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「アンコモン・プレイセズ ザ・コンプリート・ワークス」

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 スティーヴン・ショアというアメリカの写真家について僕が初めて知ったのは、一九八二年版の『アンコモン・プレイセズ』によってだった。この写真集を東京の洋書店の売り場で見るまで、僕はスティーヴン・ショアの存在を知らなかった。書店の店頭で現物を見て心の底から驚き、会計のところへ持っていき、これをください、と言って買ったのだ。いまにくらべるとその行為の素朴さにおいて、途方もなく遠い昔のことのように思える。裏の見返しに価格が鉛筆でいまも書いてある。九千六百円だった。

 横が二十九センチ、そして縦は二十五センチという大きさの、横置きのハードカヴァーだ。写真集としては普遍的なサイズだと言っていい。その表紙のスペースのまんなかに、エイト・バイ・テンで撮った見事なカラー写真の複製が、エイト・バイ・テンよりもやや小さなサイズで一点、配置してある。写真の下には『アンコモン・プレイセズ』という題名があり、さらにその下に、「フォトグラフズ・バイ・スティーヴン・ショア」とある。

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 洋書売り場の棚の前で、この表紙を呆然と凝視した自分を、いまでも僕は自分のなかに呼び覚ますことが出来る。この風景を、アンコモン・プレイスと呼ぶのか、という思いはそのまま純粋に驚愕だった。アンコモンとは、普通ではない、平凡ではない、尋常ではない、そんじょそこらではない、非凡な、というような意味へと広がっていく。この風景が、非凡な風景であるとは。

 表紙に使ってあるこの風景の写真は、本文のなかにも収録されている。巻末にある撮影場所とその年月日のリストによれば、表紙の写真となったこの風景は、マサチューセッツ州ノース・アダムズという場所にある、ワシントン・アヴェニューだということだ。撮影されたのは一九七四年の七月だ。アヴェニューだからそこは道だ。町のなかの道と言っていい。両側に歩道があり、どちらの側でも歩道に面して建物が建っている。煉瓦造りの建物はかなりの年月をへている。一九三十年代くらいまで、たやすくさかのぼる古さではないか。

 建物はいくつもの店舗や事務所スペースだと思うが、盛業している雰囲気はどこにもない。ないどころか、打ち捨てられて久しい廃墟のように見える。そしてこのアヴェニューは画面のまんなかでほかの道路と直角に交差している。その道路から向こうには陽が当たっている。晴天の七月の午後だ。画面の左側にある建物も、二階から上は陽光を受けとめている。

 陽の当たっている道路には自動車が三台ある。どれもそこに捨ててあるものだと言われたら、なるほどそうか、と思うだろう。道のさらに向こうには空き地があり、空き地の奥は道路より少しだけ高く、そこに白い壁の建物が二、三軒ある。民家ではないように見えるが、人が住むための建物ではあるようだ。そしてその背後はきわめて平凡な低い山なみであり、山なみの上空は青い空、そしてその空には少しだけの雲が、白く淡い。

 風景のぜんたいを支配しているのは、どうしようもなくアメリカのものである、荒涼さをきわめた寂しさであり、その荒涼たる寂しさのあらゆる部分に、理由のない怖さを感じる。アメリカのいたるところにある、そしてその意味では、なにがどうということもない、平凡きわまりない風景だ。これを非凡な風景と呼ぶのは、それを写真に撮った写真家のほかにない。だとしたら非凡なのは風景そのものではなく、写真のほうではないか。そう思って表紙の写真をさらに凝視すると、それは完璧なまでに非凡なのだ。これはいったいなになのか。いまから二十数年も前に、一冊の写真集から受けた衝撃を、現在にいたるまで何度とも知れず、ページを開いては僕は反復した。

 自然光がその強度をもっとも高めるのは、晴天の日だ。だからスティーヴン・ショアの撮る風景は、ほとんどが晴天の下にある。風景は要するにさまざまな色であり、色はかたちをなしている。どの色もかたちも、写真にとらえられたものをよく観察すると、名状しがたく微妙で陰影に富んでいる。晴天の下にある空間がエイト・バイ・テンに切り取られ、そのフレームの内部で、あらゆる色とかたちが複雑に共鳴し共振し、それが僕なら僕の感覚の内部に入り込み、まったく新たな知覚の扉を開いてくれる。『アンコモン・プレイセズ』というタイトルにあるアンコモンとは、そのような意味だったのか。

 アメリカのどこにでもあるような風景を、晴天の光の下で、エイト・バイ・テンのフレームのなかに完璧な構図でとらえ、このアングル、この範囲、この深さ、この光の色、という絶対にして絶妙なタイミングも正確に、スティーヴン・ショアはシャッター・ボタンを押す。光となった風景はレンズをかいくぐり、フィルム面の乳剤の内部へ、化学変化として入り込む。それをさらに現像という化学変化を経由させて、写真は出来上がる。さきほど書いたとおり、これはいったいなになのか、という驚愕の念とともに、僕はその写真を見る。まったく新たな知覚が、僕の内部に、その写真によって呼び覚まされる。呼び覚まされた新たな知覚は、ありふれた平凡な風景の、見かけの上での陳腐な凡庸さの奥へ、僕の思考を深く導いていく。平凡きわまりない風景を、主観などいっさい削除した科学としての写真に転換すると、その写真のなかに見えてくるものはなにか。僕にその答えはまだない。

 一九八二年に刊行された『アンコモン・プレイセズ』は、このような写真をアメリカじゅうを旅して撮影する、というプロジェクトのもとに撮影された写真から、四十九点を選んで構成されたものだった。プロジェクトのなかで撮影された写真すべてを収録した、決定版とも言うべき『アンコモン・プレイセズ』が、二〇〇四年に刊行された。一九七三年から一九八一年まで続いたプロジェクトによる、コンプリート・ワークスだ。評論家による解説文のほかに、リン・ティルマンとスティーヴン・ショアとの対談が収録されている。評論する人と撮る人との差は、平行線をたどる対話によくあらわれていて興味深い。ティルマンはひとつだけ面白いことを言っている。ウォーカー・エヴァンスは外部化されたアメリカの貧困を写真に撮ったが、あなたの写真には内部の貧困ないしは虚ろさが撮られているように見える、という発言だ。

 平凡でありきたりの風景を、主観なしの写真に移し換えると、その風景は普遍のようなものとなり、その写真を見る人の平凡さや陳腐さと、共振や共鳴を始めるのではないか。この写真に撮られているこの風景とは、いったいなになのか、と深い驚愕とともにその写真を見る人は、その風景のなかに、自分とはなにか、という問いに対してなされ得る、もっとも答えに近いものを、見ることになるのではないか。自分とはなにか、という問いに答えはないとされているが、核心にもっとも近い答え、というものはあり得るはずだ、と僕は思う。僕とはなにか、という問いに対するいくつもの答えを、僕は『アンコモン・プレイセズ』に収録された写真のなかに、見ているのではないか。いまのところ、そうとしか言いようがない。

出典:『Free&Easy』2006年4月号


『Free&Easy』 写真集 本を読め
2018年1月15日 00:00
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