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ジープが来た日

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この作品は、『日本語の外へ』「第1部 アメリカ──遠近法のなかへ」
に収録されたものです。

 猛暑、と新聞もTVも呼んだ日の夕方、ふと入った書店の棚に、『ジープ 太平洋の旅』(ホビージャパン)という本を僕は見つけた。その本を買った僕は、次の日、まったくおなじ猛暑のなかで、その本に収録してある貴重な写真のすべてを飽きることなく観察し、的確な説明文をすべて読み、感銘の深い一日を過ごした。書名にある太平洋とは、日本がおこなった十五年戦争の最後の部分、いわゆる太平洋戦争の戦場としての太平洋のことだ。そしてジープとは、その戦場で大活躍をした、アメリカ軍の軽量多使途の車輛のことだ。

 太平洋戦争に関して、僕はごくわずかな体験しか持っていない。小学校就学以前の子供として、敗戦直前の事柄や雰囲気をひとつふたつ、ごく淡く知っているだけだ。アメリカとの関係は幼い頃からけっして小さくはなかったけれど、たとえば戦後、アメリカ側に向けて大きく気持ちが傾くというようなことは、体験していない。そのことはいまも変わらず、したがって『ジープ 太平洋の旅』のなかの写真を、僕は中立的な位置から見ることが出来たと思う。

 ほとんど出来上がった状態のジープが木箱に収められ、大量にアメリカからオーストラリアに届く。そこで組み立てられたジープは、まずニューギニアという熱帯の戦場へ渡る。そこからサイパン、硫黄島と、文字どおり太平洋へ、ジープの戦場は日本へ向けて拡大されていく。と同時に、大量のジープはフィリピンへも渡る。そこからさらにビルマ、中国へ、そして沖縄へと、ジープつまりアメリカ軍は、攻め返していく。第一章から第四章まで、その順番で数多くの写真が、非常に多くのことをきわめて雄弁に物語っていく。そして第五章は日本への進駐であり、第六章はジープにとってのエピローグとしての、朝鮮戦争だ。

 第二次大戦のアメリカ軍がどのような存在であったか、ごく簡単に言うなら次のようにも言えるだろうか。周到をきわめた科学性と、それを創出させ維持し拡大していく豊富な人材、そして当時としては無限と言っていい物資とその生産態勢。これらのぜんたいを、アメリカふうの自由と民主が、誰の目にも明確に、つらぬいていた。

 戦争をするためには、軍隊というものは移動をしなければならない。ニューギニアのような熱帯の地形や気候を始めとして、とにかくあらゆるものがただひたすら地獄であるような場所で、軍隊が効果的に移動する作業には想像を絶した苦労がともなう。その移動のために使用される車輛のなかで、もっとも多くの使途のために、もっとも多く動いたのが、ジープだった。

 熱帯の島のジャングルという戦場で、戦闘にかかわるすべてのものが移動するとき、もっとも効果の高い最小単位としての車輛は、やはりこれしかないだろうなと思いつつ、木箱を解かれた新品のジープの写真を僕はつくづくと見た。さまざまな感慨が、いろんな方向に向けて、僕の頭のなかで広がっていった。

 アメリカ軍によるジープのような車輛の模索は、第一次大戦が終わった頃にはすでに始まっていた。ジープの開発物語は、それだけでひとつの感動的なアメリカン・ストーリーだが、僕は詳しくは知らない。資料も少ないと聞いている。『ジープ 太平洋の旅』の著者、大塚康生氏はジープ研究の第一人者であり、著書の一冊に『軍用ジープ』という本がある。この文章を書くにあたって、僕はかならず持っているはずのその本を汗だくで捜したのだが、残念ながらあるべきところにそれはなかった。ジープの開発経過について、その本には可能なかぎり詳しい記述があるはずだ。

 軍の言いかたではクオーター(4分の1)トンの4輪駆動トラックであるジープは、BRC(バンタム・レコニサンス・カー)、ウィリス・オーヴァーランドのMA(ミリタリーA)、そしてフォードのGP(ジェネラル・パーパス)という三種類のプロトタイプの、千五百台ずつの試作とそのテストをへて、バンタムの作った基本にウィリスを加え、フォードのGPおよびウィリスのMB(MAの次期改良型)となった。ジープという通称は、フォードがごく気楽につけたGP(ジェネラル・パーパス)という名を、おなじく気楽にジープと呼んだのが定着したものだ、ということになっている。

 第二次大戦のジープ生産は、『ジープ 太平洋の旅』によると、日本軍のフランス・インドシナへの軍事展開とともに始まり、日本敗戦の玉音放送の日には生産ラインは停止していたという。生産期間はわずかに四年と十二か月ほどしかなかった。しかし南太平洋の熱帯の島々からヨーロッパそしてアフリカまで、アメリカおよびアメリカ軍の力のおよんだすべての地域を、ジープは走った。世界大戦を終結に導いたアメリカの象徴として、単なる軍用車輛のひとつであることをはるかに越えて、ジープは世界じゅうの人々の記憶にとどまることとなった。

 第二次大戦のジープは日本の敗戦とともに終わったが、朝鮮戦争では使用可能なものをかき集めて使用された。ジープの物語は、どの部分を取り出しても、興味のつきることない、大きな感動をともなった物語だ。敗戦後の日本にも大量のジープが持ち込まれた。戦争から解放された日本の数多くの優秀な技術者たちによって、それらのジープは修復され主としてアジアへ出ていった。

 敗戦後の占領下の日本で、アメリカ兵とそのジープに大きな衝撃を覚えた日本人の数は多い。しかし日本ではジープは民間には払い下げられず、視覚的なあるいは心理上の衝撃は人々に大きくあたえたものの、現物のジープの機能的な実体には、日本の人たちは触れないままだったようだと、いま僕は思う。

 MBにいくつもの改良を加えつつ、軍用のジープは一九八三年まで続いた。日本もライセンス生産のジープを持つにいたったが、そのときのそのジープは、すでにいくつもある国産車のなかのひとつ、という位置にとどまることとなった。心理的な衝撃はたいへんに大きかったにもかかわらず、機能の実体にはほとんど触れずに終わった、アメリカの不思議な軍用車輛、それが日本におけるジープの基本ではないかと、僕はかねてより思っている。南の島の戦場で、何台かのジープを日本軍は捕獲した。そしてそれを使ったりもした。そのジープに対して日本の軍人がどのような感想を持ったか、少しでもいいから記憶があれば、ジープ物語にまたひとつ、興味深い側面が加わるのだが。

 戦後の日本で少しずつ復興していった日本の自動車産業は、ジープをどのようにとらえていたのだろうか。戦後の日本の悪路に対応するため、板バネを強くする加工方法を、日本の自動車はジープから学んだ。小型で軽量、用途は多く改造はたやすく、修理と保守も簡単であるジープは、経済を復興させることをとおして国を作りなおしていく時期の日本にとって、自動車というものの最適のお手本だったのではないかと僕は思うが、そのような思いはおそらく単純過ぎるのだろう。戦後から現在にいたるまで、ライトヴァンその他、すべての小型商用車の原点はじつはジープなのかもしれない。

 歴史の必然はさまざまな要素が複雑にからみ合って作り出される。いろんな理由で、ジープは日本には適合しなかったのだ。軍用としていくら優秀でも、民間では特殊に過ぎたのかもしれない。自分で真面目に自動車を作るなら、ほとんど個性のない小さくて非力なセダンという、基本のひとつから始める必要があったのか、とも僕は思う。手のなかに持った一冊の本のなかでの、ジープによる僕の暑い一日の旅は、国産初期の小さなセダンのかたわらで、ひとまず終わった。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


2018年7月13日 00:00