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アメリカ国内文脈ではなく、世界文脈の英語を

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この作品は、『日本語の外へ』「第2部 日本語──世界とは母国語の外のこと」
に収録されたものです。

 アメリカの人たちがアメリカ国内で日常生活を送っていく文脈のなかで使う、彼らにとっての母国語つまり普通に言われているところの英語は、世界ぜんたいから見るとアメリカという国の方言のようなものだと僕は思っている。その方言のまま世界のどこへでも出ていき、自分は方言を使っているという自覚など少しもないままに、あらゆる問題の論議を方言のまま押しとおしてしまうアメリカの人たちの数は多い。そしてその力はたいへん強い。

 だからこそ英語は国際語だから、その英語を我々も学ばなくてはいけない、という考えかたに僕は反対だ。アメリカ国内での日常生活文脈のための母国語である英語の習得をめざして、そこからはるか遠い日本の人たちが苦労するのは、もうやめたほうがいい。アメリカの方言を喋れるようになりたいという努力は、妙な趣味あるいは変わった趣味の領域に、とどめるといい。

 日本の人たちが学んで使うべきなのは、アメリカというひとつの国の文脈から完全に独立した英語だ。そのような英語はどこで学べますかと聞かれても僕は困るが、このような英語もほとんどの場合は大人になってから学習して自分のものにしていく第二言語であることに違いはない。そしてその学習には大きな苦労がともなうはずだ。

 アメリカ国内文脈は、しかし、敬して遠ざけるわけにもいかないようだ。第二言語としての英語を習得して活躍している各国の一流の人たちの英語を参考にして、真の意味での国際語としての英語をある程度以上は身につけたのち、もし必要なら、アメリカ国内文脈の英語も習得していくのがもっとも実用的な方法かもしれない。ただし、方言をそのまま国際語の位置に置いてはいけない。

 世界各国が相手にしなければならない難問は、日ごとにその数と複雑さとを増していく。そのような難問の数々を論じ合うとき、アメリカ国内文脈の英語はふさわしくないと僕は思う。英語を使うに際して、アメリカもまた自分の固有の文脈の外へ出なければならない。それに、方言で語り合うと、方言を母国語とする人たちが最初から有利なところに立つ。数と内容の複雑さとを日ごとに増していく世界の難問は、おなじルールのもとに対等な立場で論じ合わないかぎり、論じ合ったことにはならない。

 他の各国と等しくアメリカもまた、「国際」という共通の場へ出ていかなければならない。アメリカそのものがそのまま「国際」であるわけがないからだ。そしてその「国際」という場でなぜ英語がすべての当事者にとってもっとも有利かというと、英語には、特にアメリカのそれには、誰をもどのようなものをも受け入れる受容能力が、きわめて高いからだ。その高さは、誰もが共通にそこへ参加出来ることをあらかじめ約束している。アメリカの英語といっても、アメリカ国内での生活文脈内部の、方言のような英語そのものを意味するわけではない。アメリカの英語の構造と使いかたのなかにある受容性の高さは、多くの異質のしかし対等な参加者たち全員にとって、論議のためのポジティヴな思考回路に、そして思考された結果の表現手段に、なり得ると僕は思う。

 アメリカの英語のなかにある、受容性の高さゆえの豊かさの可能性を、「開かれた抽象性」と言いあらわした例が、僕の情報カードのなかにあった。「ある言語が豊かさを獲得するのは、出来るだけ多くの異なる背景を持った人たちによって、出来るだけ多くの異なる場面で、多様な目的に用いられることをとおしてである」という言いかたも、僕はカードのなかに見つけた。この言いかたは、そのまま、質のいい場合のアメリカ英語にあてはまる。

 すでに書いたとおり、英語は前進的だ。どこまでも前進を続けていく性能が、英語のなかに最初から内蔵されている。思考は放棄されることがない。そしてこの前進力は、ひと言で言うとパワーそのものだ。前進とは異質な多くのものに向けて自己を開放する力であり、受容能力とはとにかく受け入れてしまういわゆる受動的な態度ではなく、積極的に取り込んで同化させてしまう力だ。このような力を、少しだけ脇へずれた位置から観察したり受けとめたりすると、自分たちの価値基準をただ一方的に押しつけてくる力に見えてしまう。その力に辟易(へきえき)とし続けてきたのが、じつは戦後五十年間の日本だったのではないか。

 アメリカの英語が持つ性能について、「自国文脈を越えた広い思考構造の枠を持つ」という表現もカードのなかにあった。このような枠は、アメリカの英語だけではなく、使いかたによっては日本語においても、英語とおなじ程度でよければ、充分に可能なのだと僕は思っている。英語は因果関係の解明の言葉だから、それによってすべての問題が解明しつくされることはないにしても、論理の展開のしかたは常にくっきりと明快だ。この論理によって、世界のすべての問題を、客観的にとらえることが可能だ。論理や客観を経由して普遍へと手をのばそうとする言語である英語は、じつはたいへんに厳格で窮屈な言語でもある。しかしそれゆえに、時代の表面がいかに変化しようとも、言葉の性能の本質はなんら変化せず、言葉が生み出す論理は時代や国などを越えてその有効性を発揮し続ける。

 因果関係の解明のための論理や客観、そしてそれらが生み出すさまざまな前進的な力、たとえば提案力、同化力、受容力などをよく理解して自分の思考経路にしているなら、発音が相当にひどくても、そして文法的な整合性がかなり不足していても、その英語はどこでも美しく通用する。反対に、このような思考の枠の外に居続けるかぎり、一見したところいかに流暢(りゅうちょう)でも、その英語はいつまでも信用されず、したがって真剣には相手にしてもらえない。

 母国語とはなにか、そして日本語とはなにであるのかについて考えるために、少なくとも僕にとっては当然の経路として、英語とはなになのかについてごく簡単に書いてみた。英語という言語は、問題をとらえるとき、つまり思考するとき、その思考の経路を作っていく論理のありかただということを、僕は確認した。おそらく日本語の場合も、日本語は思考していくときの論理のありかたであるに違いない。ただし論理の立てかたは、英語の場合とは大きく異なるのではないか、と僕は思う。言語が思考の経路を作っていくときの論理は、その言語による社会の成り立ちそのものでもある。英語の社会は英語という言語が作り得る論理によって成立している。だから英語の社会は英語による論理を信じている。そしてその論理でこれまでその社会は動いてきたし、これからもおなじ論理で動いていくはずだ。

 十五世紀以来の西欧五百年の歴史は、資本主義が次々に新たな展開を見せた歴史だった。この歴史のなかに世界の各国が次々に巻き込まれていき、資本主義は世界ぜんたいへと広がっていった。そのプロセスをリードしたのは西欧の力だった。その当然の結果として、自分たちの論理は絶対に正しいと、西欧はいまも信じている。世界ぜんたいに対して、自分たちの論理は普遍的に作用し得るはずだと、彼らは確信している。

 世界は西欧の普遍に呑み込まれていきつつある途中だと僕は思う。西欧の普遍は、しかし、かならずしも世界ぜんたいにとっての普遍ではない。この地球上には、西欧のほかにさまざまに多様な生活様式や文化そして宗教が、現在のものとして存在している。西欧もその多様な文化のひとつであるに過ぎない。歴史のなかで他をリードする力を得た西欧は、しかし、異質なものとはまだ本格的には出会っていないのではないか、と僕は感じている。多くの異質な文化の存在は承知しているし、それを認め、接してもいるけれど、異質なものと本格的に向き合ったことは、西欧にとってこれまで一度もない。その必要がなかったからだ。

 アメリカ国内文脈の英語は、得意技として表現することの可能な領域の質と方向とが、世界の必要と大きくずれ始めて久しい。アメリカをもっともよく体現するのはアメリカ英語だ。しかしアメリカが世界を体現することは出来ないし、そのようなことはあってはいけない。自分たちの国内文脈のための英語とは別に、世界のための英語を、アメリカも必要としている。国内文脈の英語は、国際的にはじつは限界を持っている。クリントン大統領の英語はアメリカのものだが、ダライ・ラマやネルスン・マンデーラの英語は、はるかに世界的な広がりを獲得している。そのような英語は、世界という複雑なものに対して、アメリカという国の方言よりもはるかに強く、普遍的な作用力を持っている。

 最近のアメリカ国内の英語には、使いかたや使途における質の低下が目立つ。クリントン政権の英語、というような本を書くと興味深いと思うが、いい部分は昔ながらのアメリカが変わらずにそのままあるいい部分であり、よろしくない部分は、近年になって急に目立ち始めた傾向だ。ああ言えばこう言う、論理を無視した言い換え、鉄面皮な弁明、説明の変更、すり替え、前言の棚上げ、前言の撤回、論議の意図的な中断、威圧的な言動、一方的な押しつけなど、たとえば日本はすべて体験してきた。このような英語が世界を仕切ろうと試みるのは、世界にとって大きな悲劇だ。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


『日本語の外へ』 アメリカを知っているのか?
2018年9月5日 00:00