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「フラッグス オブ アワファーザーズ」

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 日本軍の守備隊が守る硫黄島を奪取するため、グリーン・ビーチと自ら名づけた海岸にアメリカの海兵隊が上陸したのは、一九四五年一月十九日のことだった。そして三月十二日、二万二千名もの日本兵のほとんどを戦死させて、アメリカ軍はこの小さな島を完全に制圧した。アメリカ側の死傷兵は二万五千八百五十一名に達した。このうち七千名近くが戦死兵だった。

 一九四五年の一月には、人類史上に特筆されるべき日本の大敗戦は、もはや決定的だった。ほどなくかならずや日本本土へと侵攻して来るアメリカ軍を迎え撃つ場所として、硫黄島は象徴的にも現実的にも、きわめて重要な位置にあった。だからこそ、二万を越える数の日本兵が、そこでアメリカ軍を待ちかまえた。

 海岸へと上陸して来るにきまっているアメリカ兵たちを、どこまで引きつけ、どこからどのように銃撃すればもっとも効果的であるか、日本軍は実地に試しつくして待った。そこへまともに上陸したアメリカ軍の作戦は、多大な犠牲をともなうにきまっている、おそろしく無謀なものだったと僕は思う。この無謀さが、当時に限らずそれ以後においても、アメリカ国内で厳しく問題にされたことは、一度もなかったのだろうか。

 上陸したアメリカ兵たちにとって、まず達成すべき目標のひとつだったのは、その形状から日本軍がすり鉢山と名づけた、小さな岩山を制圧することだった。島のいたるところでまだ戦闘が続いているあいだに、すり鉢山はアメリカ軍の手に落ちた。そしてその頂上には兵士たちによって、星条旗が立てられた。硫黄島に常に吹いている強風にひるがえる星条旗を見て、あの旗は記念にぜひ俺がもらいたい、と所望した上官のために、最初にかかげられた旗は降ろされた。代わって二枚目の旗がすぐにかかげられ、その星条旗もまた、まるで絵に描いたかのように、ひるがえることとなった。

 最初の旗を海兵たちが立てたとき、そして二枚目の旗が立ったとき、その様子はどちらも写真班の兵士によって、写真に撮られた。二枚目の星条旗が掲揚されていく過程を連続して撮ったいくつかのショットのなかのひとつは、偶然にも、構図的にじつに好ましくてしかもわかりやすい写真となった。横画面のややしまりのないショットなのだが、トリミングすると見事に引き締まった。

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 星条旗をくくりつけた鉄製のポールを、六名の兵士たちが、すり鉢山の頂上に、いままさに垂直に立てようとしている、決定的な瞬間をとらえた写真だ。頂上だから前景にも背景にも、さえぎるものはなにもない。一団となっている六名の兵士たちは、戦場の空をバックドロップにして、浮き彫りになったかのように見える。垂直に立てられる直前の、しかしいまはまだ斜めにかかえ上げられているポールの、その斜めの角度が、これ以上ではあり得ないほどの正解ぶりだ。演出された写真ではないか、という話は、この写真が公表された直後からあった。これは演出の結果かもしれない、と人々に思わしめた最大の理由は、斜めになっているポールの、絶妙きわまりないその斜めの角度だったはずだ、と僕は思う。

 ポールの先端にくくりつけられた星条旗は、ポールに近いあたりでは風を受けて平らになりつつあるが、それ以外の部分ではまだ風のなかにもつれている。次の瞬間には、完全に開いて風のなかに音すら立てて強くはためくはずであり、そのような次の瞬間に向けての動きとそのための力が、この写真にとらえられた星条旗には、充満している。

 ポールを垂直に立てようとして力を合わせている六名の兵士たちの姿勢は、まるで記念碑の彫像のように、ぜんたいとしてひとつに統合されている。星条旗のはためくポールをまっすぐに立てるため、全員の力が一点へと集中している瞬間なのだが、六人のありかたが構図としてあまりにもまとまり過ぎているから、彫像を見ているような不思議な静止感を、この写真を見る人は覚える。

 この写真を三次元へと再現した記念の彫像が、アーリントンにいまもある。その周囲を歩きまわると、ひとつの角度からしか見ることのできないこの写真を、いろんな角度から三次元のものとして、観察することが出来る。何度も歩きまわり、さまざまに観察したあと、最後は写真とおなじ角度の位置に立ちどまると、目の前にある彫像は頭のなかで写真とひとつになる。

 ヨーロッパで連合軍とともにナチス・ドイツと戦って勝ち、太平洋シアターでは自分だけで日本を相手にして勝利したアメリカの力を、きわめて雄弁に象徴した写真として、この写真は戦中から戦後にかけて大量に印刷複製され、少なくともアメリカでは、その隅々にまでいきわたった。六名の兵士のうち五名は海兵隊員であり、ひとりだけ海軍の兵士がいた。このとき二十二歳の青年だった、ジョン・ヘンリー・ブラドレーだ。陸軍に入って地上戦に送り出されると銃弾を受けて死ぬ可能性が高いから、海軍で船に乗っているのがいちばんいいだろうという判断のもとに、彼は志願して海軍に入った。そして海軍ではメディック(衛生兵)として訓練され、こともあろうに硫黄島への上陸に参加することとなった。スピアヘッド(切り込み隊)を任務とする海兵隊につき添うのは、伝統的に海軍のメディックなのだから。

 制圧したすり鉢山の頂上に星条旗がひるがえったとき、衛生兵ブラドレーはたまたまそこにいた。仲間たちが国旗を立てようとしているのが目に入り、自分も手伝おうとして駆け寄り、ポールに両手をかけた。その直後、アメリカの象徴として広く知られることになったワン・ショットのシャッターが切られ、若いブラドレーは六名の兵士のひとりとして、おそらく永遠に記録されることになった。

 硫黄島に上陸したアメリカ兵たちは、三人にひとりが戦死した。この写真のなかに固定された六名のうち、三人までが島で命を落とした。ジョン・ブラドレーは生き残った三人のうちのひとりとなった。硫黄島の英雄として帰国した彼だったが、本当の英雄は戦死した兵士たちだ、というひと言のほかには、硫黄島のことも含めて、自分も兵士のひとりだったあの戦争について、彼は家族になにひとつ語らなかった。

 フューネラル(葬儀)パーラーという、地元に根づいたビジネスで成功したブラドレーは、七人の子供に恵まれ、天寿をまっとうして他界した。七人の子供たちのうちのひとり、ジェームズ・ブラドレーは、父親の死後、遺品を整理していて、硫黄島にいきあたる。自分の父親は英雄として讃えられた人のひとりだ、ということは知ってはいても、具体的なことはなにひとつ知らずに過ごした息子の彼は、このとき初めて、若い衛生兵として硫黄島へ上陸した父親と出会うこととなった。

 戦争の英雄とはなにか。硫黄島とはなにか。あの戦争とはなにだったか。尽きぬ興味に強く駆り立てられた彼は、取材を開始した。その成果が『父親たちの星条旗』というすぐれたノン・フィクションだ。「この世で新しいと言えるものは、自分が知らずにいた歴史という過去だけだよ」というトルーマン大統領の言葉が冒頭に引用してある。その言葉のとおり、知らなかったことがぎっちりと充満しているこの著作を手に、知らないままでいることの蒙昧な無謀さを、一ページごとに僕は思い知らされているところだ。

出典:『Free&Easy』2007年2月


2018年2月5日 00:00