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現実のしがらみと「私」

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この作品は、『日本語の外へ』「第2部 日本語──世界とは母国語の外のこと」
に収録されたものです。

 英語は、客観的で実証的な性能を持った、事実に則した言語だ。自分の外にある世界を、あくまでも外の世界としてのみ、表現していく。外の事実と内なる主観とを無差別に重ねることを、英語という言葉の性能が許さない。

 英語の性能は、事実を主観から切り離し続ける。自分は対象からどんどん切れていく。事実は主観から切り離される。可能なかぎりの客観、つまり、ありとあらゆる視点という価値を、この性能をとおして、人々は共同して積み重ねていくことが出来る。日本語の世界では、非常に多くの場合、表現は話し手というひとりの主観の観点からなされるものであり、そのことを誰もが了解事項として承知している。英語では、観点は主語という事実にある。

 しかし、事実は多い。だからそれを観察するとき、さまざまな角度が成立する。そして事実は一定ではない。刻一刻と変化していく。事実そのものが、それをとらえるときの、とらえかたの多様性を生み出す。とらえかたの多様性は表現のしかたの多様性であり、それはそのまま、立場の多様性につながる。ひとつに固定した構えでは、事実というものに対応出来ない。だから英語の世界では、構えが固定しない。なにか問題があれば、それぞれの問題に関して、議論はかならず百出する。議論百出による試行錯誤の蛇行は、際限がないように見える。しかし、現実を徹底的に分析すること、つまり出来るだけ多くの角度から事実を観察する態度は、人にあっては意識の健康を保つし、システムにとっては、その正常な機能の最低限の保証になる。

 IとYOUは対等な関係のなかにある。現実に社会的な地位や身分にどれほどの差があろうとも、IとYOUで向き合うとき、そのふたりは最初から完全に対等であり、どこまでいっても対等でしかない。どうしてですか、ともしきかれたなら、神がそう作った、としか僕には答えられない。あるいは、IとYOUとが対等でしかないからこそ、神が生まれたのだとも言える。実用上はどちらでもいいだろう。日本語の世界にはこのような対等な関係はない。したがって、日本語の世界の人たちにとって、IとYOUのような抽象的で対等な関係はきわめてとらえどころがなく、どう対処していいかいつまでもわからない、本能的に嫌がり避けたがる苦手な世界だ。

 英語のIは日本語では「私」でいいのではないでしょうか、と言う人がいるかもしれない。Iは「私」などではない。いまの日本語における「私」の歴史は、ないと言っていいほどに浅い。「私」という言葉を母国語として駆使出来る場は、日本にはじつはないと言ってもいい。「私」は一見したところ代名詞のようだ。英語のIは、しばしば「私」と訳されている。しかし「私」は代名詞ですらない。

 人がいわゆる社会人としてまといつけざるを得ない日常の現実味のようなものを、出来るだけそぎ落とした状態で自分を人に提示したいとき、人は自分のことを「私」と呼ぶ。自分がどんな人だか出来るだけわからなくするときの言葉が、「私」という呼びかただ。「私」は日本語として成立しきっていない。それは日本語ではないと言ってもいい。自分がどこのどういう人だかはっきりさせなくてもいいとき、あるいははっきりさせたくないとき、人は自分をきわめて便利に「私」と呼ぶ。英語のIにくらべると、「私」のありかたはおそろしく偏っているし、ごく小さな機能しか持っていない。

「私」に対して、ではYOUは「あなた」だろうか。「私」とおなじく「あなた」も、正体はまったく不明だ。「私」と「あなた」を日本語として成立させるためには、場というものが絶対に必要だ。場とは、両者の関係が明らかにされる状況だ。たとえば多くの女性は、たいていの場合、自分のことを「私」と呼ぶ。その彼女が、恋人と言っていいような男性とふたりで室内にいて、かなり親密にしているとき、「私」と「あなた」は日本語として成立する一例となる。「私」と「あなた」が成立する場は、ほかにもたくさんある。注意すべきは、どの関係もそのひとつひとつが、それぞれ場を必要としている事実だ。

 IとYOUの抽象的な対等の関係がないかわりに、日本語の世界では、自分と他者との具体的にじつにさまざまな関係の場がある。そして場によって、あるいは場ごとに、自分および他者の呼びかたが、場の性質に呼応して変化する。「俺」と「お前」との関係は、IとYOUのように抽象的には成立しない。具体的な場が必要だ。「俺」と「お前」と言っただけで、場の具体性がひとつずつ見えてくるではないか。

 IとYOUがないかわりに、現実のしがらみにおける、ひとつひとつの場のなかでの、自分と他者の関係のありかたを示す言葉が、言いかたのニュアンスも含めて、日本語には無限に近く存在している。自分を言いあらわす言葉と相手を言いあらわす言葉は、その両者の関係が作る小さな個別の場ごとに、微細に変化してやまない。そしてどの言いあらわしかたも、対等な関係は絶対に示さない。なぜなら、現実のしがらみのなかでの、ひとつひとつの関係の場というものは、基本的にはどれもみな、なんらかの意味において上下関係なのだから。

 IとYOUがないかわりに、現実のしがらみの内部での、ひとつひとつの上下関係における、自分と他者との位置や内容をきめてそれを言いあらわす言葉が、日本語には無限に近く豊富にある。現実というものは、さまざまな内容の無数の場が、刻一刻と作り出されてくるところなのだから、自分および他者を言いあらわすための言葉がたくさんあればあるほど、日本語という母国語は精緻さをきわめて駆使することが出来る。

 場がなかったなら、自分は、そして他者は、どのようなことになるのか。場がなかったなら、自分の位置と内容は、日本語の世界では、いつまでもきまらない。自分は少なくとも他者ではないかもしれない、という程度の認識しか持つことの出来ない、不安定な存在にとどまり続けるほかない。日本語では、自分をきめるには相手が必要だ。ただ単なる他者としての相手ではなく、関係の場を作り出してくれる相手だ。日本語の世界に生きる自分という人は、相手と場がないことには、自分がいったいなになのか、いつまでもきまらない。しかもその場や相手が広すぎたり大きすぎたりしても、自分はきまらない。たとえば、不特定多数、というような相手の場合だ。

 日本語の世界での自分という人は、相手という存在が作ってくれるひとつひとつの関係のなかでの、自分と相手とのあいだにある上下の位置関係を細かく計って確認し、そのような関係のなかでのみ話が交わされることをも確認した上で、その範囲内でのみ相手と話を交わしていく。

 必要とあらばいつどこでも、上下関係のような現実のしがらみを離れ、IとYOUとでただちに対等な対話の成立する世界から見ると、日本語世界ではあくまでも現実的な個別の場が絶対に必要であり、それぞれの場の内部でしか対話があり得ない世界では、対等な対話は成立しないかあるいはきわめて成立しにくいように思える。

「同一言語機能によって統一された均質な脳のメカニズム」という言いかたを、僕はどこかで読んだことがある。英語の側にも、そして日本語の側にも、それぞれの言語の構造と性能とが必然的に生み出す思考経路の枠というものがあり、どちらの側にいようとも、人はその枠のなかですべての思考をおこなう。よほど自覚して努力しないかぎり、人はその枠の外に出ることは出来ない。対等な対話など考えられないし思いつきもしない、したがってあり得ないという枠の内部では、しばしば言われているとおり、討論を始めとする言語活動は、非常に成立しにくいだろう。そのような枠の内部で生きる自分というものは、いったいなになのだろうか。

 相手との関係の場に入るそのたびに、その関係の内容をただちに正確に判断し、その判断にもとづいて自分は自分を変えていかなくてはいけない。相手にとって、自分はなになのか。自分といま結ばれているこの関係は、相手にとってはどういうものなのか。自分にとって相手はなになのか。相手とのこの関係は、自分にとってどのようなものなのか。こういったことを一瞬のうちに総合的に判断し、その判断に正確に即応して、自分は自分の位置や内容をきめ、自分そして相手の呼びかたをきめていく。

 自分と相手というひと組の現実的な関係が、あくまでも現実的な場のなかで成立しないかぎり、日本語の世界では人称すらきまらない。自分や相手をなんと呼んでいいかわからないだけではなく、自分というものの位置や内容すらきめられないから、まともな対話はまず無理であるというような状態は、IとYOUの世界から見ると想像を絶しているはずだ。

 相手との関係によって、相手ごとに、そして相手との関係の場ごとに、相対的に自分というものが確定されていく。いまここではこんな自分。そして次の場のそこでは、こういう自分。そのつど、私になったり俺になったり、手前どもになったり。このように関係、そして関係の場ごとに決定されていく自分というものは、その自分のなかに相手を取り込んでいる。自分は相手のなかに入り込み、相手は自分のなかに組み込まれる。

 このようにして作られていく自分というもの、そしてその自分が下す判断は、自分が関係を持つ人たち、つまり身のまわりの人たちが自分をどう思うか、自分をどう評価するか、自分をどう扱うかなどを総合的に敏感に察知した結果の、もっともあたりさわりの少ない、つまりもっとも凡庸な平均値となる。

 相手によってきまってくる自分、相手に合わせる自分、あるいは相手に同化させて相手のなかに入り込む自分とはいっても、完全に相手とひとつになって消えてしまうわけではない。相手に合わせるという無理をするぶんだけ、自分は自分の側の一方的な主張を、相手に対しておこなう。そのことをとおして、自分というものの存在が、自分自身に実感出来る。

 相手と自分との関係は、どのひとつも、基本的には上下関係だ。だから自分という人は、人を見れば自動的にどの人をも、自分の上か下かへかならず区分する。この作業は、自覚なしに、本能的に、自動的に、おこなわれる。どの人をも、基本的には上か下へ精密に区分けし、それぞれにふさわしい枠のなかへいったん収め、その枠組を常に機能させつつ、人との関係を持つ。人というものとのこのような関係の持ちかたが、日本語の外でどのくらい通用するだろうか、と僕はふと思う。

 ひとり、という存在のしかたは、自分にはない。そのような存在のしかたは、日本語のなかでは成立していない。ひとりでは、なにもきまらない。自分すら、きまらない。人つまり関係の相手との、関係のひとつひとつの連続のなかにのみ、自分が存在していく。ひとりひとりの相手との、ひとつひとつの関係の連続が、自分にとっての人生だ。自分にとっての人生とは、対人関係のひと言につきてしまう。言葉がなかったなら、人間はほとんどなにも出来ない。人間は言葉だ。人生は言葉だ。その人生が対人関係と同義なら、自分にとっての言葉の、もっとも大きくもっとも重要な機能は、自分が現実の場において関係を持つ人たちとの関係の、さまざまな言いあらわしかたの技術だ。

 人との関係があって初めてきまってくる自分というものは、人が自分をどう思っているか、人が自分をどう評価してくれるかなどに関して、おそろしく敏感にならざるを得ない。自分を基準にして人を常に上か下かへ区分けしたのちに持たれる関係というものは、その関係のなかで自分がどれだけ得をするか、あるいはどれだけ損を少なくするかを主たる命題とする、利害調整の関係だ。人生は利害調整、つまり自分は出来るだけ得をしたい、ということだ。

 自分の損を出来るだけ少なくし、得を可能なかぎり大きくしたいなら、どの関係をも、その方向に向けて少しずつ絶えず誘導していかなければならない。そのためには、関係というものは、安定した一定の振幅のなかにあると、もっとも都合がいい。関係が激変するようなこと、たとえば論理の明快にとおった客観的な対立意見の提示は、極力控えるに越したことはない。

 一定の友好的な範囲内で関係を持続させるには、要するに相手を否定してはいけない。相手を否定しない、攻撃しない、脅かさない、不安におとしいれない、動揺させない、不快な思いにさせない、腹を立たさせない、強い発言をしない、はっきり断定しない、冷たくしないなど、人生は「しない」という禁止事項の連続とその厳守となっていく。

 禁止事項を裏に返して思いつくまま列挙してみると、このことはいっそうよくわかる。そこに列挙されていくものは、日本語世界での人生において発揮されることが常に期待されている、美徳そのものであるから。すなわち、当たりを柔らかに。気持ちを汲んで。相手の身になって。よく察してあげて。気配りおこたりなく。曖昧に。こまやかに。おもんばかって。期待にこたえて。懐を深くして。悠々せまらず。思いやりを大切に。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


『日本語の外へ』 アメリカを知っているのか?
2018年9月3日 00:00