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飛田の絶望感、これは日本そのものの物語だ

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〈書評〉井上理津子著さいごの色街 飛田

 とびは大阪市の西成区にある。地下鉄の動物園前駅を降りて南側の出口を上がり、動物園前一番街という商店街をいくのが、現在では飛田への唯一の道だ。百六十軒ほどの「店」があり、昼夜合わせて四百五十人ほどの「おねえさん」がそこで「仕事」をしている。「店」に入ったすぐのところで「おねえさん」と「曳き手のおばさん」が客を待ち、交渉が成立すればただちに二階の小部屋へ、という単刀直入な世界がそこにある。

 一九一二年という昔、難波新地おつという遊廓が、大火事で焼失した。その代替地になったのが飛田だ。当時は畑だったが広さは二万三千坪ほどあり、一九一八年の暮れに開業し、急速に都市化していった大阪、という歴史のなかで、飛田も拡大と繁盛を実現させた。

 戦前の最盛期は一九三〇年あたりから、日中戦争の始まった一九三七年くらいまでだったという。当時の日本ではこのような遊廓はあって当たり前のものだった。どこそこで女を買うために旅行するといったように、それは観光産業に組み込まれてすらいた。アメリカとの戦争で大阪は瓦礫となったが、飛田はごく一部分が焼夷弾で焼けただけだった。以前のままにある飛田へ人々は流入し、結果として復興は早く、賑わいはすぐに戻った。戦後の最盛期は売春防止法が完全施行された一九五八年以前と、大阪万博前の一九六〇年代後半だ。現在は周辺も含めて確実に縮小の道をたどっているようだ。

 著者が飛田の取材を開始したのは二〇〇〇年のことだった。取材は二〇一一年まで続き、二〇〇九年から本書の原稿を書き始めた。飛田でかつて遊んだことのある男性をひとり、またひとりと見つけては、著者が彼らの話を聞く、というところから本書は始まっていく。飛田の歴史をたどり、現状を観察し、飛田を舐めてはいけない、飛田は怖いところ、という認識にまで到達した著者は、飛田に関してそれを言っちゃ駄目、黙認の上に周囲すべてとの共存が維持されているのだから、と書く。

 その共存のなかに、飛田でしか生きることの出来なかった人たちの、とんでもない生活、そしてその積み重ねの結果である人生が、何重にも折り畳まれて層をなしている。全編にわたってその前面で飛田の案内役を務める著者は、取材者であり書き手でもあるのだが、飛田で生きる人たちと現実のなかで直接に反応し合うとき、もっとも精彩を放って素晴らしい。取材者として飛田にいるときの自分の言動と、それを受けとめるさまざまな相手との、自分の生き身のぜんたいを賭けたような間合いの取りかたの正しさのみによって、飛田でのさまざまな人生の話が、一本の糸のように引き出されていっては、本書の材料としてその核心となった。その部分の興味深さに取り込まれてうっかりしていると、本書が持つ怖さを受け取りそこねるかもしれない。

 飛田の物語の主人公は「おねえさん」たちだ。彼女たちは貧困の連鎖のなかにあり、現状満足度はゼロだという。親の生活が崩壊し、満足な保護を受けることなく育ち、お手本とすべき生活はどこにもなく、経済的な苦労が連続し、社会と自分との関係がないまま、易きに流れて飛田で「仕事」をする。親、自分、その子供と、貧困の連鎖は三代くらいたちまちつないでしまう。彼女たちが一生懸命に生きている現実は、しかし、誰にも否定することは出来ない。そしてその現実を、経済的な自立の困難さ、としてとらえるなら、そこにあるのは、じつに多くの人たちが日本のいたるところで主人公になることの出来る、いまの日本そのものの物語ではないか。

 著者が現在の飛田に感じる、寂しい、という感触。そしてそこに重なる、希望がない、という確実な絶望感。この怖さはただごとではない。飛田だけの問題では終わらない。明らかにこれからの日本ぜんたいの問題だ。

出典:『週刊朝日』2011年12月9日号


2018年4月6日 00:00