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金色の瞳に映るものはなにか

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 バンタム・ブックスというペイパーバックの叢書で刊行された、カーソン・マッカラーズの『金色の瞳に映るもの』という小説の版違いが、今回の写真のなかに四とおりある。いちばん左にあるのが、バンタム・ブックスでの最初のものとなった、一九五〇年の版の初版だ。いまから五十八年も前のものだが、インタネットの通販で簡単に手に入る。驚くほど廉価であり、ブック・コンディション・ヴェリー・グッドと表示してあるものを選ぶと、新本とほとんど変わらない状態のものが送られて来る。アメリカの懐は深い、と言わざるを得ない。

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 左から二冊目は、バンタム・ブックスの背丈が高くなったすぐあとのもので、一九五三年の版だ。これもインタネットで手に入れた。左から三つ目にあるのは、一九五八年のエディションだ。おなじものを僕は以前から持っていたが、東京で手に入れた状態の悪いものだった。だからこれもVGをインタネットで買った。いちばん右のは一九九一年に刊行されたバンタム・ブックス国際版だ。これは最近になって東京の古書店で見つけた。

 ほとんど裸の体にシーツだけをかけて眠っている魅力的な女性と、その彼女の寝姿をじっと見ている若い男性の姿が、四冊のどの表紙絵でも、共通した主題となっている。一九五十年の版の表紙を描いたのはベン・スタールだった。これがオリジナルとして定着し、あとに続いた版のどれにおいても、ベン・スタールの描いた主題が踏襲されている。一九五八年版には、ベン・スタールが描いたものをもとにしてルイス・グランツマンが描いた表紙である、という断り書きがある。一九五八年の版と一九九一年の国際版には、表紙を描いたアーティスト名の記載はない。

 おなじ小説のペイパーバックが版を変えるたびに、表紙絵の同一主題が五十年以上にわたって繰り返し描かれるのは、たいそう珍しいことだ。絵の出来ばえはオリジナルがもっとも優れている、と僕は思う。カーソン・マッカラーズのけっして長くはないこの小説に、表紙に描かれたこの場面は何度かあらわれる。一九五三年の版では、眠る女性を見る男性は立ち姿となっている。そして場面ぜんたいの構成は幻想的だ。バンタム・ブックスの大きさが変わった直後だから、表紙ぜんたいをデザイン的になんとかしたい、という思いが編集の側にあったのだろう。そしてその思いがこのような絵を引き出した。オリジナルと一九五八年版との対比は興味深い。夜の寝室の様子、そのなかでのふたりの人物の配置とポーズなど、両者はほとんどおなじだが、一九五八年版では、本の丈が高くなったことを利用して、寝室の天井までの空間がやや誇張された高さとなっている。

 カーソン・マッカラーズの小説を僕が最初に読んだのは高校生の頃だ。『悲しいカフェのバラッド』という短編が表題作として収録された『セヴン』という題名の短編集を、バンタム・ブックスのペイパーバックで読んだ。なにげなくふと読んだのだが、一冊を読み終えてかなりの衝撃があった。そしてそれ以来、彼女の名前は僕の頭のなかにあり続けた。僕にとっては二冊目となる『金色の瞳に映るもの』を、この春に読んだ。一九四一年にハード・カヴァーで刊行されたものだ。カーソンは一九一七年、ジョージア州コロンバスの生まれだから、この作品を書いたときの彼女は、二十三歳になるかならないかという年齢にあった。

 小説として書かれている主題は、さほど深刻でもやっかいでもない、アメリカにはよくある話だと僕は思うが、ふと読み始めるとそのままうまく乗せられて、最後まで引っぱっていかれてしまうその書きかた、つまり語りかたの巧みさが二十代前半の女性のものかと思うと、そのことに気を取られすぎる。作品だけを読めばいい、それを書いた作者のことなどどうでもいい、とずっと以前から僕は思っているし、自分に関してもそのような態度をあてはめてもらえるなら、小説により好ましく気持ちを集中させることが出来るはずだ。

 怪奇、恐怖、陰惨などの雰囲気で主題もなにもかもくるんでしまうゴシックの手法かというと、それほどではないのだが、それほどではないというその加減の絶妙さが、カーソン・マッカラーズの書きかたなのだろう。薄気味悪さのなかにじつに健康的な前進力があり、それが大きな魅力となっている。読み始めると引き込まれ、最後まで読んでしまうのは、そのような前進力が語りのなかにくまなくいきわたっているからだ。『心とは寂しい狩人のこと』という作品を二十三歳のときに発表し、これが彼女の処女作であり、たいへんな評判となった。『金色の瞳に映るもの』は、それに続いた第二作だった。

 アメリカの南部のどこかに陸軍の基地があり、語られていく物語はその基地のなかで進行していく。ペンダトンという大尉がその基地のなかの宿舎に妻のレオノラとふたりで住んでいる。彼らに子供はいない。陸軍で大尉と言えば、私企業なら中間管理職のちょっと上だろうか。ペンダトンはけっして悪い人ではないのだが、自分が作りだした堅苦しいきまりやルールで自分を取り囲み、そのなかで毎日をまったくのルーティーンとして送っている。そんな彼にとって最大の、したがってもっとも重要な目標は、陸軍という組織のなかでの自分の保身と昇進だ。

 妻のレオノラは、そんな夫とはまったく反対の、肉感的で奔放な雰囲気のある、ものの考えかたの自由な美人だ。物語を読み進んでいくと、ペンダトン大尉はこのレオノラにまったく関心を抱いていないように思える。彼女も夫を彼のルーティーンのなかで好きなようにさせている。表紙絵のなかに描かれている眠る女性は、このレオノラだ。

 ペンダトン大尉には、自分ではまだまるで気づいていないか、気づきつつあってもそれを拒否しているかのいずれかだが、自分の内部の深いところに、おそらくもっとも自分らしいものとして、彼自身のアイデンティティーとして、強い衝動として突然にあらわれかねない、いまだ不定型な欲望を抱いている。その欲望が意識のすぐ下あたりでしきりに気になるのだが、それがなにだかわからないままに、彼はきっちりときまった定型のような人生を送っている。

 レオノラは乗馬をする。彼女は馬を本能的に巧みに乗りこなす。彼女の馬を世話する係として、陸軍に入隊してまだ二カ月の二等兵、ウィリアムズがふたりの前にあらわれる。ウィリアムズはなにを考えているのかまるでわからない、奇妙でもの静かな青年だ。そんな彼だが、レオノラに対してなんらかの興味を持ったのだろう、夜中にペンダトン大尉の家へ忍び込み、二階の寝室へ上がり、眠っているレオノラの姿を飽きることなくじっと見つめる。表紙絵のなかで、しゃがんでレオノラを見ている男性が、このウィリアムズだ。彼がレオノラに対して抱いた興味の内容については、いっさい描かれてはいない。ウィリアムズ二等兵がレオノラの寝姿の観察を習慣のようにしていることに、ペンダトン大尉は気づかないままだ。

 そしてペンダトン大尉はウィリアムズ二等兵という青年が、少しずつ気になり始める。惹かれていく、と言ってもいいのだが、大尉の自分が兵卒と気さくに口をきくわけにはいかない、などときめているような人だから、彼との自然な関係はいつまでたっても作れない。作れないままに、彼への関心は強まっていく。しかしペンダトン大尉はどうすることも出来ない。そんな彼にくらべて、若い二等兵はなにを考えているのかまったくわからないけれど、自分の気持ちや体がおもむくままに、きわめて自由にふるまっている。というような奇妙な物語は、取り返しのつかない、思いがけない結末を迎える。

出典:『Free&Easy』2008年9月号


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2018年3月19日 00:00
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