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この世の終わりを見続ける

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 コーマック・マッカーシーの小説を三冊、続けて読んだ。写真のなかでいちばん左にあるのが、処女作だという『果樹園を守る人』という作品で、一九六五年に刊行された。それから四十年後、二〇〇五年の『老いた男たちの国でなく』が、まんなかにある。そして一番右のは、二〇〇六年の『ザ・ロード』だ。ロードとは道だが、それはけっして単なる道ではなく、この道をこそ歩む、というような意味を託された道だろう、と僕は思う。

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 処女作を読み、そのあとごく最近の作品を二作続けて読むという、かなり変則的な読みかたをしたおかげで、彼が小説で描く世界の基本的な構造が、よくわかった。自然環境としての意味合いを色濃く持った一定の場所があり、そのなかに悪と善が対立的に共存し、悪は究極的な悪として善を滅ぼし、環境ないしは場所はこの世の終わりの現場となる、というような構造だ。

『果樹園を守る人』は、第一次世界大戦と第二次世界大戦とのあいだの時代を背景に、テネシー州の山なみの自然環境のなかに、そこから絞り出されたように存在する悪と善を描いている。この時代のこの地域にあった自然環境が、圧倒的な筆力で描出されているのを、そのために著者が費やした言葉を一語また一語と追っていくのは、充分すぎるほどに手応えのある読書体験だった。すさまじい生命力を持った自然環境が、果樹園に果実が出来るようなきわめて当然の出来事として、悪と善を生み出す。この小説の文脈では、悪は山のなかで密造され自動車で都会に運ばれていくウイスキーの、運び屋だ。それじたいは大した悪ではないのだが、物事のちょっとした成りゆきのなかで彼は人をひとり殺してしまう。長いあいだ発覚せず、白骨が発見されたときには殺した男はもうこの世の人ではなく、善も悪もすべて均等に自然が呑み込んでしまっている。

『老いた男たちの国でなく』は、現代の話だ。メキシコとの国境に接する南西部の荒野と田舎町を舞台に、南米から入ってくる麻薬をめぐる、ハードボイルドの極みのような物語が展開されている。アメリカへ持ち込まれた麻薬が荒野のただなかで現金と引き換えられようとする。その現場で麻薬と現金を独り占めしようと図った男が、他の男たちを射殺するが自分も射たれて重傷を負い、現場で死ぬ。その現場をたまたま発見したひとりの男が、麻薬と現金を持ち去る。その男を捜し出して射殺し、麻薬と現金は回収して麻薬密売組織に届ける、という役目の男がどこからともなくあらわれ、その役目をまっとうする。麻薬じたいが究極的な悪であり、それの密売にかかわる巨大で複雑な組織の支配する闇を、この世の終わりとして著者は提示している。究極的な悪は、神の国の出現によって善が勝利することで破滅する、という黙示録が成立するのかしないのか。古典的な主題と現代そのもののような悪の対立の物語は、映画化されて高く評価されている。ほどなく日本でも公開される。

『果樹園を守る人』の自然環境の描写は限度いっぱいに濃密だ。しかも外側からの描写ではなく、肉体も精神もともに内部に入り込んだ上での、その内部からの描写だから、読者である僕がおこなう読むという行為には、相当な負荷がかかる。具体的な描写の連続のなかに、絶妙なタイミングで比喩がはさみ込まれる。比喩はマッカーシーの精神世界だと僕は思うから、描写される自然は比喩の力で彼の手もとにたぐり込まれ、善と悪の物語の舞台であることをはるかに越えて、善そして悪そのものへと昇華されていく。

『老いた男たちの国でなく』では、自然環境はメキシコと国境を接する南西部の荒野だ。究極の悪はそこでは剥き出しだ。そして『ザ・ロード』では、自然環境はほぼ壊滅した状態で、物語の舞台として提示されている。場所はアメリカなのだが、全世界が焼きつくされて人間の文明は消えたも同然の状態だ。核や放射能という言葉は一度も出てこないが、人間が作ってきた文明世界は、なんらかの巨大な原因によって、炎上して燃えつきた。特に森林が燃えたようで、成層圏にはその灰が厚く漂い、太陽の光は遮断され、黒い灰の風が吹き、灰の雨が冷たく降り、どこを見ても世界は灰色に淀み曇っている。

 こういう状態がすでに十年以上にわたって地球ぜんたいで続いている。文明は燃えてしまったから、なんにも残っていない。北アメリカ大陸の中西部の片隅に、三十代の男性とその十二歳くらいの息子のふたりが、生存者として生きるか死ぬかの境目をかろうじて生きている。彼らふたりは海へ向かって歩いている。海に向けて歩くことに、男性は自分のなかに残っている希望のすべてを託したようだ。文明は燃え尽きてしまったのだから、頼りになるものはなにもない。食べるものがない、水がない、燃料もない。靴はすでにぼろぼろで、ビニールの袋を何枚も重ねて足にかぶせ、足首をビニールの紐で縛っている、という状態だ。服もぼろ布で、焼け残った民家で見つけたブランケットを痩せ衰えた体に巻きつけている。十二歳の息子が生まれる前に文明は壊滅したようだから、息子は人間の文明というものをそもそも知らない。

 人はめったに見かけない。壊滅直後にはまだ生き残っていた人たちは、その後の時間のなかで病死したり殺し合ったりして、絶えてしまった。まだわずかに生存を続けている人たちは、おたがいを食うという状態にまで墜落している。人間の文明が復活することは、もはやあり得ない。人そのものが限りなく絶滅に近く、人が構築した文明のシステムはいっさい機能していず、すべては燃え尽きた廃墟だ。男性とその息子は、このような世界に生きている。そして海へ向かっている。

 海へはたどり着くのだが、灰色の空の下に灰色の海があるだけだ。男性は栄養失調と肺炎であっけなく死んでしまう。それと入れ違うかのように、少年はひとりの男性と出会う。善を体現していると言っていい、逞しい野人のような、信頼のおける男だ。そしてその男は女性を連れている。彼女もまた善を体現する存在として設定されているのだろう。彼女は少年を抱きしめる。少年はあらゆる善、すべての希望の象徴だ。この三人がこれからどうなるのか。物語はここで終わっている。

 海へ向かって歩いていくとは、あらゆる希望を持続させることの象徴だった。歩いてきたからこそ、父親は死んだものの、ひとりの男性と女性に、少年はめぐり逢うことが出来た。少年が父親とともに歩いて来た道なき道は、全世界が壊滅したという悪の究極のありかたに対する、善への希望の最小単位だ。創世記はふたたびあるのか、それとも、二度とないのか。

 著者のマッカーシーが想像のなかに見ているのは、少なくとも一年後くらいには、灰色の分厚い雲に切れ目が出来て、そこから太陽の光が地を照らす光景ではないか、と僕は思う。陽の照る時間が少しずつ長くなり、木々には小さな葉が生まれ、灰色の地面から草が生えて花が咲く。そして少年はおなじような年齢の少女と出会い、アダムとイヴの生まれ変わりとなる。文明の壊滅という最悪の状態に対して、最小単位の希望はどのように機能するか、あるいは、機能しないのか。

出典:『Free&Easy』2008年3月号


2018年3月5日 00:00