成されている言葉はぜんぜん読めない、ということだ。アルファベットができるようになっても、それはただそれだけのことであり、そこからさきなんの役にも立たない。

 たとえば、ここに POPEYE という言葉がひとつあるが、アルファベットを知っているだけでは「ピー・オー・ピー・イー・ワイ・イー」と読むことしかできない。POPEYE とつづってポパイと読むなんて、まるっきりの嘘か深い謎のようであり、子供には理解できない。そして逆に、ポパイという言葉を知っていて口で言えても、POPEYE という言葉は読めないし、書けない。ひらがなを覚えた日本の子供と、ABCを覚えたアメリカの子供とをくらべると、日本の子供のほうが、この段階では、はるかに有利であるようだ。

 ABC世界の、幼年学習者にとってたいへんに不利なこの部分を埋めるひとつの手助けとして、ABCブックというものがある。

 ABCをどうにかこうにか覚えた子供は、次の段階として、POPとつづってポップと読み、EYEと書いてアイと読むという、ルールもなにもないように思える謎のカオスのなかへ入っていかなくてはいけない。

 単語のつづりと、それを声に出して読んで音にするときの、文字と音との結びつきという、子供にとっては謎に満ちた混沌のなかで、ABCブックは、非常に大きく機能する。

たとえば、雪だるま、というものは多くの子供が知っている。スノーマン、と口で言えるし、雪だるまの絵を見せれば、これはスノーマンだと理解できる。そしてそのスノーマンの絵のかたわらに SNOWMAN と文字が入っていれば、音とつづり字との結びつきの認識が、ささやかに、そして、ほのかに、生まれていく。Sは「エス」ではなく「ス」なのだと、まずひとつわかるわけだ。

 犬の絵を見てドッグと正確に英語として言えても、DとOとGのわずか3つの組みあわせであるところのDOGが読めないという幼年初心者は、英語における文字と音とのパターン認識という、きわめてやっかいな作業を、文字どおりひとつひとつ体験し、こなしていかなくてはいけない。

 こう書いたときはこう読む、というルールをひとつずつ覚えていく作業は、教えるほうにとっても学習するほうにとっても、根気と従順さを非常に大きく要求される。

 したがって、ここでつまずくといつまでたっても言葉が読めないままとなり、文盲の高校生が何人もできてしまったりする。

 文字と音の結びつきのルールを覚える作業ぜんたいを、フォニックスの勉強、と言っていいと思う。

 いちばん単純なABCブックはたとえば置き時計の絵をひとつ描き、そこに CLOCK という言葉をそえただけで成り立っている。もうすこし手がこんでくると、母音の読み方のパターン別にいろんな単語を語呂合わせのようにならべ、遊びのようにして覚えさせるという工夫をほどこしたりしている。

 この、フォニックスの勉強は、いわゆる役に立つ英語にとって非常に重要な基礎工事なのだが、日本ではほとんどやられていないような気がする。フォニックスを欠いたいびつな勉強のしかたは、たとえばむずかしい論文を目では読めても口では読めない人がたくさんいるというようなこととつながっている。

 ABCブックと同列に、カウンティング・ブックというものがある、数のかぞえ方を子供に教えるための一種の絵本だ。そして、ABCブックのすこしうえに、ワード・ブックがくる。単語の本だ。日常生活でよく目にしたり使ったりするものをなんと言いどのようにつづるかを教えるもので、絵入りのごく簡単な辞書だ。

 この段階を卒業すると、子供むけの辞書、つまりマイ・ファースト・ディクショナリー(私にとっての最初の辞書)というものが登場する。そして、お話の本、ストーリー・ブックがある。こういった本をたくさん集めてながめていると、子供が言葉を覚えて本を読むようになっていくプロセスが、作業としていかにたいへんで、しかもスリルに満ちているかが、よく認識できて面白い。

 アメリカの子供は、文字と音との結びつきのパターン認識に苦労し、日本の子供は、ひらがなで楽をするかわりに、大学を出たあとの就職試験にまで、漢字テストにつきまとわれる。両者の言語感覚が結果として大いにちがってくるだろうことは、素人のぼくにも推測できる。

(『ブックストアで待ちあわせ』1983年所収、底本:エッセイ・コレクション『自分を語るアメリカ』1995年)


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2016年1月15日 05:30