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読まなくても本質に触れた気持ち

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〈書評〉岸本佐知子、三浦しをん、吉田篤弘、吉田浩美著「罪と罰」を読まない

 ドストエフスキーの『罪と罰』と言えばつうじた時代がかつて日本にあった。いまではつうじないだろう。なんですかそれ、と訊かれてそれで終わりだ。たいていの人は作者名と題名は知っていて、世界文学全集にはかならず収録され、学生の頃に読んだけれどよく覚えていません、と答える人たちが少なくなかった。

 いまではそもそも知らない人が多いのだから読んだ人もごく少ない。知ってはいるけど読んではいない人が、じつは昔から多数派だった。それゆえに成立するのが、『罪と罰』を読んではいない作家や翻訳家たち4人が集まり、読んではいないままに『罪と罰』について語り合う、『「罪と罰」を読まない』という本だ。

 4人のうちのひとり、作家の吉田篤弘さんによれば、読む、という言葉には、推しはかる、という意味があり、『罪と罰』を読んではいない4人が、読まないままに語り合って推しはかることにより、『罪と罰』の本質に一瞬にせよ触れることが出来るのではないか、そしてその一瞬のなかで、小説というものの奥深さに触れることが出来るのではないか、という「冒険的試み」なのだ。

 語り合う4人がドストと略しているドストエフスキーのフルネームはフョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーで、1821年から1881年の人だ。『罪と罰』は1866年の作品で、日本は幕府が世を治めた慶応2年だ。坂本龍馬が京都で暗殺される前の年、と言っておこうか。主人公はおなじく4人によってラスコと略されているが、フルネームはロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフという。舞台はサンクトペテルブルグだ。

 題名が『罪と罰』なら、主人公はなんらかの犯罪に手を染め、そのことをめぐって悩む小説だろうか、などと僕は思う。僕は『罪と罰』を読むわけない、読みっこない、という種類の人だ。2007年にロシアで原作に忠実にドラマ化されたDVD4枚組があるが、413分という長さには、ひぇーと言うほかない。

 物語が始まって2日目、7月のある日、金貸しの老女を、斧で殺すらしい。家賃の取り立てには「背筋の凍るような恐怖を感じ」たからだという。主人公はじつはもうひとり殺すようだ。

 読まないままに語り合う前半のあと、「じゃあ、読んだあとに、また集まって話そうよ」というひと言で、登場人物の紹介とあらすじをへて、この面白い本は後半となる。『罪と罰』を読んだ上で、4人は語り合うのだ。

 金貸しの老女を斧で殺したあと、ラスコーリニコフはその斧を、石鹸水で洗うそうだ。読んだあとの4人が語り合う言葉のなかに、小説として描かれたこのようなディテールと遭遇すると、僕はたいそううれしい気持ちになる。ただし、自分でも読んだほうがいいのではないか、とはけっして思わない。読んだあとの4人が語り合う言葉を介して、『罪と罰』の本質に触れた気持ちになりたい。

 舞台となっているサンクトペテルブルグがどのような街なのか、そのスケール感がいまひとつ伝わってこない、という指摘がある。ラスコーリニコフの住んでいる下宿は5階建て、部屋は下女つきだという。

「ものすごく細かい日常のディティールをミクロ的細かさで書いていく」手法がドストエフスキーの基本ではないか、という指摘は、そのようなことを語ってくれる人の言葉を介して初めて、僕にも届く。僕はただ読み飛ばすのではないか。

「老婆を襲いにいく前後の、頭の中の目まぐるしく変わる心理を全部書いてるし、あと、上着の下に凶器の斧を吊るす輪っかを作ったりして。チクチク縫いものなんかしてる」「あれ、おかしいですよね」というあたりは、読んでよかったと思う。

出典:『週刊朝日』2016年3月18日号


2018年5月28日 00:00