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ヘリコプターは上昇し飛び去った

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この作品は、『日本語の外へ』「第1部 アメリカ──湾岸戦争を観察した」
に収録されたものです。

 クエートの若い人たちは、戦争のあいだ、カイロに逃げていた。そこでいつもとおなじような生活をしていた。夜になればディスコという毎日だ。イラクの軍隊によって、クエートは確かに破壊された。廃墟のようになった町には、電気もなく水もなかった。燃えるいくつもの油田からの煙が、クエートの空を覆った。晴天の日の朝、まだ十時なのに、空はそのぜんたいが濃い灰色であり、奇妙にうす暗い空間がその空と地表とのあいだに横たわっていた。外を歩くにはかなり性能の高いマスクが必要だった。マスクがないと咳(せき)がとまらず、目は痛くて開けていられなかった。

 ただ燃え続け、空に向けて黒い煙を広げ続ける、砂漠のなかのいくつもの油田の光景を表現するとき、TVニュースの記者のひとりは、サイエンス・フィクション・ストレンジネスと言っていた。サイエンス・フィクションのなかに描かれているような奇怪な光景、というような意味だ。見る人の気持ちを強くとらえるその光景に、アメリカの街角のガス・ステーションの光景や自動車でいっぱいのハイウエイの光景がつながると、TVの映像をただ見るだけという立場そのものが、サイエンス・フィクションのなかの奇怪な光景となった。

 破壊され瓦礫(がれき)の山のようになっているクエートの町を、サングラスをかけた若い女性が、いっさいなにごともなかったかのように、歩いていく。アメリカのTVニュースの記者が彼女に取材する。「これからたいへんですね」と、記者は言う。「なぜ?」と、彼女は聞き返す。瓦礫の山を示した記者は、「こういうものをすべてかたづけて、以前のとおり建設して復興しなくてはいけないでしょう」と言う。彼女は声を上げて笑う。そして、「私、そんなこと、したくない」と答える。クエートはたいそう裕福だから、下積みの仕事は外国から雇った人たちにまかせきりだ。フィリピンやパキスタンから、労働者が数多く入っている。

 瓦礫の山といえば、戦死兵はどうするのだろうか。イラクの兵士たちは二十万、三十万と戦死したのではないのか。戦場となった砂漠のいたるところに、たとえばアメリカが停戦と勝利を宣言したとき、戦死兵の遺体は急速に腐敗しつつ、転がったままであったはずだ。瓦礫の山も戦死兵も、かたづけなければならない。瓦礫の山はいいとして、戦死兵をかたづけるには、どのような作業が必要なのか。

 停戦後ではあっても、敵兵の死骸を仮にアメリカ軍が処理するとなったら、正式な命令や作戦が必要だ。死骸はひとつひとつ集めてまわるのだろうか。ひとりひとり氏名や所属部隊などが確認されるのだろうか。イラクまで運んでそこで墓地に入れられるのか。トラックで拾ってまわり、ある程度の数になったら、砂漠のなかにブルドーザーで大きな穴を掘り、そこにひとまとめに落として埋めるのか。埋葬した場所は、なんの目印もない砂漠のなかでも、衛星を使って正確にその位置を記録することは出来る。記録されるなら、そしてその記録が正確なら、砂漠のどこにどのくらいの戦死兵が埋まっているのかくらいは、あとからでもわかる。

 撃破された戦車の狭いコックピットの壁に、半分は溶けてなくなり、残った半分が浮き彫りのようになって貼りついている死骸の映像を、僕は見た。砲塔の装甲を難なく溶解しつつ突き破り、内部で炸裂して数千度の灼熱空間を作り出す対戦車砲弾の、ごく当然の成果のひとつだ。この死骸に必要最低限の威厳を保たせるためには、処理をするアメリカ兵は彼を壁からはがさなくてはいけない。

 砂漠に転がって強い陽光の直射を受け、腐敗で生じたガスで腹から胸にかけて丸々とふくれ上がった死骸をアメリカ兵が処理している場面の映像も、僕は見た。熱い砂の上にブランケットを広げ、その上へ死骸を転がして乗せる。ブランケットのなかにそれをくるみ込み、両端をしぼってふたりで持ち上げる。映像はそこまでだ。そこからあとを、僕は想像する。もっとも楽な方法でトラックに積み、共同墓地つまり大きな穴のあるところまで、運搬していく。おそらくダンプ・トラックだろう。ブランケットにくるまれた数多くの死骸は、あるときいっせいに、斜めになった荷台から穴のなかへ滑り落ちていく。

 連合軍の捕虜になったイラク兵が十五万人からいたという。イラクに引き渡されたとして、彼らをまともな市民生活に復帰させる余裕など、そのときのイラクにはなかったはずだ。引き取ったその場で動員を解除し、あとは各自の幸運にまかせる、ということになったのではないか。砂漠は不発弾という悪夢もかかえ込むことになった。連合軍が引き上げたあとには、その悪夢はそのまま砂漠に残ったのか。地雷の撤去作業はニュース画面に登場していた。引き上げるありとあらゆる軍用車輛や戦車を、水で洗い流すという途方もない作業も、ニュースのなかに数十秒、拾い上げられた。砂漠の微生物を車輛や戦車につけたまま帰還すると、その微生物はやがて本国の農作物に悪い影響をあたえていくという。

 イラクの南部、全国土の十五パーセントにあたる地域を、アメリカ軍が占領した。やがて彼らは引き上げることになった。ひとまず国境沿いのバッファー・ゾーンへ、そしてそこからアメリカへ。すぐにサダムの軍隊がやって来て私たちは殺される、と捕虜や脱走兵たちが言っていた。アメリカ軍がいるあいだなら、そして彼らが望むなら、彼らはサウディに引き渡されることになっていた。アメリカ軍が帰ったあと、どうなったのか。引き上げていくアメリカ兵たちは、レッツ・ゴー・ホームと例によって屈託がなく、戦闘服にブーツ、ヘルメット、そして銃を持ち、トラックに乗って笑顔で走り去っていく。あらゆるものを失い、裸足(はだし)で見送るイラクの男性の、民族衣装の裾が風にはためく。「ほかの国で人々が普通に生きているのとおなじように、私たちも生きたいだけだ」と、彼は去っていくアメリカ兵にさきほど必死に語った。その彼を僕は映像で見る。彼がひとまず無力なら、違った意味で僕もまったく無力だ。

 トルコとイラクとの国境にある山岳地帯に、クルド人の難民が十万単位で避難し、移動していった。避難した先は、樹木の乏しい山岳地帯で、あるものと言えば細い川が一本だけだ。世界は彼らに対してなにもすることが出来ない。隣りの国であるトルコすら、なにも出来ない。難民として彼らを受け入れたら、もともと余裕のないトルコ自体がたいへんなことになる。だからトルコは彼らを難民として認めない。認めたなら、国際協定で受け入れが義務となる。難民を絵に描いたような難民を、不法移民となる可能性のある人たち、としてしかトルコは扱わない。

 この難民のいる場所へ、アメリカの国務長官がヘリコプターで来た。「この現状はヒューマニティに対する冒瀆(ぼうとく)だ」という言葉を残した彼は、そこに六分間だけ滞在したのち、十数万の難民にヘリコプターの腹を見せつつ、飛び去った。現場のただなかでは、世界最強国の国務長官もまた、無力なのだ。

 見渡すかぎりなにもない山岳地帯にびっしりと貼りついて、少しずつ移動している難民の大群をヘリコプターの上から見て、「ホウリー・マッカレル」と叫んで、アメリカ兵が驚いていた。難民のキャンプでは、一日に千人ほどが命を落としていた。主に子供たちだ。一本の細い水の流れだけが、難民にとっては唯一の頼りだ。難民も十五万、二十万という数になると、統率などいっさいなしだ。川のすぐそばでたくさんの人が用を足す。その汚物が川に入る。その水を飲んで、子供たちが次々に倒れていく。「アメリカへ帰ったら、トイレットで水洗を流すたびに、僕はうれしくて声を上げて笑ってしまうだろうね。あの音を、ほんとに長いあいだ、僕は聞いてないから」と、若いアメリカの兵士が言う。

 TVニュースの映像も、見かたによっては、受けとめかたによっては、見るだけという立場の人をも、その立場を充分にぐらつかせ、脅かすことが可能だ。四月なかば、きれいに晴れた美しく静かな日の正午、いつもの自分の場所でいつもの昼食という、ものすごく平和な状況のなかで、僕はFENのニュースを聞いている。クルド人の難民キャンプの様子について、ナショナル・パブリック・レイディオの記者が伝えている。

 それを聞きながら、そして昼食を食べながら、僕はTVニュースで見た映像を思い出す。救援の物資や食料を積んで、アメリカ軍のヘリコプターが難民キャンプへ飛んで来る。あらかじめ定められた空き地のような場所の上空にホウヴァリングするヘリコプターは、少しずつ高度を下げる。地面まであとほんの数メートルのところまで降りて来てそこにとどまり、積んできた物資を落とす。それをめがけて、難民が駆け寄ろうとする。地上の兵士たちが彼らを阻止する。ローターの巻き上げる強風が、あたり一面にいる難民の服を激しくはためかせる。すべての物資を落としきると、ヘリコプターは上昇して飛び去る。兵士たちはもはや難民を制止しきれない。地面に転がって積み重なる物資や食料の包みに向けて、難民たちは突進していく。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


2018年8月10日 00:00