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個人主義にもとづく自由と民主の視点

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この作品は、『日本語の外へ』「第1部 アメリカ──フリーダムを実行する」
に収録されたものです。

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 アメリカについて自分にはどのようなことが書けるのか。体験を私有物のようにして少しずつ披露するのではなく、紀行文でも旅の思い出でもなく、仕事で赴任した場所での見聞録でもなしに。興味を抱いたアメリカというものの核心とはなになのか、そしてそれについてわかっていると思うなら、ではどの程度にそれについて自分は書き得るのか。

 アメリカについて僕がこれまで書いてきたことすべては、個人主義にもとづく自由と民主の視点からのもの、という範疇に入るはずだと、書いた当人である僕は思う。枝葉末節について多くを書いたとするなら、それらのことはすべて、自由と民主を土台にした大衆消費社会という、人類史上の異常事態と言っていいほどの豊かさの内部での出来事だったはずだ。自由と民主は建前だが、アメリカではこの建前は社会のなかで機能している。建前と本音があり、建前はあくまでもただの建前でなんの機能もせず、機能するのは本音だけであるという日本のルールの内部から見ると、建前が巨大に機能するアメリカの様子は、わかりにくいかもしれない。

 この本の最初の章である「湾岸戦争を観察した」は、いわゆる湾岸戦争を遂行していったアメリカについての記述だ。記述されていることの内部にもぐり込み、すべての発生源までいくと、アメリカが世界に向けて言うところの、という限定ないしは形容つきでの自由と民主がやはりそこにもある。何年か前に僕が書いた文章の全文を、まずひとつ採録したい。『エスクワイア』という雑誌の日本版の、アメリカの西部について特集した増刊号に依頼されて書いた文章だ。西部についてどのようなアプローチを試みる特集であるのかは聞かないままに、僕は次のような文章を書いた。

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 アメリカのあの広い大陸を西から東へ陸路で横断したとき、アルバカーキのモーテルのコーヒー・ショップでなにげなく言葉を交わした中年の白人男性の雰囲気や言葉を、いまでも僕は記憶している。僕が東京から来てアメリカを旅していることを知った彼は、「太平洋の東側からここまでを、きみはどんなふうに好いてるかね」と僕にきいた。素晴らしいです、と僕は答えた。北アメリカ大陸の地形と気候は、本当に圧倒的に素晴らしかった。僕がなにに感動しているのかきちんと伝えたつもりだったが、その男性は顔をしかめて首を振り、「ここにはなんにもないよ」と言った。こことは、西部から南西部一帯にかけての、広大な土地を意味していた。「なんにもありはしないよ。なんにもおこってはいないよ。これはつまらんよ。岩と砂しかない。これではなんにも出来ないね」と言った彼の言葉と口調を、僕はそっくりに真似ることが出来る。僕は真似るだけだが、彼は本気でそう言っていた。彼が連れていた妻と三人の子供たちの様子が目に浮かぶ。

 このときの僕は、来訪者あるいはゲストでしかなかった。ひと言で西部や南西部全域を否定した彼は、自分たちの文化の文脈に完全に呑み込まれた当事者だった。あの可哀そうな当事者は、その後どうしただろうか。自分の生活を作りつつ、日々を送っていったはずだ。どのような生活を彼は作ろうとしていたのか。いまの言いかたをするなら、たとえば石油を浪費してやまないような生活だろう。そして自分たちを上まわる浪費の世代を、子供たちとして世に送り出したはずだ。

 人をその内部にしっかりととらえて離さない固有の文脈を離れたところから観察すると、アメリカ大陸の西部や南西部、そして中央部も東部も、自然の環境としてはたいへんにスリリングで感動的だ。アメリカではなくとも、どこのどのような地形や気候でも、みな等しく人を圧倒する魅力を持っているものだが、ほかの大陸を知らない僕にとっては、アメリカ大陸の自然はいつもの自分をまったく異なった場所へ引き戻し、連れ戻し、内省や懐疑、あるいは自戒などの領域へ導いてくれる強力なカウンターとして作用する。「こんなとこにはなんにもないよ」とアルバカーキのモーテルで言った男は、自分たちの文化の文脈の外へ出ることが出来なかっただけだ。

 その彼にとっての、自分たちの文化の文脈とは、なにだろうか。重ねていく日々の生活こそ文脈そのものだが、ではその生活とはいったいなになのか。極限的な状況に目を向けると、わかりやすくなるかもしれない。たとえば湾岸戦争のときアメリカの兵士たちは、「このために自分たちは訓練されてきたのだし、これがいまの自分たちにとっての仕事だから」と言って、膨大な量の武器や戦争物資とともに、アラビア半島へ向かっていった。若い男性たちだけではなく、中年の男性も、若い女性も、そして母親たちも、おなじ場所へ兵士として出ていった。

 そしてアラビアの砂漠では、「早く終わって家へ帰りたい」と、TVニュースの記者たちに彼らは言っていた。戦争が始まると、「こうして北へ向けて攻めていけばいくほど、自分たちにとっては家が近くなるんだよ」と、アメリカの兵士たちは言った。仕事はジョッブ、そして家はホームだ。重ねていく日々の生活は、ウエイ・オヴ・ライフだろう。ウエイ・オヴ・ライフとは、なんのことはない、ジョッブとホームなのだ。兵士になった人たち全員に配付される、もっとも基本的な訓練用教科書の冒頭に、アメリカ兵としての心がまえがコード・オブ・コンダクトとして説いてある。兵士とはウエイ・オヴ・ライフを命を懸けて守る人だ、とそこには明記してある。

 湾岸戦争を始めようとするとき、ペンタゴンでおこなったブッシュ大統領の演説のなかにも、ジョッブやウエイ・オヴ・ライフという言葉が、きわめてわかりやすいかたちで登場していた。「サダム・フセインに石油をコントロールされたなら、私たちのジョッブやウエイ・オヴ・ライフ、自由、そして私たちと考えをともにするほかの国々の自由が、被害を受ける」と彼は語った。

 ウエイ・オヴ・ライフとはジョッブとホームであり、そのウエイ・オヴ・ライフは自由の上に立っている。だからそのような自由をおびやかす存在を相手にまわして、ウエイ・オヴ・ライフを守り抜くため、アメリカは必要とあれば戦争をする。そしてその戦争は、アメリカという文脈のなかでは、正義のための良い戦争だ。

 サウディ・アラビアから帰って来る兵士たちを家族が出迎える。兵士たちは妻や恋人と抱き合い、子供たちを腕にかかえ上げる。そのときの兵士たちの片手には銃がある。銃やそれを使っておこなう戦争という、おそろしくハードなリアリティが、アメリカでは日常生活のリアリティと最短距離で直結されている。

 ウエイ・オヴ・ライフはすでに日本語としても通用している。しばしば言われるところの平和ぼけにふさわしく、あくなき消費的欲望の追求を当然の権利と混同する人たちの意識のありかたという意味のほかには、ほとんどなんのリアリティも持たない片仮名言葉だ。日常生活がなんの無理もなく戦争と直接につながり得るリアリティというものに、いまの日本の人たちの心理は耐えられないだろう。そしてそのようなかたちで成立している正義や自由を、おそらく拒否し嫌うだろう。

 建国してから現在にいたるまで、アメリカはたいへんにわかりやすく一貫している。守り抜かずにはおかないウエイ・オヴ・ライフであるジョッブとホームの土台は、フリーダムだ。ではそのフリーダム、自由とはなにだろうか。建国の瞬間に、自由のひとつの典型がある。自分たちで掲げた理想に沿って、これから自分たちだけでひとつの国を作ってみますという、文字どおりの自由のスタートがそこにある。

 自由とは、ひとりの人の人生にあてはめて考えるなら、出来るだけ広い範囲のなかで自主的に取捨選択することの可能な人生だ。自主的な取捨選択の人生とは、個別におこなわれるアクションによる人生だ。依存の関係を極端に嫌うかわりに、個別に全責任を引き受ける。そして個別なアクションと責任の引き受けは、楽天的におこなわれる。多少の人生経験がある人なら誰でも知っているとおり、自由というものは楽天的である人により有効に作用してくれるからだ。

 建国以来、アメリカではあらゆることが実験だ。民主主義をいかに機能させるかにかかわる、国をあげての壮大な実験だ。アメリカの真骨頂と言われているビジネスも、民主主義の機能のさせかたにかかわる実験だと言っていい。こういうことも、ひとりの人の人生に重ねると、わかりやすくなる。自分ひとりで世のなかに打って出て、頭の上がらない相手を持つことなく、自分の才覚と腕ひとつで金持ちになっていくこと、これがアメリカン・ドリームの最小単位だ。単なるかね儲けとは基本的に違っている。かねは儲かるに越したことはないが、問題はかねだけではない。かねを越えるもの、つまり自分の人生にどれだけの自由があるか、身をもって確認してみる作業をするかしないかが、理想論としては儲けるかねよりも上に来る。

 西部の開拓は、若いアメリカの成長過程のなかに巨大な位置および意味を持って存在する、すさまじいスケールの実験だ。あの大陸の西半分を舞台に、資源とエネルギーと人材とを思う存分に投入して、その実験はおこなわれた。そしてその実験は成功した。西部は意のままに征服された。障害となって立ちふさがったものは、先住民族を別にすると、なにもなかった。そして先住民族は、現在の彼らが置かれている位置から言うなら、西部の開拓実験の成功とともに消滅させられたと言っていい。彼らから取り上げた土地のほかは、メキシコやスペインと戦争をして勝ち取った。

 あの時代にあれだけのスケールでおこなわれた実験に、若い成長段階で成功したのだから、その成功によって正当と見なされたありとあらゆることが、少しだけ冗談めかして言うなら、アメリカの人たちの遺伝子のなかに組み込まれている。推進した側から見た西部開拓の大成功は、最終的にはアメリカにとってのフリーダムの象徴にさえなった。

 自分の側の正義を押しとおすことによって生まれてくる文化のなかで生活する人たちは、そこで生活を送っているかぎり、そのような文化の正当化を続けるだろう。ひとつしかない自分たちのありかたに対して、世界のなかには途方もない多様性でさまざまなありかたが存在するのだが、そういったものは目に入らなくなる。たまたまなにかの拍子に目に入れば、それらはなにほどか目ざわりなものであり、と同時に、なにほども興味を示す必要のないものでもある。そして、それらのうちどれかひとつでも、自分たちの価値観に対して立ちふさがるようなことがあれば、それはただちに自分たちの敵つまり倒すべき相手となる。

 このことも湾岸戦争のなかにはっきりと出ていた。クエートからのイラク軍の無条件撤退を、ブッシュ大統領は強硬にかたくなに主張した。難なく勝てるはずの戦争に持ちこむための作戦としての強硬さ、という側面を認めるにしても、一方のウエイ・オヴ・ライフを守ろうとすればするほど、そしてそれを確立しようとすればするほど、他方のウエイ・オヴ・ライフの可能性が抹殺され排除されていく力学を、湾岸戦争のアメリカはわかりやすく具体的に、はからずも全世界に示した。

 ウエイ・オヴ・ライフは最初から戦争的だ。他のさまざまなウエイ・オヴ・ライフとの、深刻な衝突の可能性を内蔵している。巨大な力、つまり戦争で、一方のウエイ・オヴ・ライフを守ろうとすると、もう一方のウエイ・オヴ・ライフは文字どおり殺されてしまう。無条件撤退以外、絶対に譲れないことを表現した大統領の言葉の一例は、オン・アワ・タームズというたいへんに平凡なものだった。湾岸戦争は、アメリカにかかわる基本的なキー・ワードのほとんどが、陳腐で奥行きを欠いたかたちでいたるところに露出する、というきわ立った特徴を持っていた。

 ひとつの国にとってたいへんに重要なことがらを表現するはずの言葉が、いまなぜこれほどに陳腐であり平凡であるのかについて、僕は考えてみた。そのような言葉が体現するもののありかたすべてが、進展していく時代のなかですでにその効用を失っているからだ、という結論を僕は得た。間違っているなら訂正しなければならないが、いまのところそれが結論だ。

 自分たちが信じている文化のシステムだけのなかにひたっていると、それとは対抗するさまざまに多様な文化のありかたとの、正面きっての共存からわきへ逃げていく道を選んでしまう。文化にはそのような強制力がそなわっている。もっともたやすい、そしてもっとも大義名分を立てやすい逃げ道は、自分たちを正義とし相手を悪とする方法だ。ソ連との冷戦がそうだったし、湾岸戦争もその実例のひとつだった。自分たちだけの正義を突出させ、他の数多くのありかたを完全に否定するという構図は、なんら修正をほどこされないままさらに強化だけがなされた。

 軍事的にしろ経済的にしろ、一国だけの突出は、もはや世界のどこにとっても有効ではない。なにが有効かひと言で言うなら、それはインタディペンデンスだ。世界が舞台になる場合には、トランスナショナルという言葉を頭につけ加えてもいい。協調、協力、相互依存と、言いかたはさまざまにあるが、要するに自分たちの国の外へ持ち出し可能な、しかもたいていのところで広く役に立つものだけをおたがいに出し合っていくという、複雑で微妙な相互依存的な関係の継続だ。

 いままでどおりでいくのか、あるいは新しい考えかたが示す方向へ向かうのか、いまアメリカは大きな分岐点にさしかかっている。アメリカだけではなく、日本も含めて先進文明国はすべてそうだ。新しい方向の第一段階は、自分たちの政治、経済、文化などにかかわる徹底した自省につきる。そして自省は、とうてい承服しがたいような大転換として具体化していかないかぎり、あまり意味はない。なぜ承服しがたいかと言うと、相互依存的な協力関係は、相手にとっても自分にとっても、自由の制限を意味するからだ。国外でも国内でも、いま起こりつつある大問題はすべて、自省による大転換の必要を切実に示している。

 いまのアメリカでたとえば失職がある程度以上の勢いで進行しつつある。人々にとって最大の恐怖の発生源はこの失職だ。あらゆる年齢、あらゆる職種、あるゆる地域で、ちょっと信じられないほどのスケールの失職が続き、さらに進んでいきそうな気配だ。仕事を失えば、中産階級はあっというまに貧困層に転落する。大量生産にもとづく大量消費という文化のシステムが高度に進んだ結果、ブルーカラーはもちろんホワイトカラーも、ほとんどの人が要素別に区分けされたベルト・コンヴェアーに貼りつき、流れ作業をこなしているだけとなった。そして物を作り得ない状況が生まれてきたとき、コンヴェアーは停止し人は失職する。大量生産と大量消費のシステムをほかのものに転換させるには、ほとんどすべてを白紙に戻して出なおすほどの革命を必要とするだろう。

 アメリカふうなフリーダムの日常的な具現であった自動車は、労働のありかたの転換を図りそこなった結果、少しだけ違った労働に支えられた日本製の自動車に取って代わられそうになった時期があった。ハーンダ(ホンダ)とニッサーアン(ニッサン)そしてタヨーラ(トヨタ)がいまやアメリカのビッグ・スリーだと、TVニュースの記者が完全にあきらめきって言っていた時期もあった。

 西部だけにとどまらず、アメリカンネスぜんたいの象徴であったカウボーイは、日本の企業に雇われ始めている。肉牛を育てるための牧場を、かつて日本の資本がさかんに買収した。アメリカの基準では取るに足らないような規模の牧場でも、日本の基準で見ると広大な牧場である場合が多い。そのような小さな牧場が次々に日本の資本下に入りつつある。牧場ごと買い取り、そこで日本向けに肉牛を育て、日本へ運んで売ろうというのだ。アメリカのカウボーイが日本の会社に雇われて働く。アメリカン・カウボーイズ・オン・ジャパニーズ・ペイロールという信じがたい光景を、アメリカ国内のニュース番組で僕が見たのは数年まえのことだった。「日本の人たちはハリウッドの西部劇をとおして、アメリカの西部にはよく親しんできたのです」とそのニュース番組で記者は語った。いまの日本の都会にある住宅密集地を上空からとらえた光景が、画面に登場した。記者は続けて次のように語った。「その日本は、肉牛の巨大なマーケットです。アメリカの西部は、西部開拓後も西へ西へと移動を重ね、ついには太平洋を越えて日本へたどり着いたのです」。東寺の五重の塔が夕陽にシルエットになった京都の一角のショットで、そのニュースは終わった。日本へのからかいも反発も抗議もそこにはなく、ただ完璧な自嘲だけがあった。

 アメリカを土台から支えていたはずのファミリー・ファームが、深刻な経営難により次々に姿を消していきつつある。ファミリー・ファームに住んでいる人たちの数は、全人口の二パーセントだ。その二パーセントのうちの七十パーセント以上の人たちが、引退の年齢にさしかかっている。息子や娘たちは都会へ出ていく。ファーム・タウンはゴースト・タウンになる。土地は大企業が買い上げる。農業を続けて営む人たちは、その企業から給料を受け取る。

 一九二五年から代々続いてきたファミリー・ファームの当主と奥さんが、ファミリー・ファームとしての生活を少しずつたたんでいく様子を、アメリカ国内のTVニュースで僕は見た。切々と胸にせまる崩壊ないしは消失のストーリーがそこにあった。しかし、個人ではどうにも抗することの不可能な、時代というものがもたらす状況変化、といったものをその映像に読むのは間違いだ。国のありかたぜんたいが乗っているシステムに対する、自省力に満ちた総点検の必要性こそを、読まなくてはいけない。

 銃もアメリカでは個人の自由の象徴だ。銃を手にする自由、そしてその銃で自らを守る権利は、憲法で保証されている。自由というこの巨大なシステムの一端は、たいへんな悲劇の発生源でもある。悲劇を子供たちだけに限っても、状況は発狂的にすさまじい。任意に抽出した小学生二十人に、あなたの身近で殺された人はいますか、と質問する。八十パーセントがイエスと答える。その人たちが殺されたときの様子を絵に描いてくださいと頼むと、血みどろの殺人現場ばかりが出来上がってくる。銃によって射殺された場合が圧倒的に多い。

 ティーンエージャーの死因として、いまアメリカで自然死をはるかに抜いて第一位にあるのは、銃による射殺と誤射だ。年間に六万人ものティーンエージャーが銃で射たれて死んでいる。黒人は白人の十一倍だという。このような悲劇に対して、システムはなんの対策も講じていない。

 レーガン大統領の暗殺を試みた青年は、ある日のことガン・ショップへふらりと入っていき、「これください」と指さして買った安物の拳銃で大統領を射った。このときの銃弾を身に受けたため、終生を車椅子で送ることとなったブレイディという報道官は、奥さんが中心になってブレイディ法と呼ばれている法案の立法をめざして活動を続けた。

 銃を買いに来た人にその場では現物を渡さず、七日間の待機時間を置くことを義務づけるという内容の法案だ。セヴン・デイ・クーリング・ピリオドあるいはウェイティング・ピリオドなどと言われているその七日間に、銃を買おうとする人の背景を調査し、場合によっては売らない。そして七日間待たせることにより、感情の高揚にまかせて銃を手に入れることを、少しでも防ごうというのだ。

 この法案が議会に提出されるのは今度で二度めだ。過去二回は、ナショナル・ライフル・アソシエーションという大きな団体の強力なロビー活動で、廃案になった。暗殺者に射たれても私は銃の規制には賛成しないと言っていたレーガンは、ブレイディ法に賛成しそれを支持することをおおやけに表明した。

 軍隊の装備とおなじと言っていいような自動小銃や機関銃が、ほとんどなんの規制もなしに自由に誰の手にでも入る事実、そしてそのような銃を使った犯罪が激増していることを話題にした記者会見の席で、ブッシュ大統領は記者たちのまえを歩きまわりながら、「だからといって、ハンティングに使うような半自動のライフルまでをも禁止する法律を私が作るなんてことは、絶対にあり得ないですよ」と、掌を拳で叩きつつ力説していた。

 大陸の自然環境そのものも、一方的に消費された結果として惨状を呈している。西ではグランド・キャニオン、東ではシェナンドアといった象徴的な名所が、いまではほとんどいつもスモッグにかすんでいて、ろくに見えない日が恒常的に続いている。国立公園の内部と言ってもいいような近い場所に工場がいくつもあり、排煙はいまのところ野放しだ。排煙は霧と重なって視界ゼロの濃密な霧の海を作り出す。その海にハイウエイが呑み込まれ大事故が連続している。

 西部開拓のなかで人々が遭遇したすべての河が、それぞれに伝説の河や象徴の河になっている。たとえばリオ・グランデは、いまでは汚染されきった汚水の河だ。支流に向けてメキシコから下水や工場排水その他、いっさいなんの対策もなしに流れこんでくる。人が泳ぐのは危険という状態にすでに達しているから、生態系のデリケートなバランスなどひとたまりもない。あのあたり一帯に広がる荒野や砂漠にとっての、貴重でわずかな水は、いまでは誰にとっても明白な危険物として流れている。

 カリフォルニアでは五年ごしの旱魃が続いている。山の灌木は徹底的に立ち枯れ、火をつけると爆発のように燃え上がる。水の無駄使いを監視して罰金を課すパトロールが町をめぐっている。ワシントン州からタンカーでカリフォルニアまで水を運んでこよう、という計画が真剣に検討されている。大陸の西の縁に沿って海底にパイプラインを敷き、おなじくワシントン州の水をカリフォルニアへ運んできて、ウエイ・オヴ・ライフというものをつらぬいていこうという計画もある。自省力のなさの見本は、破壊され汚染された環境のなかに、無限に近く存在している。

 数年前の夏の終わりに、カリフォルニア州でスタニスラフという名の河が蘇った。ダムによって出来た湖の底になった河だ。湖になる以前は、ホワイト・ウオーターとして知られたいい河だった。九月のはじめには、その河にかかっていた橋が、当時のままに見えてきた。その橋に立って見渡す両側の景色は、かつての緑豊かな美しいものではなく、荒涼さをきわめたものだった。人間が奪った自然を、旱魃というもうひとつの自然が、あるときふと、もとに戻して見せた。昔の河を知る人たちが、河を見るためにたくさん集まってきた。

 惨状を呈している自然環境のなかにまだ少しは残っている手つかずの部分を、保存しよう、守っていこう、と試みている活動は数多い。真剣なものはたくさんあるし、成果を上げてもいる。学ぶべき点は多くある。しかし、生活のありかたそのものを変質させないかぎり、すべては対症療法に終わりつつ、少しずつ惨状は確実に広がる。

 アメリカのフリーダムの象徴となった西部は、そのフリーダムの総点検と内容的な方向転換のために、もう一度、力を発揮することが出来るだろうか。人々は西部をさらなる自己正当化のためにだけ使うのだろうか。しかし、そのための西部は、すでに崩壊したと言っていい。では西部は、単なる輝かしい過去でしかないのか。いまふりかえると、輝きは確実にくすんでいる。

 フリーダムの点検や方向の転換は、苦痛に満ちた不愉快きわまりないことだろう。僕の直感では、自然の偉大さも先住民族の知恵も、すべてはすぐれた書き手による本のなかでのみかろうじて存在を続け、きわめて少数の人たちがそれを愛でる、ということになるのではないか。これからのアメリカが国の外へ持ち出して広く役に立て得るものは、フリーダムを総点検しなおした結果に生まれてくる、これまでとは質的に大きく異なったものだけだろう。

 自分が見つけ出し受けとめた素晴らしいものを、気前よく他の人たちにも手渡していくことに関して、アメリカはきわめて純度の高い名手だ。何年か前のハロウィーンにコロラド州の田舎で実際にあった小さな出来事について、僕はぜひ書いておきたい。ニック・ヴェネトゥーチというひとりの老いた男性が作るカボチャ畑に、ハロウィーンの二週間ほどまえから、車をつらねて人々が子供たちを連れてやって来る。自分のカボチャ畑に実ったカボチャを、ハロウィーンのためにニックは人々に無料で進呈しているからだ。過去四十年にわたって彼はそのことを続けてきた。四十台のスクール・バスが子供たちを乗せていっときに到着したりもする。合計で三万五千から四万の人たちが来て、彼のカボチャ畑からカボチャを持って帰った。地元には彼を記念してヴェネトゥーチ小学校と命名した小学校がある。「やがてこの国を支えることになる人たちに、喜びというものを私は体験させておいてあげたい。神はこれまで私に良くしてくれた。だから私はそれを他の人たちに手渡していくのだ」。取材に来たTVニュースの撮影カメラに向かって、ニック・ヴェネトゥーチはそんなふうに語っていた。

3

 かつて自分が書いた文章を、時間をへて第三者的に読みなおすと、不思議な気持ちになる。あたえられたスペースのなかにいろんなことを詰め込み、それらをとおしてひとつの主題について語ろうとしているかつての自分をいま僕は見る。おそらく一般論にはしないでおくためだろう、詰め込むさまざまなことの取り合わせに、この文章を書いたときの僕はやや苦労しているようにも思える。しかし、言わんとしていることは、よくわかる。これまでのアメリカが言ってきた自由と民主はすでに古典的なものであり、これからはどちらにも大幅な修正がほどこされなければならないのではないか、という趣旨だ。人権にはこれからは厳しい制限が必要だ、という考えかたにもとづいている。

 アメリカの自由と民主は、建国から開拓の時代のなかでふくらんでいき、第二次大戦で頂点に達してアメリカの繁栄を作り出した。そして現在では、資本主義、デモクラシー、人権などの複雑にからみ合う領域、つまり致命的な部分に、解決は不可能にも見える矛盾が、誰の目にもはっきりと生じている。そしてそのすべてを支えている理念は、いまも変わることのない自由と民主だ。ほぼおなじ時期に書いたもうひとつの文章も、ここに全文を採録してみたい。『芸術新潮』という雑誌の、アメリカの絵画についての特集号に書いたものだ。アメリカのリアリティとはなにか、というテーマだった。

 この文章のなかでも、いきついたところは初めに採録した文章とおなじだ。アメリカのリアリティは自由や民主という観念のなかにある、と僕は冒頭で書いている。個人に許された自由の大きさは多様性を生み、自由競争をとおしてアメリカはそれを国の力にしていった。その結果としてアメリカの繁栄があった。その自由と民主は、これからの世界のなかで、共通したひとつの理念として、世界的な公共性を持つことが出来るのかどうか。そのようなことを、僕は次の文章のなかで書いている。一般論として書くことが、書き手である僕に対して、制約のように作用している。そのためにわかりにくい書きかたをしている部分がいくつかある。原稿を受け取った編集者は、少しだけ困ったのではないか。

4

 アメリカのリアリティの本質をごく簡単に表現するなら、それはここにはない、というひと言につきる。アメリカのリアリティは観念のなかに存在している。観念は理想と言い換えてもいい。これからはここで誰にも邪魔されることなく自分たちだけで理想的な国を作っていきます、とアメリカを建国したとき、そこに参加した全員が共有する価値として合意した、たとえば十三州の契約つまり独立宣言の文章がめざした彼方のどこか遠くに、アメリカのリアリティは常にある。そしてそれはそこにしかない。

 だからアメリカは、ちょっと信じられないほどに抽象的な、観念の国家だ。この抽象度の高さは、ナショナリズムなど軽く越えているはずだ。抽象度の高さとは、理想の巨大さでもある。たいへんに大きな理想を、アメリカは建国の瞬間から、自分たちのめざすべき目標として、持ってしまった。これを越えるほどに大きな理想は、ほかにないだろう。

 十三州の契約は、まだ国などなんにもなかったときに、作成された。契約はルールであり、ルールとは理念だ。その理念はどのようなものかというと、前進主義、改革主義、未来主義など、アメリカを特徴づけるすべての理念だ。リアリティは、今日ここにはない。しかし、明日以後のどこかには、あるかもしれない。比較の誘惑を断ち切れないままに乱暴な比較をするなら、日本のリアリティは誰もの身のまわりと気の持ちようのなかにいつもある。

 アメリカのこのようなリアリティのありかたは、とにかくあらゆる場所にかたっぱしから問題を掘り起こさずにはおかない。現在のアメリカは数多くの難問を国内問題としてかかえていると言われている。そのようなアメリカは、じつはたいへんにアメリカらしいアメリカだ。昨日のアメリカよりも今日のアメリカのほうが、もっとアメリカらしい。ありとあらゆる問題を掘り起こさざるを得ない基本的な性格は、自分たちの視野を社会のぜんたいへと、広げずにはおかない性質の世界観や価値観の原点でもある。

 抽象的で観念的なアメリカではあるけれど、ものごとのおこないかたや進めかたには、白紙に戻してやりなおす好みを土台とする、きわめて理にかなったプラグマティズムが横たわっている。きわめて理にかなったとはいっても、アメリカ的という枠の内部でのことだが、このプラグマティズムは僕の私見では哲学にまで達していると言っていい。たとえばアメリカが独立したとき、その独立のしかたも観念的で理想論的であったかというと、そんなことはない。当時のヨーロッパを支配していた力の関係を慎重に秤にかけ、その隙間をじつに現実的に巧妙に突いて、アメリカは独立した。

 アメリカではさほどつきつめるまでもなく、国家よりも個人のほうが上にある。アメリカの原動力は個人のマン・パワーのなかに存在する。そしてその個人は、よりいっそうアメリカ的なアメリカ人になるための努力を一生続けていく、というリアリティを引き受ける。建国の理想の個人版だ。自分にとってのそれまでの場所を捨て、新しい場所であるアメリカへ来た人たちによって、アメリカは作られていった。新しくアメリカへ来る人たちは、アメリカにとってのマン・パワーの源泉だった。

 そして新しくアメリカへ来た人たちは、それ以後長く保持し続けるそれぞれの出身国の文化を背景とした自分とは別に、もうひとり、完全に白紙に戻った自分を持たなくてはならなかった。いったん白紙に返り、そこからアメリカ人になっていく。白紙に戻ることは、遠い彼方にあるはずの理想の共有にとって、欠かせない儀式だった。アメリカン・インディアンとかつては呼ばれた先住民を事実上の絶滅に追い込んだ史実に、いったん白紙に戻るというこの儀式は、重要な役を果たしたと僕は思う。殺す必要などどこにもなかった友好的な先住民を、自分たちとはまったく異なった物語を持って、しかも自分たちよりずっと早くからそこにいた人として、アメリカ人は認めるわけにはいかなかったのだろう。

 国の出来かたやありかたとして、これほどまでに観念的に興味深い例を、僕はほかに知らない。このような観念的な出来かたやありかたに対して、それは無理だよ、そんなこと言ったって駄目だよ、といったん言ったなら、無理と呼べるものは際限なく広がってしまう。だからアメリカでは、そのような無理を相手に、どこまでも本気で渡り合わなくてはいけない。そうしないでいることは、自らの内部にあるべきアメリカらしさを、放棄することにつながる。

 アメリカでは国家よりも上に個人がある。個人とは、人の単なるひとりひとりではなく、個性のことだ。人は誰もみなだいたい似たようなもの、という前提に立たない文化のなかでは、個性は言うまでもなくさまざまな多様性の土台だ。人の多様さは、アメリカ的な前進的変化の文化にとって、これ以上に重要なものはないと言っていいほどに重要な、推進力の出発点だ。

 個性の多様さとは、もののとらえかたや考えかた、つまり発想の多様さだ。そして発想は、ほとんどの場合、なんらかのアクションに結びつく。そしてそのアクションは、行動のための行動や、自己完結するためだけの行動も含めて、それまでは存在しなかった状況への移行や変化、より良い状態への変化、よりいっそう前進していくための変化などに、つながってくる。いったん行動を起こしたなら、その行動の主体も、そして周囲にいる人たちや周囲にある状況なども、ともに変化していくという責任を引き受けざるを得ない。アメリカ的な変化、つまり発展の発生源は個人にある。

 建国の理想は契約というルールにかたちを変えた。そのルールは個人に適用されていく。個人とは個性であり、個性とは多様性と同義だ。個性の多様性は発想の多様さであり、発想は行動に結びつく。さまざまな行動が、変化、改革、前進への力として、遠近法のずっと奥にある遠い彼方で、一点に結び合う。理想、契約、ルール、個人、個性の多様性、行動、より新しい、より良い方向への変化。アメリカのリアリティはここにはない、と僕は冒頭に書いたが、リアリティとは要するに理想だ。それは遠くに掲げられ続けられるものであるという意味において、ここにはない。

 自由主義社会のなかで、数多くの個人が多様性を原動力にして行動を起こすとき、そこにもたらされる行動のかたちは、個人の力を可能なかぎり大きな結果として実証していく競争という形態になる。アメリカは競争社会だと、多くの人が言ってきた。その競争は熾烈さをきわめる、とも言われてきた。競争の熾烈さとは、自分たちの社会が広く共通して信じている価値体系の内部へ、人々を強制していく力のすさまじい強さでもあることも、理解しておくべきだ。

 数多くの人たちが競争をしていくとき、これがなければお話にならないという絶対に近い唯一のものは、自由だ。だからアメリカでは、個人に許された自由の範囲の広さというものが、たいへんに重要なものとなっていく。個人に許された自由の範囲の広さとは、いま自分は可能なかぎりの自由のなかにいるのだと、その人が全存在をかけて実感出来る状況のことだ。そして競争とは、契約のなかで自分の責任をどのように果たしていくかだ。契約つまり自分の責任を果たすと、そこには報酬がある。

 民主主義、資本主義、そして代議制にもとづく政党政治などは、契約による個人の競争活動、つまり商業活動全般の安定的で継続的な維持の、社会的な基盤を保証する役を果たす。国家の長期的な計画運営によって国民の全員が等しく平等である、というような国の運営のしかたよりも、個人の自由な競争のほうが無理は少ない。だから自由と民主は、少なくともいまのところ、アメリカにおいてもっとも普及し成熟した。そしてそれに代わり得るものを、世界はまだ持っていない。

 民主主義の向かう方向はひとつだ。多くの多様な個人、多くの異質なものを、多様さや異質さを生かしつつ、民主主義はひとつの方向へ向かわせる。異質なものに対して自らを閉ざした文化は、その当然の結果として質を低下させていくほかないということが法則のように言えるなら、少なくともこれまでのアメリカは、まさにその反対を実行してきた。

 それぞれに異質で多様な数多くの個人というものの典型的な見本は、アメリカにこれまで移民してアメリカ人となった人たちの全員だ。アメリカという国の富にしろ力にしろ、それは移民を生かしきることによって高められてきた。そのことはアメリカの力の土台であり、もっとも大きい魅力でもあった。その魅力に引きつけられて、さらに多くの移民がアメリカに渡った。

 異質な要素を常に大量に自らの内部へ輸入し続けることをとおして、ほとんどどこに対しても自分のゲートを開いておくという体質あるいは伝統のようなものを、アメリカは自分で自分のなかに作った。異質なものを輸入し続け、自分の内部に混沌とした状況をいつも作ってきたから、混沌に対する対応のシステムや能力もまた、アメリカの国力的な伝統となった。異質さも混沌も変化も、アメリカでは、積極的に肯定されてしかるべき新しい次の状況への、またとないチャンスとしてとらえられる。理想的に見るなら、このようなシステムは停滞を知らない。システムはより良いものへと、常にその内部で再編成されていく。

 一九四〇年代から始まってつい昨日まで、旧ソ連を相手にアメリカは冷戦という巨大なシステムを維持してきた。ソ連はアメリカによって最終的には囲いこまれてしまい、その内部での社会主義の腐敗的な運営により自己崩壊を遂げた。冷戦を維持していくためには、ソ連もアメリカも絶えることない軍拡を必要とした。ソ連の軍事国家ぶりは、固定観念的なイメージであるにせよ、多くの人が承知している。そのソ連をはるかに上まわる、およそ信じがたい巨大で強力な軍事国家が、アメリカだ。軍事においても、自由や民主はもっとも有効的に作用したらしい。アメリカが維持し続けたすさまじい軍事国家ぶりは、一九四〇年代から七〇年代あたりまでにかけての、地球をひとりで食いつぶしてしまうと言っても過言ではないような、ものすごい生産力によって可能となった。

 一九四〇年代から現在までのあいだに、アメリカは激変した。その激変のなかでももっとも大きく変化したもの、つまりもっとも大きく広がったものは、個人の権利だと僕は思う。ソ連を囲い込んで出口なしにした軍事力、すなわち生産力は、この五十年ほどをかけて、じつは人権の拡大に関してもっとも大きく寄与してきた事実を知ると、アメリカにとってのリアリティがどのようなものであるのか、ぼやけていた像があるときいきなり焦点を結ぶように、はっきりと見えてくるはずだ。

 社会主義に対して民主主義が勝利した、という言いかたがしばしばなされているが、この言いかたはまったく正しくない。社会主義が理想的に運営されたことは、おそらく一度もないはずだ。最初から無理をきわめたシステムが腐敗的に運営されながら、それにふさわしい時間の経過のなかで自己崩壊を遂げただけだ。そしてちょうどその頃、アメリカの軍事力は頂点に達した。その軍事力を支えたのは民主主義だが、その民主主義といえども、ほかにいい方法がなさそうだからとりあえずこれでいってみよう、という程度のものだ。

 何度も繰り返すが、しかしそれにしてもすさまじい生産力ではないだろうか。第二次大戦中から戦後、そして一九六〇年代をへてごく最近にいたるまで、その生産力は維持された。大量生産と大量消費というシステムは、民主主義と結びついて限度いっぱいに、豊かなアメリカを作り出したことは確かなようだ。

 およそ考え得るありとあらゆる方法で、人々はその豊かさを享受した。しかし、それだけにとどまらなかったところに、アメリカが持つ真の興味深さがあると僕は思う。この四、五十年のあいだのアメリカで、人権の拡大が法制化されたもののなかで拾い上げていくと、その範囲と深さに、アメリカのリアリティを確実に見ることが出来る。アメリカではそうならざるを得ないから、そうなったのだ。

 ここにはないはずの、したがってめざす理想として常に追いかけるほかないリアリティは、自由や民主そして人権などによって支えられている。多彩に異質な個人たちの自由競争を支えるこれらの理念は、ごくわかりやすいひとつの言葉に言い換えるなら、なんのことはない、公共性なのだ。個人の私的な世界をあっさり飛び越える、絶対的なものとしての公共性がどのようなものであるかを知るには、たとえばエイズのような問題がもっともいい。エイズに関する意識や対応のしかたの、アメリカにおける大衆次元での変化の過程は、まるで絵に描いたかのように素晴らしくアメリカ的だ。

 初めのうちエイズは、ホモセクシュアルや麻薬常習者たちなど、限られた一部の人たちのものだとほとんどの人は思っていた。自分とは関係のない世界の出来事だ、と誰もがエイズをとらえていた。エイズはマイノリティの問題だった。しかし、時をへずして、エイズは普通の人たちの身近に次々に発生していった。

 人々の気持ちはパニックを起こした。学童にエイズ感染者のいることがわかったりすると、排斥や攻撃などの動きがあった。エイズは彼らの身辺でさらに増加していった。普通の人が普通の世界で感染すること、血液製剤や輸血でも感染すること、そして胎内で母から子供にも伝えられることなどがわかってくる頃になると、正確で冷静な情報が正しいかたちで末端までいきわたるようになった。

 人々はエイズを自分たち全員の問題として、真剣に受けとめ始めた。そしていま、エイズ感染者たちに対して差しのべられるさまざまな救済の手の、どれをも共通してつらぬくひとつの信念をごく日常的な言いかたで表現するなら、それはたとえばWe can’t let them go alone.というような言いかたとなる。goという一見したところ単純そうな動詞の、このように使われるときの語感が理解出来ないことにはどうにもならないが、このように表明される信念は、純度のきわめて高い公共性そのものだと言っていい。そしてその公共性には、宗教というものが強く持っている公共性が重なっている。個人をたやすく超越する絶対的なもの、つまり宗教的な確信としての信念は、アメリカが持つアメリカらしさの根源に位置するもののひとつだ。そのような信念を、アメリカ英語の開かれた性格は、きわめて日常的なひと言のなかにも、表明せずにはおかない。

 思考のありかたを出来るだけ普遍的なものに接近させようと試みることは、アメリカのリアリティのひとつだ。そしてそのようなリアリティは、アメリカ英語のアメリカ的な使いかたのなかにある。マイノリティだったHIVポジティヴ者そして発症者たちは、このような信念が持つ公共性によって、ステレオタイプとしての扱いから救い出されることとなった。アメリカのリアリティは、たとえばこのように機能する。

 自分たちに共通する価値判断の基準は、ほぼ自動的にそのまま世界のどこでも通用しなければおかしい、とこれまでのアメリカは思ってきた。自分たちの考えかたや物事の進めかたは、世界のなかでただひとつ正しいものだ、とアメリカは信じてきた。アメリカと対立するものがあるならそれは要するに悪でしかなく、その悪は退治されて当然のものだった。内部に異質なものを取り込んで国力に変換していく伝統があるかたわら、アメリカはこのようなかたちで順応を強制する力もあわせ持っていた。

 アメリカにとって、価値判断の基準でもっとも大切なものをひと言で取り出すなら、それは汎用性の高い公共性に裏打ちされた、あるいは最終的にはそのような公共性に帰結する、自由というものだと僕は思う。その自由は国内では自由競争を支え、国外に持ち出されたときには、世界じゅうをアメリカとおなじような民主主義の場にしようとする行動となった。そして現在のアメリカは、世界のなかでの競争を維持させていく力を自分たちは失いつつある、という自覚を持つにいたっている。アメリカにとっての根本的な不安や自信喪失に、直接につながる種類の自覚だ。建国から二百年にわたって信じてきた、そしてたいへんに有効であったアメリカのフリーダムが、そのままではこれからの世界のなかで充分に機能してはいかないものになりつつあるのではないかということに、アメリカはどこまで気づいているだろう。

 気づいていなければ、社会構造における本質的な変化の進行にも、気づかないままとなるだろう。本質的な構造変化とは、たとえば大量生産による大量消費というようなシステムの終わりのことだ。これまでどおりのフリーダムをとおしておこなわれる世界や人々のとらえかたに、限界が来ている事実に気づいたとき、アメリカはどうするだろうか。

 これほどの変化に対応するには、システムを作りなおすほかない。システムの作りなおしは、同時に、そのシステムを支えてきた理念の、根本からの修正をかならずともなう。アメリカはそのフリーダムを修正しなければいけないところまで、すでに来ている。そんなことをするのは嫌だとか、そのような必要はない、あるいは出来ないと言うなら、アメリカの歴史はいったんそこで終わる。昨日の段階で、それまでのアメリカは終わる。そして次の日からは、普遍的な理念も哲学も、もはや必要ではない。世界のさまざまな現場で起こってくる利害の衝突を、自分のつごうに合わせてねじ曲げたりへし折ったりする戦略的技術にたけた国に、なっていかざるを得ない。

 アメリカにとってもっとも重要なフリーダムは、誰もがどんなことをも好き勝手に遂行していくことの許された自由などではないことは、言うまでもない。フリーダムには、じつはきわめて厳しい倫理的な、観念的な枠が、はめられている。その枠を手がかりにして、フリーダムという言葉をほかの言葉に置き換えるなら、その言葉は公共性以外ではあり得ない。

 アメリカはこれから自分のシステムを修正しなくてはいけない、と僕はいま書いた。システムの修正とは、公共性というものをその土台から考えなおしていくための、途方もない作業の全体だ。アメリカとはなにか、アメリカ人とはなにか、自由とはなにか、人権とはなにか、という基本まで戻り、そこからの根本的な検討を始めなければならない。

 アメリカとは、そしてアメリカ人とは、多くの異質な人々の協力関係だった。初等から中等にかけての歴史教育の現場に、この原点を問いなおしかねない動きが、いま強く存在している。これまでのアメリカ史は、ヨーロッパから来た白人を主役にすえた上での歴史だった。この、ただひとつの視点からの歴史というものが、理屈で言うなら移民の出身国の数に対応して、それと等しい数のヴァージョンへと書き改められなければならないと主張する力が、たとえば自治体内部で社会的な問題となっている。

 全国の学校で生徒たちに先生がなにをどう教えるべきか、中央の政府が全国統一の指令を発するというようなことは、少なくとも現在のアメリカでは、教育に関してなされ得るもっとも馬鹿げた、あるいは最悪の、アイディアでしかない。この考えかたにもとづいて、立場によるアメリカ史のヴァージョンの違いを推し進めるなら、アメリカは内部でいくつにも分断され、それぞれが内向して自己完結しつつ、おたがいに自らを主張してゆずらないままという、崩壊のきざしをかかえ込むことにもなる。

 これからの国際社会は、相互依存的な協力関係の、複雑な網の目のなかにおいてのみ構成される、と多くの人が言っている。そのとおりだろう。アメリカが大事にする公共性が、今後の世界のこのようなありかたと、どんなふうに重なり合う可能性を持つかあるいは持たないか。建国からの歴史をへて、アメリカはもっとも興味深い局面へすでに入っている。

5

 自由と民主の視点からアメリカについて書いていくと、戦争を避けてとおることは出来ない。アメリカ史のなかを、戦争を避けて歩くことは出来ない。戦争そのもの、ないしはそれと緊密に結びついた項目が、建国から現在まで、アメリカ史の年表のなかには連続している。この本を書いている時期に、別な本のために、冷戦について僕は次のような文章を書いた。それも引用してみたい。次のとおりだ。

6

 一九五〇年代のアメリカ、ミドル・クラス家庭の居間の、そのための位置として有利な場所に、TVの受像機が置いてある。ゆったりした大きさのあるキャビネットに、それは収まっている。キャビネットのサイズに比較して、ブラウン管の画面が小さい。画面の四隅は丸く角が落ちていて、それに呼応したかのように、四辺のまんなかが、それぞれ楕円の一部分のように、外に向けてふくらんでいる。いまそのTVはオンになっている。白黒の画面には世界地図が映し出されている。

 共産主義の威嚇について、男性の声が煽るように語っている。現在ならたとえば大統領選挙中のTVにおけるネガティヴ・キャンペーンで、対立候補に関してあることないことおかまいなしに否定的なことを並べたてる、あのアメリカ的にすごんだような調子で、共産主義がいかに世界制覇を試み続けているかを、その声は語っていく。共産主義に転じた国、共産主義によって乗っ取られた国などが、次々に黒い色に変わっていく。西側の自由主義陣営は白のままであり、白と黒の対立の図面がTVの画面に出来上がる。

 当時のアメリカの人たちにとっての日常的な感覚として、冷戦という言いかたは我慢ならないほどにインテレクチュアルなものの言いかたに属した。冷戦という言いかたに、どっちつかずの印象を持った彼らは、冷戦というような言葉を使う人を、ひょっとしたら向こう側の味方なのかもしれない、などと判断していた。

 冷戦の相手は日常的にはレッズ(赤)の奴らであり、彼らとの戦いは、奴らに世界は渡せない、断固として我々は自由世界を守るのだ、という戦いだった。戦いの決意の固さは、共産主義つまり自分たちの理念とは相容れることのない理念に対して、当時の人たちが感じていた恐怖の大きさだ。冷戦はおそろしくアメリカ的な出来事だった、と僕は思う。アメリカの敵、西側の敵、自由と民主の敵としてとらえた共産主義の中心地である旧ソ連に対する、軍事的な包囲網を世界スケールで作り上げ、五十年近くにわたって二十四時間の迎撃臨戦態勢を、相手を上まわるスケールでアメリカは維持し続けた。

 そのためにアメリカが注ぎ込んだ国力たるや、どう表現していいのかまったくわからないほどに、とにかく半端ではなかった。自らが掲げた理念に敵対するものを捜し出し、それに対して戦いを挑むことで自らの理念をさらに強固なものとしていくという、アメリカらしさに満ちた冷戦という営為は、第二次大戦が終結する前からすでに始まっていた。

 冷戦を支え継続させていくにあたっての、わかりやすい武器として最大だったものは、東西のどちら側にとっても核兵器だった。相手の核攻撃能力に対する、自分たちの核による迎撃能力の、拡大とバランスの維持が、核による核の抑制力として、おたがいに作用し合った。その結果、核によるとりあえずの平和の傘が、西側ではアメリカを中心にして広がっていた。

 直接にあるいは間接に冷戦と関係した出来事を、原爆から水爆まで歴史年表のなかに追ってみよう。ごく簡略なアメリカ史年表ではあっても、そこから拾い出す項目がある程度まで重なると、それらの出来事のつらなりは冷戦がやはり戦争以外のなにものでもなかった事実を語ってくれる。

 
 日本軍による真珠湾攻撃の次の年、一九四二年の一月一日には、連合国宣言がワシントンで調印された。戦時生産局や緊急物価統制法などを、一月のうちにアメリカは作った。四月には、この戦争による最初の空襲を、東京は体験した。戦時人的資源委員会、というものもアメリカは作った。六月にはミッドウエー海戦がおこなわれ、アメリカ軍は初めて日本軍に大勝した。戦争情報局が出来、八月には原爆を製造するためのマンハッタン計画が開始された。十二月にはガソリンや食糧品が割り当て制となった。

 歴史年表のなかの一九四三年からは、連合国食糧農業会議の開催、戦時動員局の設立、戦時労働争議法の成立、といった項目が拾える。戦後の国際平和を維持するための機構の設立を求める決議を、上院は採択した。四四年には国際通貨基金の設立が決定された。アメリカ軍はサイパン島を占領した。八月にはパリが解放され、ソ連の勢力圏を設定するための、第二次モスクワ会議が開催された。

 四五年の一月、アメリカ軍はルソン島に上陸した。二月にはヤルタ会談がおこなわれた。おなじ月に硫黄島をアメリカ軍は侵攻し、五月にはベルリンが陥落し、六月には沖縄の日本軍が全滅した。七月にポツダム会談、そして八月には広島への原爆の投下があった。アメリカによる日本の占領が開始されたのは、八月二十七日だった。

 一九四六年の三月、イギリスの首相チャーチルはミズリー州の大学で演説をおこない、そのなかで鉄のカーテンという言葉を使った。七月にはビキニ環礁でアメリカは原爆の実験をおこなった。アメリカとソ連は協力し合うべきだと説いたウォレス商務長官を、トルーマン大統領は辞任させた。十一月にはCIO(産業別組織会議)が共産主義者の排除を決議し、十二月三十一日、大統領は戦争状態の終結を宣言した。四七年の三月、連邦政府職員の忠誠審査に関する行政命令を、大統領は発表した。忠誠とは、共産主義に賛成するかしないか、ということだ。八月には審査が開始され、審査の結果による解雇の法的正当性を、最高裁は認めた。国家安全保障法が出来、陸海空の三軍を統合した国防総省が設置された。

 一九四八年についての年表の記載のなかからは、三月のソ連への武器輸出の停止声明、六月の選抜徴兵法の成立、非米活動調査委員会がふたりの人物をスパイであると証言した、というような項目を拾うことが出来る。トルーマン大統領は再選され、議会でも民主党が勝った。一九四九年には北大西洋条約がワシントンで調印された。大統領は赤狩りを非難したが、共産主義者取り締まり法が、上院の司法委員会によって承認された。九月になって、ソ連は水爆を保有している、と大統領は発表した。

 一九五〇年の一月、国務長官のアチスンは、極東の防衛に関する演説のなかで、太平洋防衛線というものを披露した。大統領は原子力委員会に水爆の製造を命令した。マッカーシー上院議員による、マッカーシー旋風と呼ばれた共産主義者狩りが始まった。対ソ連総力外交六原則を、国務長官が発表した。六月に朝鮮戦争が始まり、七月一日、アメリカの地上軍の第一陣が半島に上陸した。予備役六万二千名が召集された。九月には国連軍が仁川に上陸し、十月、三十八度線を越えた。十一月には中国の義勇軍に押されて南へ撤退し、翌年一月に大統領は国家非常事態を宣言した。

 一九五一年一月、中国と北朝鮮の軍によって京城が占領された。三月には国連軍は京城を奪回し、総司令官のマッカーサーは中国本土の爆撃を要求した。国連のソ連代表が朝鮮戦争の休戦を提案し、七月には第一回の休戦会議が開かれた。太平洋安全保障条約、対日講和条約、日米安全保障条約などが調印された。対外経済、軍事、技術援助を統合した、相互安全保障法が成立した。一九五二年、日米行政協定が東京で調印された。インドシナへの軍事援助をアメリカは発表した。そして十一月、大統領は水爆実験の成功を発表した。

 マンハッタン計画から十年後には、アメリカは水爆を完成させた。冷戦のためのアメリカの軍備の技術革新、そして拡大や増強の動きを支えた中心軸は、原爆とそれに続いた水爆だ。原爆から水爆への十年のなかに、朝鮮戦争という共産主義を敵とした実戦を、アメリカはおこなった。国連でのソ連の提案による休戦という終わりかたは、その後の冷戦の展開を暗示して興味深い。

 冷戦という戦争の戦いかたは、自分の国から遠く離れた場所に軍事的な前線を徹底的に敷き、それによってソ連を包囲し続けるというものだった。包囲し続けるとは、東側の全体を、その外にある世界の全体から、完全に断ち切ることだ。外からは包囲されつくされ断ち切られ、内側においては運営の不手際によって、東側は自己崩壊した。崩壊するにあたっては、軍事的にだけではなく経済的にもなされた外の世界との断絶が、大きな力を発揮した。東側は崩壊したが、社会主義に対して民主主義が勝利したわけでは、けっしてない。冷戦という世界スケールの暴力行為で、アメリカの力が勝っただけに過ぎない。自らのアメリカらしさを、冷戦においてアメリカは堪能した。

 冷戦は、アメリカという価値の体系が、その外にある世界とどのように接するものであるかを、端的な一例としてあらわしたものだった。東側を徹底的に包囲するための、軍事的あるいは経済的な前線は、西側にとっては、西側としての結束力という強制として作用した。その結束力のすべてを支えたのは、アメリカが理念として掲げていた自由と民主だ。少なくとも西側には、そして少なくとも冷戦の期間中には、アメリカの自由と民主は、自国の価値体系の外にあるどの世界へも、持ち出しが可能だった。

 レッズに対する恐怖は、まず間違いなく大きかったようだ。その大きさに正しく比例して、自分たちをレッズから守ろうとする力が大きくなっていった。軍拡の競争を自分たちがリードしているという安心感のなかで、一九五〇年代のアメリカの自由と民主はふくらんでいった。

 そのふくらみの内部での支配的な価値観は、世界とは自分たちのことであるという、自己充足だった。その自己充足に生じるあらゆる隙間を即座に埋める彩りとして作用すると同時に、全体を増幅する役を担っていたのが、豊かさというものだ。世界とは自分たちだという自己充足を、世界史始まって以来の異常事態のような豊かさのなかで引き受けていると、多くの人は世界に対する好奇心を失って退屈する。自由と民主にもとづく個人主義は、基本的には反順応だが、世界とは自分たちだという自己充足の内部では、その充足への順応を強いる力として、強大なものとなった。レッズに対する恐怖と敵対の感情は、順応しないものへの強い攻撃力へとかたちを変えた。

 豊かさは、一九五〇年代の前半においてすでに、明らかに過剰な商業主義の産物だった。それに支えられて、過剰な生産と過剰な消費とが、社会をつらぬく基本的な価値観念にまで高まっていた。当時のアメリカは、国をあげて過剰に物を作っていた。五〇年代のアメリカは、物を作る人たちの国だった。もっとはっきり言うなら、工場での自分の持ち分をほぼ自動的にこなすことで給料を取っていた、工場労働者たちの国だった。

 過剰な生産と消費は、早くも途方もない次元に到達しつつあった。そこに生まれた大衆消費社会は、自由と民主を建前としていた。そしてその建前は、実態との距離がきわめて小さかったから、過剰な生産と消費は、市民の権利の際限のない拡張へと、機能した。

 消費者という大衆は、商業主義によって作り出された新たな欲望へと、常に動いていく人たちだ。このような基本的にまったくあてにならない人たちが、生産や消費という大きな局面での主役だった。そこになにかと言えば自由や民主が重なるから、主役の欲望はそのまま、世論となっていった。大衆のために生産と消費の仲介をすると同時に、彼らの欲望の表現を代行したのが、マス・メディア、特にTVだ。デモクラシーとは、そのようにして形成される世論を受けとめ、出来るだけそれに逆らわずにことを進めるか、あるいは誤魔化し続けるかという、操作作業となった。

 冷戦という世界スケールの暴力行為が一方で遂行されていき、もう一方においては、ろくな意見も判断力も持ってはいない大衆という圧倒的多数の人たちが、自分たちの望むとおりに世のなかが推移していくらしいことに満足を覚えるという、工場労働者たちの退屈な休日があった。

 そこではすべてのことが当然の権利だった。すべてが当然の権利である毎日のなかで、大衆は、常になにか不満を訴えていた。不満を言うことをとおして権利の拡大を常に図っていないと、自分たちの権利は削られ失われていくに違いないという不安が、その根底にあった。冷戦も、質的にはおなじ不安の上に立っていた。大衆という市民にろくな判断が出来ず、したがって彼らがろくな意見を持っていない最大の理由の発生源は、常になんらかの仕事をしていなければならない彼らの、その仕事のしかたにある。

 ほとんどと言っていいほど圧倒的に多くの人たちは、仕事をして報酬を得るために、職能という小さな世界のなかに入る。そこは小さいと同時に、他の多くから、そしておたがいから、分断された世界だ。すべてを無理なく自分の領域として持ち、トータルでひとつに統合された世界のなかで仕事をしていくことは、ほとんどの人にとって、とうてい望めることではない。夢のような理想論のなかにしか、そのような世界は存在しない。誰もがごく小さな職能のなかで仕事を続け、そのことの蓄積のなかでしか、判断力も意見も持つことは出来ない。考えたことも体験したこともないようなさまざまな重要な問題に関して、彼らはその程度の判断力や意見で、接していこうとする。

 アメリカという国は、最初から、仕事をする人たちの国だった。ヨーロッパからの移住、建国、そして開拓から発展へという歴史は、すべてを自らの労働のなかで作り出していかなくてはならない日々なのだから、仕事そのものだ。独立独歩の強靭な自助精神、独創力、周到な科学性、攻撃的な戦略、駄目とわかったらあっさり白紙に戻ってやりなおす自己改革能力など、すべては歴史を進行させていくにあたって、なくてはならないものだった。だからそれらはアメリカで特別に顕著に生まれ、発展し、アメリカにとっての伝統的な価値となった。その裏には個人主義にもとづく自由と民主があり、さらにその裏には、戦争という仕事が強固な支柱として、ほとんど常にあった。

 存在の全体性、そしてそのなかに身を置くことによってなんの無理もなく得られる、自然と一体となった生の喜びといったものは、かたっぱしからめちゃくちゃに破壊されていくのが、アメリカの歴史の基本的な主流だった。人工的ななにごとかを、強引に無理やりに作っていくこと、それがアメリカの歴史だった。先住民との関係の歴史が、そのことをよく証明している。

 昔はインディアンと呼ばれた北アメリカ大陸の先住民たちは、ヨーロッパから移住してきた人たちとは、悲劇的なまでに正反対の生の哲学を、そのまま生きていた。大陸の雄大な自然のなかで、彼らの存在は自然と分かちがたく一体で、全体としてのひとつの生のみが、彼らにとってのこの世での生だった。仕事というものは基本的には存在せず、すべてはなんらかのかたちで儀式から遊びまでの広がりのなかのどこかに、無理なく位置していた。自然とともに毎日を遊戯して生きるのが、彼らにとっては最高の生の喜びだった。

 しかしそのような先住民は、ヨーロッパから移住してきた人たちにとっては、単なる野蛮人でしかなかった。先住民たちはきわめて友好的であり、彼らを殺さなければならない理由はなにひとつなかったが、ヨーロッパから来た人たちは先住民を殺戮し、事実上の絶滅にまで追い込んだ。移住してきた人たちが先住民を殺さなければならなかった理由は、価値観が違うという一点だけだった。

 すべてを取り込んだ上で、トータルにひとつであるという生のありかたのための場所は、自然環境のただなかにしかあり得ない。細かく小さく分裂した職能のなかで誰もが仕事をし、その結果のトータルが文明となっていくという生のありかたのための場所は、人工的な文明環境のなか以外ではあり得ない。後者を維持し拡大させ、絶えず発展させ前進させていくにあたっての、すべての営為を支える宗教的と言っていい理念ないしは信条のようなもの、それがアメリカのフリーダムだ。建国とそのあとに続いた開拓のなかで、そのフリーダムが先住民と衝突し、そのことが気にくわず、それだけを理由に先住民を絶滅させた事実は、記憶しておいたほうがいい。

 おなじフリーダムが冷戦を始め、それを支えた。冷戦の相手は崩壊した。西側をひとつにつないでいたアメリカのフリーダムは、東側が崩壊して混迷をきわめていくことと重なるようにして、消えたと言っていいほどに力を失った。西側もかつての東側も、そして南も、冷戦が続いていたあいだずっと、複雑な問題をさまざまにかかえていた。冷戦という巨大な蓋がかぶさっているあいだは、それらの問題はあたかも存在していないかのように、見えないままだった。冷戦が終結して、その巨大な蓋は取れた。世界があらわになった。それぞれの国益をめぐって、複雑にさまざまに衝突していくほかはない世界という、現実そのものがあらわになった。

 東西や南北の方位など、意味はなくなった。しかし、今後の北は南の発展によって支えられるはずだ、とは誰もが思っているようだ。南の発展とは、一次資源を北に売ることだ。その意味で重要なかぎりにおいて、南は北の支配下となる。その他の南は、切り捨てられるのではないか。

 冷戦で世界を支えてきたアメリカは、冷戦に勝つことによって、世界に対する自らの影響力の、いきなり桁はずれな低下を体験しなければならなくなった。ペルシャ湾岸での危機は、なんとか抑えることが出来た。あとは手の出しようもないのが、それ以後の、そして現在も続いている状態だ。リーダーシップも取れない。取ろうとすると、余計なお世話だ、と言われたりもしている。もはやリーダーシップの取りようがなく、取ろうとしてはいけない事態が出現しているのかもしれない。世界というものの蓋をすべて開けてみると、アメリカのフリーダムとはこの程度のものだったのかと思わざるを得ないが、いまの世界をかろうじて支えているのは、アメリカが世界へ持ち出したフリーダムであるという事実は、そのまま事実として残っている。

 アメリカのフリーダムとはその程度のものだったのか、という言いかたは、明らかにそれをおとしめた言いかただ。しかしそれをおとしめることは、どのようなかたちにせよ、まったく正当ではない。冷戦の終結によって蓋をはずされた世界の、その複雑さを目のあたりにしたときの、ふとした感情的なものの言いかたとして、アメリカのフリーダムとはその程度のものだったのか、という言いかたをしたくなるにせよ、アメリカのフリーダムは、冷戦という巨大な蓋を世界にかぶせ得るほどに、途方もないものだった。と同時に、冷戦が終わると、蓋のはずれた世界というものを前にして、アメリカのフリーダムは立ちどまらざるを得ない。

 それぞれに複雑な事情を内部にかかえたいくつもの国が、この地球の上にある。世界とはそういう状態の便宜的な総称であり、世界というひとつにまとまったものはどこにも存在しない。冷戦で世界を背負っていたアメリカは、冷戦が終わったとたん、その世界の複雑さに驚いている。

 地域紛争は、その根の深さを理解することすら、第三者にはたいへん困難だ。小さな国とはいっても、いったんそれを救うとなると、とにかく無から国を作っていくことを全面的に手伝わなければならない。汚れた水を飲んでその国の子供たちがばたばた死んでいくという馬鹿げた現状といったものを、なぜアメリカだけが背負わなくてはいけないのかという、当然と言えば当然の考えかたが、アメリカの大衆のなかにすでに底流として存在している。

 世界を背負おうとする試みのなかで、たとえひとりでもアメリカの若い兵士が命を落とすなら、大統領といえども任期が明ければ確実にその仕事をくびになるという状況は、冷戦後の世界にたいへんふさわしい。世界をひとまとめにして自分がかかえていようと試みた冷戦という実験は、なんとアメリカ的でしかも果敢な試みであったことか。

 アメリカのフリーダムは内外から挑戦を受けている。フリーダムや民主、そして人権の定義のしなおしにまで、やがては到達するはずだと僕は思う。フリーダムは冷戦だった。冷戦が終わりその相手が崩壊してみれば、冷戦はとてつもない無駄だった。なぜアメリカだけが世界を背負わなくてはいけないのかという基本的な疑問は、冷戦という軍事活動がじつは無駄であったということの発見と、直接につながっている。

 その無駄こそ、アメリカだった。無駄という余裕のなかで可能になったことのすべて、それがアメリカ文化だった。その無駄が、いまあらゆる方向から挑戦を受けている。無駄を続けていく余裕は、とっくになくなっているからだ。強いアメリカ、アメリカの再建、アメリカが世界で一番、というような願望は、アメリカが経済大国になることによってのみ、実現される。経済とは、日本を例にして考えると、やはり効率なのだろうか。日本が達成した効率の高さは、そのために捨てたものの大きさだ。あるいは、捨てるものがあらかじめなかったという、一種の幸運の大きさだ。

 なにを捨ててなにを取るかというたいへんに厳しい選択には、いわゆる痛みや出血がともなう。それは長期にわたって続き、しかも先を正確に見通すことは誰にも出来ない。次のものをなににするか、そしてそれをどこに見つけるかに関する意見の一致点は、一九九二年の大統領選挙で明らかにされたとおり、我々は変革を求めている、ということだった。そして変革という合言葉には、経済という言葉が、裏としてあるいは表として、貼りついていた。

 大衆が求めた変革とは、なにだったのだろうか。アメリカ国内という文脈のなかでの、さらに地方自治体という小さな枠の内部における、生活の向上への確かな見通しや手ごたえ、という程度のものだったのだろうか。あるいは、自分たちの国というシステムを支える理念の、根本的な見直しだったのか。アメリカの強さを六つの漢字で言うなら、それは自己改革能力だ。より良い方向に向けて自分で自分を変えていく能力だ。国の深い内部の草の根に、強く供給され続ける適材適所の人材というかたちを取って、その力はこれまで常に存在し続けた。

 草の根の適材適所について思うとき、移民をはずすことは絶対に出来ない。移民というと日本語にはマイナスのイメージがある。アメリカに入って来る移民にも、やっかいなお荷物でしかない部分は確実にあるとしても、適材適所として国の力となる部分もまた、確実にそして巨大に存在した。内部に入ってそこでつちかわれ、多様で個性的な高い才能として、国の内部からシステムを改革したり理念に磨きをかけたりする力として、それはアメリカにとって作用し続けた。その力が国内でフリーダムを機能させ、冷戦で世界を背負う試みをとおして、フリーダムを世界へ持ち出し可能にした。

 国内に第三世界が強力にいくつもあり、それらがひとつにまとまって肯定的に機能することなどもはやとうてい望めないようにも見える現状を目のあたりにするとき、移民に関する以上のような理想論は過去のものになったのか、と僕も思うときがある。それぞれに異質な立場があまりにも多くあり、そのどれもが異質な多くの他者のなかでおたがいに力を増幅させ合っている状況を見ると、移民社会も限度を越えたかと、悲観的な気持ちになる。そのような悲観的な気持ちの底から、異質な要素がどれほど多くなっても健全に運営していくことの可能な、現在のそれをはるかに越えたさらなる民主主義を、アメリカの人たちは生むかもしれない、とも僕は思う。

底本:『日本語の外へ』角川文庫 2003年


『日本語の外へ』 アメリカを知っているのか?
2018年7月9日 00:00