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メモリアル・デイにまた泣く

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この作品は、『日本語の外へ』「第1部 アメリカ──湾岸戦争を観察した」
に収録されたものです。

 サダムに対してブッシュ大統領は最初からたいへんに強硬だった。その強硬さは、少なくともアメリカの勝利と停戦までは、まったく変わることなく維持された。ひとつの国の元首に対して、別の国の元首がこのような言葉づかいや態度を取り続けることが、自由や民主という正義を守ることにつながるのだろうか、と僕は疑問に思った。サダムの側における裁量や判断はいっさい許さず、自分たちの側の決断だけを、ブッシュ大統領は強行した。交渉やフェイス・セイヴィングの余地をサダムにあたえず、無条件撤退だけをきつく要求した。アラブ的な反応のしかた、アラブ的なものの考えかたや進めかたをよく知った上で、アメリカはサダムを追いつめた。そして自らの開戦用意が整う直後を、アメリカはイラクの撤退期限に定めた。

 冷戦の構造は消滅した。そのあとに残った世界ぜんたいの特徴は、多極化だという。これはおそらくそのとおりだろう。それぞれの国がそれぞれに、ということだ。多極化よりも、相対化と言ったほうがいいようだ、と僕は思う。多極化した世界と、世界最強国としてひとつ残ったアメリカ。この構図は正しくない。世界がほんとうに多極化したなら、アメリカもまたその多極のなかのひとつであるはずだ。そのことの認識のなかにのみ、今後のアメリカの進む道がある。

 湾岸戦争の起こしかたとそれの利用のしかたを見ていくと、次の時代への理性的な適応のしかたの発見に、アメリカは興味を持っていないように僕は思う。複雑な相互依存を土台にした、これまでどこにもなかったような協調主義を世界ぜんたいが作っていかなくてはいけないのだが、アメリカの世界意識はまだ旧式なもののなかにとどまっている。自分たちの政治や経済、文化などのシステムだけを、良くて正しい唯一のありかただとする、従来となんら変わるところのない意識のなかに、アメリカは湾岸戦争をへて、さらにいちだんと深く入り込んだのではないか。

 アメリカを世界のなかのひとつだとするなら、残るすべては、途方もない多様さの集まりだ。多様なものがそれぞれに協調し、対抗する。そのなかのひとつという、新しい時代のなかでの立場は、アメリカにとってやっかい過ぎるのかもしれない。自分というひとつ、そしてそれ以外をすべてひとまとめにして、もうひとつ。世界をそのような二者にして、自分は他を支配するほうでありたい、とアメリカは思う。

 ソ連という悪が消えたあと、イラクという悪を作ってそれと戦争をし、自由世界の民主と平和をアメリカは守る、という構造を作りなおす。その構造は、旧来のものとなんら変わってはいない、まったくおなじだ。自分たちだけは正義であり、他の多様なありかたは完全に無視するという立場は、アメリカにとってこの上なく快適なのだろう。

 中東からアメリカの病院船が帰って来る。病院船は船体がまっ白だ。四月の終わり近い、晴れた日のサンフランシスコ湾に、その船は入って来る。ゴールデン・ゲート橋に向かって、ゆっくりと進んでいく。何隻いるのかわからないほどにたくさんのタグ・ボートが、白い病院船を出迎える。どのタグ・ボートも盛大に放水し、霧笛を鳴らす。ゴッド・ブレス・アメリカ的な光景だ。

 このときのタグ・ボートのうちの一隻、ハーキュリーズは、蒸気エンジンの船だった。昔の船だ。七十代の男たちが、かつて乗り組んだ蒸気エンジンのタグ・ボートを、六年かけてリストアした。リストアは完成した。そして処女航海は病院船を出迎えるこの日となった。エンジンを手がけた男は、積み重なるあまりのストレスに耐えかね、胃潰瘍(いかいよう)を悪化させて入院してしまった。処女航海は彼に捧げられた。

 五月になって、ノーマン・シュワルツコフは議会で演説した。その一部分は次のとおりだ。

 I also want to thank the families. It’s you who endured the hardships and the separations simply because you chose to love a soldier, a sailor, an airman, a Marine or a coastguardsman. But it’s your love that truly gave us strength in our darkest hours. We knew you’d never let us down. By golly, you didn’t. Thank you, the great people of the United States of America. (家族のかたがたにもお礼を申し述べたい。愛する人たちを戦場へ送り出し、別れ別れになるという苦難に耐えてくださったのは、家族のみなさんです。兵士を愛すればこそ出来たことです。水兵、航空兵、海兵、沿岸警備隊員など、すべての兵士をみなさんは愛してくれています。最悪の暗い時間のなかで私たちに力をあたえてくれたのは、みなさんの愛でした。支えてくださるみなさんの力を、私たちは最後まで信じていました。ものの見事に、みなさんは支えてくださいました。アメリカの偉大なる人々であるみなさまがたに、私はお礼を申し上げます)

 砂漠の戦争に動員され、戦争をくぐり抜けて母国へ帰還した兵士たちは、もとの日常に適応しなければならなかった。日常への再エントリーに際して体験するさまざまなストレスは、ホームカミング・ストレスと呼ばれることとなった。兵士としての砂漠での日々こそたいへんなストレスで、そこから日常へ戻ればストレスは大きく軽減されるか消えるのではないか、というのが部外者の考えかただが、実際はそうではないらしい。

 兵士でいるあいだは、自分というものが明確だ。役割も位置も、はっきりしている。作戦に沿って、上官の命令どおり、的確に迅速に行動し、ひとつずつ目的を達成していけばそれでいい。戦死したり重傷を負う可能性は常につきまとうが、平凡で退屈でありながらやっかいな複雑さに満ち、なにひとつ思うように達成されないままに時間だけ経過していくことがしばしばである日常にくらべると、ストレスは軽くて単純だ。

 湾岸戦争に動員されたアメリカ兵士のうち半数は、結婚していた。夫がいないあいだ、奥さんが判断のすべてを引き受け、ひとりで生活のぜんたいを取り仕切った。そこへ夫が帰って来る。感動的な再会の直後から、ふたりはかつての日常のなかの人となる。判断や取り仕切りのかなり大きな部分を、妻は夫に引き渡さなくてはいけない。これは彼女にとってストレスだ。夫の判断との食い違いや意見の調整なども、ストレスとして重なっていく。幼い子供は思いのほか成長している。突然に帰って来た父親、つまり乱入者としての父親に、子供たちはなじまない。もっと年齢のいっている子供たちは、父親が戦場へいったこと、そして突然に帰って来てすでに出来ている秩序を乱すことに、複雑な感情をはさんで接する。

 一家を支える人が砂漠の戦争にいっていたことの損失は、思いもかけない方面に、意外にたくさん、しかも大きく、存在している。動員された予備兵の家庭のために、地元の放送局が支援運動をした町があった。予備兵の家庭では収入が半減以下になるから、ローンも家賃も払えない。食費にもこと欠き、光熱費さえ払えない。帰って来た夫がもとの仕事に戻ろうとすると、その仕事はもうなかったりする。

 親がサウディにいっているあいだも、子供は成長する。久しぶりに帰ってみると、彼らは別人のようだ。兵士として動員された父あるいは母を、彼らはなかば忘れてしまっている。家庭に残されたほうとの関係がすでに出来上がっているところへ、出ていったほうが帰って来る。なんの問題もなしにその人がもとの場所に収まることが出来ると思うのは、早計らしい。帰って来たほうは、自分のまったく知らない関係のなかに、遠慮がちに割り込むという矛盾した態度で、入っていかなくてはならない。

 母あるいは父ひとりが、家庭のことすべてを引き受けていた状態にちょうどなじんだところへ、父あるいは母が、戦争から帰って来る。家庭のことを引き受ける人が、子供にとっては突然にふたりとなる。どちらにとっても、それはストレスの発生点となる。さまざまなカウンセリングがおこなわれる。人々はそれに参加する。自分が置かれている状況、そのなかでの自分の気持ちや体験を、集まった人たちに語る。そして泣く。最近のアメリカ人はよく泣いている。泣くことに対する抑制力が弱くなったのだろうか。泣くほかない、あるいは泣かざるを得ないほどに、状況はつらいのだろうか。

 五月二十五日のニュースでは、一八六六年にメモリアル・デイが始まった町であるという、ニューヨーク州のウォータルーという町が紹介されていた。メモリアル・デイは、ただ遊んで過ごすなら、海岸へいったり庭でバーベキューをして盛り上がる三日続きの週末でしかない。アメリカの夏はここから始まる。本来は、戦争で命を落とした人たちのことを思う日だ。二度と戦争などないようにと、過去の悲しみを胸のなかに確認しつつ、人々は祈る。

 五月二十六日のニュースでは、メモリアル・デイは最終項目だった。インディアナ州のキャメルトンという町に住む、湾岸戦争でマークという名の息子をなくしたミラーという夫妻が、紹介された。若くして国に命を捧げた彼の、新しい墓に五月の陽がさしている様子を伝える画面のあと、自宅で彼の母はカメラに向かって次のように気持ちを述べた。

 God kept him in the palm of his hand and took him home just a little sooner than we would have wanted to happen, and I know Mark is at rest now. (息子は神の手のなかにありました。私たちが望んでいたのよりも少しだけ早めに、息子は神のもとに戻ったのです。息子のマークはいまそこで安らかです)

 息子の墓の前に膝をついて泣いている父親は、泣きながら次のように語った。

 As the time goes on it gets harder. I find myself going to the cemetery, sitting there talking. I just miss him a whole lot. (時間がたつにつれて、つらさが増していきます。墓地へ出かけていっては、息子の墓の前にしゃがんで、語りかけてますよ。息子がもういないというのは、たいへん辛いです)

 墓地の光景に父親のすすり泣く声をかぶせて、画面はそのまましばらく続いた。メモリアル・デイまで見届けるなら、戦争とはこういうことだ。

 メモリアル・デイになぜ人々は戦死者のことを思うのか。きみがこの世にいなくて悲しいよとか、うちの息子も生きていれば今年で三十歳だ、というような個人的な感慨を越えたところに、戦死者は眠っているからだ。戦死者は公共の財産だ。私のように戦死する人をあなたたちは作り出してはいけない、と彼らは安らかであるはずの長い眠りのなかで、現世に向けて言い続けている。私がおちいった道とは別の、もっと賢明な道を選びなさい、と彼らは言い続けている。

 メモリアル・デイのあと、ワシントン特別区では、ナショナル・ヴィクトリー・セレブレーションという祝勝会がおこなわれた。地上では第二次大戦以来というスケールのパレードがおこなわれた。上空では、湾岸戦争に参加したすべての飛行機が、編隊を組んで飛んだ。このためにワシントンの空港は閉鎖された。

 六月十日のニューヨークでは、これも史上空前のものとなったはずの、ティッカー・テープ・パレードがおこなわれた。ティッカー・テープとは、株式やニュースをオフィスで受信する機械に使用されていた紙テープだ。昔はほとんどのオフィスにこの機械があり、いらなくなったテープをちぎり、高い建物の窓から下をとおっていくパレードに向けて投げると、落ちていくときの様子は、単なる紙切れにくらべて見栄えがした。パレードに向けて投げるためのテープ、という意味もある。ビルの谷間、としばしば形容されるマンハッタンの目抜き通りを進んでいくパレードに向けて、道路の両側に立ちならぶ建物のありとあらゆる窓から、ティッカー・テープが降り注ぐ。真にアメリカ的と言っていい光景だ。

 宇宙飛行士ジョン・グレンのときのパレードには、三千四百七十四トンのテープや紙切れが、ビルの谷間に降ったという記録がある。湾岸戦争のパレードでは、このように降る紙の量はおよそ倍になるだろう、という予測がされていた。あとかたづけは、すべてニューヨーク市のサニテーション・デパートメントの仕事だ。わずか二、三時間のなかで、とてつもない仕事が空から降ってくる。このパレードよりも二日前、ニューヨーク港では、湾岸戦争で命を失った三百四十一名のアメリカ軍人を追悼して、三百四十一本の薔薇(ばら)が、四軍の代表者によって、軍艦の舳先(へさき)から海に投げられた。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


『日本語の外へ』 アメリカを知っているのか?
2018年8月15日 00:00