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「ファン」

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 ニューイングランドの小さな町に住んでそこを根拠地点とし、近隣一帯を自分の営業担当範囲に持って、ナイフの歩合セールスマンをしている、四十二歳のギル・レナードという白人男性が、この小説の主人公だ。題名の『ファン』とは、片仮名書きで日本語にもなっている、あのファンとおなじだ。レナードは野球ファンで、ホワイト・ソックスを熱狂的に応援している。

 彼の父親はすでにこの世にないが、ナイフ作りの名工として知られた人で、数々の名品を残した伝説的な存在として、いまでも語り伝えられている。息子のギル・レナードはその父親からナイフ作り全般に関して、けっして浅くはない薫陶を受けて育った。しかしレナードはナイフを作る人ではなく、卸問屋に雇われているコミッション・セールスマンのひとりだ。この設定からして、かなりせつないものがある。彼の行く手にあるはずの悲惨な結末の、具体的なありさまは物語を読み進まないとわからないが、結末が悲惨そのものであることは、レナードという中年男性の背景設定だけで、充分すぎるほどに想像がつくからだ。

 三階建てのぼろなアパートのワンルームに彼はひとりで住んでいる。ベッドにフロア・ランプ、そして引き出しが四つほどある箪笥が、家具のすべてだ。以前には家庭を持ち、息子もひとりいたのだが、いまは離婚して滞納ぎみに養育費を払っている。かつての妻は再婚して中流の小ぎれいな生活を送り、息子は彼女のもとに引き取られている。レナードという人の現在についてこうして書いていくと、彼がいま送る日々の向こうには、いまよりもさらに荒涼とした寂しく虚しい、どうにもならない日々しかない様子が、まるですでに確定された事実のように、浮かび上がってくる。

 担当地区のなかにあるアウトドア用品店を車でまわっては、「こんちわ」と言って店に入っていき、店主と世間話をしながら新規の注文へと話を持っていくのだが、一九八十年代なかばの不景気に加えて、安くて優秀な日本製のナイフの攻勢がすごく、アメリカのメーカーのナイフは売れない。自分の収入となる歩合が二十ドルにも満たない小さな注文を受け取って本社にレポートを書いたりしているうちに、レナードは解雇されて無職となる。

 メジャー・リーグ・ベースボールの熱心なファンであるレナードは、ホワイト・ソックスを応援している。そのホワイト・ソックスに、高額の年俸契約を結んで、ボビー・レイバーンという強打者が移籍してくる。嫌悪していた仕事すらついに失い、無職となったレナードは、応援するホワイト・ソックスの中心点をボビー・レイバーンに定める。熱心に応援し、ヒットや三振に一喜一憂する、というような段階をいくつも越えた、執拗と言ってもいいほどの執着的な関心を、レナードはレイバーンに注ぐ。

 シーズンが始まったとたん、高額の移籍が全米の話題となった強打者のレイバーンは、スランプのどん底にいる。打てないのだ。視力がおかしいのか、メンタルな動機づけに問題があるのか、などと対策を講じるのだが、結果はいっこうにあらわれない。レイバーンのスランプと、無職になってさらに転落していきそうなレナードとが、交互に描かれていく。レナードはかつて野球をやっていた。豪腕で鳴らした投手だった。リーグ戦で優勝する瞬間が、レナードの回想として、何度も物語のなかにあらわれる。AAAあたりにいたのだろうか、と思いながら読み進むと、リーグ戦での優勝という輝かしい思い出は、三十年以上も前のリトル・リーグの頃のものだとわかることになり、その部分は最高に悲しい。

 リトル・リーグとは言え、野球は野球だ。十二歳の少年にとって、そのリーグ優勝は、そこから上のない、問答無用の頂点だった。その優勝ピッチャーだったレナードは、それ以後の人生のあらゆることがうまくいかず、明らかに転落を始めている。転がり落ちる坂はさらなる急坂となるだろう、という自覚が頭のどこかにあるのだろう、いきなり大スランプに落ちたボビー・レイバーンに執着する、というかたちで彼に自分を重ねていく。

 執着はひとつの実を結ぶ。レイバーンの不調の原因を、レナードはつきとめる。これまで背番号がずっと41だったレイバーンは、移籍した新しいチームでは別の背番号になった。これが気になってしょうがない、というかたちと内容の執着が、レイバーンのスランプの原因となっていることを、レナードはつきとめる。41番という背番号はメキシコ系のチームメイトがつけている。金銭で譲ってくれ、と交渉して言下に断られたりする。レイバーンのスランプは続く。そしてそれに執着しているひとりのファンであるレナードは、41の背番号をつけているメキシコ系のプレーヤーを、筋肉を休めるために入っていたサウナのなかで、ナイフで殺してしまう。

 このあたりからのレナードの転落ぶりはすさまじいが、下流白人男性ならではの転落ぶりだから、それこそ彼の真骨頂であり、転落しつくしたところが彼にとっては頂点だ、とも言える。父親が残したナイフのうち、最後までとっておいた見事なボウイー・ナイフを、町の裕福なコレクターに買ってもらい、その代金でレナードは食いつなぐ。リトル・リーグで優勝したとき、キャッチャーを務めた男に、ほとんどそのとき以来の再会をする。これがまた転落にとっての、完全な踏みはずしに等しい、大きな段差として作用する。

 優勝キャッチャーだったかつての少年は、いまや社会のいちばん外側の縁の、さらに外へと出てしまった、犯罪の常習者のような日々を送っている。レナードが父親のナイフを売ったコレクターの邸宅に忍び込み、コレクションのナイフをごっそり盗み出す、という犯罪にレナードは成りゆきとして加担してしまう。このコレクターに買ってもらえなかった、父親の製作になる最後の一本は、ナイフ投げ用のナイフだ。これをレナードはいつもスラックスの下でふくらはぎに、ストラップで装着している。

 コレクターのナイフを盗み出す企みは失敗する。そしてその延長として、レナードはかつてのキャッチャーの愛人女性を、ナイフ投げで殺すはめになる。レナードのナイフ投げの腕前は、達人の域に達している。とめどのない転落を始めたレナードは、ついにはボビー・レイバーンが購入した、湖のほとりの豪邸の、庭の世話係に雇われる。投手としてのレナードの、打者としてのレイバーンに対する執着は、投打の対決となる。「俺も野球をやってたんだ。俺の投げる球を、打てるなら打ってみろ」と、庭の世話をする男からいきなり言われて、レイバーンはバケツ一杯の硬球を、レナードに投げさせる。レナードは投げる。そして一球残らず、湖面の遠くへ打ち返される。

 最後は試合のおこなわれている球場で、レナードの投げるナイフと、バットを持ったレイバーンとの対決になるが、そこにいたるまでの顛末は、多少の無理はあるものの、心の拠り所がただひとつしかない男が、そのひとつ失うとどうなるかという、寓話のように読める。ひとつしかない、ということの悲劇だ。

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出典:『Free&Easy』2006年8月号


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2018年1月24日 00:00
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