アイキャッチ画像

自己都合の神などそもそも居場所はない

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 人と人との関係はいまごく部分的な要素だけで成立している。かろうじて維持している役割、機能、立場などだけで、人は人との関係を作っている。いまの日本ではこの印象がひときわ強い。平和と資本主義に支えられた自由競争の網の目が社会として構築されていて、その網の目のどこかに人はひっかかっているからだ。ひっかかっていない人も多い。

 人とは関係だ。人とはおたがいのことだ、と言ってもいい。おたがいとは、自分という存在に対する他者の存在のことだ。おたがいの関係がないと人の世界は成立しない。もともと人はそのように出来ている。だから人間本来のありかたは、支え合う、というありかただ。

 人が人として人と全面的に対等に関係を結ぶと、その様子のぜんたいは、神のようだ、と言っていい。全面的に対等なら自分は自分であると同時に他者でもあり、他者のための存在の究極は一例としてイエス・キリストだ。自分と他者とに神が重なる。キリストの教えをきわめればこうなる。生きることの中心に神がある。支え合うことが、人の生きることそのものとなる。

 しかし現実はなかなかこうはいかない。それはよくわかる、しかしそれはそれとして、というのが世界を覆う現実だ。神をかたわらに置く、あるいは棚上げしておくのだから、そのような現実のなかに人と人との正しい関係など、あるわけがない。人が人を助けると、その行為に神があるのだが。

 神は人を助けない。神は自分の都合に合わせてすがったりお願いごとをしたりする相手ではない。人という小さな存在を超えたとてつもなく大きなもの、それが神だという理解も、正しくはないようだ。小さな自分が大きななにかに支えられているように思える様子のぜんたいに、神がある。神が支えてくれているのではない。『キリスト教は戦争好きか』という本を読んで、僕なりに整理してみた結果を、いま僕はこうして書いている。「人間として自分で生きていけるようにしてくれるもの、それがキリスト教によって『神』と呼ばれているものだろう」というような引用に、僕の理解の論理は整合している、と思いたい。

 人と人との関係として、およそ考え得る最高のありかたのぜんたいに、神を見ることが出来る。それは神だ、と言える。神がどこからともなくあらわれ、人の願い事を聞きとめて成就させてくれるのではない。その反対だ。神は消える。ともにいてはくれるけれど、神なしで、人そのもの、人間らしさ本来のありかたなどを、人はおたがいの関係のなかに現出させなくてはいけない。自己都合の神などそもそも居場所がない。だからこその、唯一神だ。

 人そのもの、人間らしさ本来のありかた、などで作られた関係のなかで、人が人をおたがいに助け支え合う様子を見るのは、日常のなかでの神秘体験だ、宗教的な体験だ、神を見る場面だ、などと言わなくてはいけないほどに、世界は自己都合の現実に覆われている。

 祈るほかないこのような現実のなかで、キリスト教にとってのキー・ワードは、キリスト教の根幹と照合させて、正義しかない。正義を説くのではなく、どこまでも実行され続けるものとしての、正義だ。

 人と人との関係から余計なものをすべて削ぎ落とすと、私とあなたは相関して完璧に対等あるいは同等であることがわかる。すべての人に対してどこまでも実行され続ける完璧な正義。これがキリスト教だろう。正義はこれを夢物語にはしない。

『キリスト教は戦争好きか』というこの本の前半は、キリスト教が始まってからの展開について書いてある。後半は、外へ向かう視線としての神についてだ。戦争に関してキリスト教は絶対的平和主義だが、いまの現実のなかでそれを押し通せるかどうかについて、著者は躊躇している。

出典:『週刊朝日』2012年6月29日号


2018年4月11日 00:00