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煙草をお喫いになりますか

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この作品は、『日本語の外へ』「第1部 アメリカ──遠近法のなかへ」
に収録されたものです。

 十六世紀に船で初めて南アメリカ大陸へ渡ったスペイン人によって、煙草はヨーロッパにもたらされた。そこから世界へと広がっていく煙草の歴史のなかで圧倒的に大きな役割を果たしたのは、二十世紀のアメリカという大衆消費社会だ。その証拠に、あるいはその名残りとしてと言うべきか、アメリカの煙草の生産量は世界で群を抜いて一位だ。中国、インド、そして旧ソ連が、アメリカのあとにその順番で続いている。

 アメリカの先住民たちも煙草を喫っていた。ごく軽い幻覚作用を、日常から非日常へと出ていくための儀式の一部分として、彼らは用いていた。十九世紀に入って紙巻きの煙草が考案され、生産され始めた。煙草を喫うのはごく日常的な行為になり、二十世紀のアメリカに生まれた大衆消費社会のなかでその拡大と重なって、煙草は大衆にとっての消費商品となっていった。煙草を喫うことは、自分がいまという時代の最先端にいることの、なによりの証明であり得た時代がかつてあった。来るべき新しい時代の輝かしい先取りとして、煙草を喫う行為やしぐさは美しいきらめきのある、楽しく華やいだ行為として、大衆のなかへ強力に浸透した。

 そしていま煙草は、アメリカでは大衆のなかに広まりきった直後の、もっとも高い峠を向こう側へ越えたばかりのときなのだと、僕は思う。大衆のなかに広まりきったところから、その大衆によって、煙草というものが否定されていく歴史がすでに始まっている。

 アメリカの医務総監による大衆への警告メッセージが、煙草のパッケージの側面に印刷されることになった一九六九年、大衆による煙草の否定の歴史は確実にスタートした。煙草を喫うことはあなたの健康に甚大な被害をもたらすと公衆衛生局長は断定しました、というような意味の警告が印刷された煙草のパッケージを初めて見たとき、僕は強い印象をそれから受けた。いったんは喜んで受けとめた煙草というものを、大衆が否定し始める歴史の明確なスタート地点を、僕はそこに見たからだ。

 煙草のパッケージの側面に印刷される警告文は、現在のアメリカでは相当に具体的でしかも多様だ。警告文はひとつだけではなく何種類もある。日本ではかつては「健康のため喫いすぎに注意しましょう」という名文が印刷されていただけだ。煙草を売る側が責任を認めたくないので、喫う側に対してなんら具体的な警告をなし得ないという、日本という社会のシステムを見事に映しているから、この短いワン・センテンスを僕は名文と呼ぶ。現在の警告文は別のものになっている。言葉数を多くして具体性を装ってはいるけれど、じつはなにも言っていないという態度は以前のものとおなじだ。

 煙草が大衆に広まりきると、その大衆のなかから、煙草の害が主張され始めた。喫う人の数が多くなれば、発生する害も多くしかも多様になる。発生した害を煙草と結びつけ、まともなかたちで煙草を批判する人たちが、大衆のなかから出てくる。当然のことだ。

 煙草を生産し販売しているのは大企業だ。大企業はもともと悪だという思想が、アメリカの草の根にはある。その大企業は、煙草を売って巨大な利益を上げながら、煙草の人体にあたえるさまざまな害については、なにひとつ認めようとしない。煙草の害について煙草会社はよく知っていながら、知らないふりをしたり噓をついたりして大衆を騙し続けているという認識が、売れる煙草のひと箱ごとに、過去のあるときから、大衆のあいだに広まり始めた。

 訴訟という大衆行為によって、煙草という大衆商品が、大衆自らの手によって否定されていく歴史という興味深いものを、アメリカはすでに持っている。日本も大衆社会だが、その大衆は、ひとつのまとまった力にはなり得ないシステムのなかでの大衆だから、「健康のため喫いすぎに注意しましょう」という名文ひとつで抑えておくことがたやすく可能だ。煙草はアメリカでは敗北に向かっている、と僕は思う。大衆の力、つまり大衆がひとつにまとまった力となっていくための経路が、システムとして社会のなかに確実に存在している事実の証明例として、煙草は敗北に向かっている。

 アメリカは世界で最大の煙草生産国でありつつ、TVでは煙草の宣伝が出来ないし、雑誌にも広告の掲載が出来なくなる日は遠くない。公共の場での喫煙に関する状況は厳しくなるばかりだ。州や市だけではなく連邦政府も、ついに喫煙規制案を提出した。この案がとおると、たとえばレストランでは、喫煙はトイレットの控えの間のような、小さく閉じこめられた部屋でしかおこなえなくなる。

 この人が肺ガンで死亡したのは煙草のせいだとして、大衆が煙草会社を訴える行為は、あらゆる観点から見て興味つきることなく深い。乗客が喫う煙草の煙を、職業環境のなかで不本意ながら吸っているうちに肺ガンになったとして煙草会社を訴えたフライト・アテンダントは、つきることなく興味深い問題をさらによりいっそう興味深くしてくれた。隣りの席で煙草を喫っている人から自分の顔の前に漂ってくる煙を、セカンドハンド・スモークやパッシヴ・スモーキングと定義し、国をあげての法律問題にし得る国、それがアメリカだ。

 セカンドハンド・スモークが直接の原因となって、アメリカ国内で年間三千人が死亡している、と環境保護局が一九九三年に発表した。これに関して煙草会社は政府を提訴することしか出来ないが、大衆はもっと深いことが可能だ。煙草とはなになのかという、根源的な問題について、大衆はついに真剣に考え始めた。

 煙草がなぜ煙草として商品であり得るかというと、煙草はうまい、好きである、心理的に欠かせない、というような根拠しか見つからない。うまい、好き、欠かせない、と人々に言わしめている、煙草にとってのもっとも核心的な化学成分はなになのか、ということがいまアメリカでは問題の中心になっている。煙草を好んで、あるいは中毒的に、継続して人に喫わせるための、もっとも中心的な役割を果たす化学的な成分は、いったいなになのか。もしかしたら、それはニコチンなのか。では、ニコチンとはなになのか。問題は核心に向けて急速に進展している。

 煙草を広告することが禁止されている領域が、アメリカでは少しずつ広がっていった。ある日のこと一律に禁止されたのではなく、さまざまな視点からの論理の蓄積の上に、ひとつずつ領域はつぶされていった。たとえばプロのテニスの試合のような、スポーツ・イヴェントのスポンサーシップだ。プロがおこなうテニスの試合の平均的な所要時間のなかで、煙草が原因となって死亡していく人が百人いるという数字がある。

 激しく体を使うスポーツに煙草の広告を重ねると、喫煙と高度な健康状態は両立するという、まったく根拠のない、あるいは誤った理解ないしは印象が、確実に生まれる。人々を正しくない方向へ導こうとする広告スポンサーからの資金が、そのスポンサーにとって重要な広告の場の維持に使われるという矛盾が明らかになると、たとえばTV中継のときに煙草の銘柄がその場の光景の一部として頻繁に画面に現れるというような行為が、禁止されることとなる。

 企業の責任に関する論理のなかでも、煙草はいまやたいへんに不利だ。正しい情報を人々に公開するという企業責任のひとつに、煙草の製造と販売そして広告は明らかに違反している。健康を損ねるとわかっているものを製造し販売しているのだし、それを広告する行為は健康に対する人々の態度を誤らせるものだ。

 いまもっとも多く煙草を喫っているのは、社会的に見て低い位置にある、したがって多数の人をかかえた層であるようだ。アメリカでははっきりとそうなっている。若い奴ら、貧乏人、女、そして馬鹿が煙草を喫う、と煙草会社の内部資料が言っている。だから煙草の広告も、煙草を喫っている自分はそれだけでなにごとかを行動的に達成しつつあり、その意味でいまこの瞬間の自分の人生はうまくいっている、と錯覚させるようなものとなっている。最大の喫煙者層は、そのような錯覚に対して抵抗力が弱い。

 アップタウンという名の煙草が、何年か前にアメリカで発売されたことがあった。名前からしてあからさまに黒人向けであり、反対する声は最初から高く、おおやけの機関でも問題となり、煙草会社はすぐに販売を停止した。いまもあるかどうか僕は知らないが、ダコータという名の煙草も、おなじようにあからさまだった。これは白人の低教育、低所得者層向けだ。中心的なターゲットはVF(ヴィリル・フィーメール)だった。男まさりで問題解決への行動力に満ち、肝のすわった逞しくて強い女性、というイメージだが、現実には高卒以下の教育しかないブルーカラーの女性で、精神的にはTVのメロドラマ、そして肉体的にはジャンク・フードによって支えられているという、見通しの暗い人たちだ。その暗さのなかで、煙草がある種の心理的な役割を果たすことは、確かだ。

 視野を世界ぜんたいに広げると、アジアはすぐれたマーケットに該当するのではないか。収益の半分以上をアメリカ国外であげている煙草会社もある。アメリカの煙草会社がもっともあてにしているアジアの顧客は、若い人と女性だ。若い人のなかには子供も含まれている。日本では男性のふたりにひとりが、本格的な喫煙者であるということだ。男性の喫煙者が少しずつではあるが減っているのに反して、女性の喫煙者は増えている。女性が自立すると煙草を喫うという説があるが、日本の場合は社会的な位置の低さを思い知らされるというかたちで自覚することに、女性の喫煙はより大きく結びついていると僕は思う。

「アメリカが売らなくても、煙草を買って喫う人はかならずいる」と、アメリカの煙草会社のスポークスマンは言う。「アジアで煙草を売るのは貿易の問題であり、健康の問題ではない」という理屈も僕はアメリカのTVで聞いたことがある。「確実にマーケットが存在するとき、そのマーケットに向けて私企業が商品を作り出して売る。なにが悪い」という発言も聞いた。

 日本の煙草会社が、煙草の製造と販売は殺人および殺人未遂であるとして、市民から告発状を提出されるという出来事が、一九九五年の五月にあった。そのことを報じた新聞から引用すると、「法律に基づいて誠実に業務を遂行している。なぜ殺人罪にあたるのか理解できない」というのが煙草会社の反応だった。日本の会社男による典型的な反応例だ。誠実であるかどうかは他者が判断することだとして、法律は現実のあとを追う。それまでは考えられもしなかった新しい事態は、非常にしばしば、法律の外で起こってくる。そんな基本的なことすらわかっていない。

 ニコチンはドラッグなのか。煙草には中毒性があるのか。もしあるなら、それはニコチンによるものなのか。ニコチンがドラッグなら、それはしかるべき法的な規制のもとに置かれるべきではないか、と煙草に反対する側の人たちは主張している。誰でも買うことのできる店頭やマシーンでの販売という、現在の入手方法は劇的に制限されることになるだろう。さらに進んで、煙草の全面的な禁止だってあり得ないことではない。

 煙草の成分は企業秘密であると称して、これまで煙草会社は煙草の成分を公開しなかった。煙草の製造と販売が企業による犯罪行為であるかもしれない、という観点から公的な調査が開始されて、煙草会社は成分を公表した。数百種類の成分が列挙してあるだけのリストだ。どの成分がどのように人体に有害であるのか、因果関係の立証は不可能に近いと判断しての公表だろう。

 確かに、ひとつひとつの成分が人体と結び得るマイナスの因果関係の証明は、困難をきわめるかもしれない。しかしその困難は科学的に医学的に、克服されつつある。喫煙と肺ガンは関係ない、という説のほうがいまでは立証がはるかに困難だ。煙草会社にくらべると大衆のほうが、アメリカでははるかに戦略的だ。煙草会社は製造の段階でニコチンの量を意図的に増やしているという説が、新聞やTVなどをとおして、ある日を境にして急激に広まる。この説に仮になんの根拠がなくとも、煙草会社は対応しなくてはいけない。当然、ニコチンの加減はいっさいおこなっていない、という発表を煙草会社はおこなう。

 ブラウン・アンド・ウィリアムスンという煙草会社は、ニコチンの含有量が従来のものの二倍に達する葉を、遺伝子工学によって作り出した。ブラジルで特許を取り、一九九三年にはアメリカ国内でヴァイスロイその他の製品に、その葉を使用した。これはいったいなにごとなのか、ニコチンの意図的な増量ではないのかと、下院の公聴会でブラウン・アンド・ウィリアムスンのCEOは問いただされた。タールの量を低く抑えた煙草を作ろうとするとニコチンの量も減る。そのことを逆に利用して、ニコチンの多い葉はタールを減らすためだ、とCEOは証言した。

 肺ガンで死んだのは喫煙が原因だとして、個人が煙草会社に製造物責任で損害賠償の提訴をするのは、もはや珍しくもなんともない。裁判の結果は、いまのところ煙草会社の勝訴だったり敗訴だったりしている。喫煙は個人の判断によるもの、と考える陪審は煙草という製品と肺ガンで死亡した個人とのあいだの距離を、長すぎるものとして判断し因果関係を認めない。しかし、煙草の中毒性を煙草会社が充分に知っていた事実を示す内部資料が証拠として提出されると、その証拠は煙草会社に責任を認めさせる方向へと、陪審を強く動かしていく。

 自治体も盛んに煙草会社を提訴している。一九九六年の十月現在で、十四の州が煙草会社を訴えている。喫煙と深く関係している疾病の治療に州として必要とした経費を年間で合計し、煙草会社に返還を求めて提訴するのだ。州だけではなく市も煙草会社を訴える。人口が七百八十万というニューヨーク市は、喫煙が原因となっている疾病の治療費が年間で三百三十億円になっているとして、その額の返還を煙草会社各社に求めた。

 そしてクリントン大統領は、煙草を中毒性のある薬物に指定した。アルファベット順に言うなら、ニコチンはモルヒネと阿片のあいだに位置する、れっきとした薬物となった。煙草はFDA(食品医薬品局)の管理下に置かれ、未成年者への販売を中心にして、厳しい数多くの規制が段階的におこなわれていくことにきまった。最終的には煙草の販売は禁止されるだろう。

 煙草は体に害をおよぼすからアメリカでは大統領が乗り出して規制するとか、害のあるものを売っている煙草会社はけしからん、といった次元の話ではない。自由と民主主義についてのところで書いたとおり、これからのアメリカの自由や民主主義にはさまざまなかたちで制限が加えられるようになり、制限事項は増える一方となる。煙草に対してなされている制限は、そのことのわかりやすい一例であり、クリントン大統領の考え抜く能力という資質が時代の要請のなかから摘出したものだ。時代の要請とは、問題の解決に向けて自分の頭で考え自分で行動する膨大な数の市民と、彼らを支えるきわめて効率のいいネットワークの存在のことだ。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


『日本語の外へ』 アメリカを知っているのか?
2018年7月16日 00:00
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