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フィクション 1

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「お酒を一杯だけ、つきあってほしいの」

 と、彼女は、電話のむこうで言っていた。

 長距離電話のような、遠い声だった。

「今日の夕方の、時間のご都合は、どうかしら」

 と、彼女は、きいた。

 彼女の質問に、ぼくは、微笑した。ぼくの時間の都合など、どんなふうにでも変えることができる。

「時間は、いくらでもあります」

 ぼくは、そうこたえた。

「お忙しいのでしょう、ほんとうは」

 彼女が、言った。

「いくらでも都合はつきます。時間なら」

 ぼくがかさねてそう言うと、

「お酒を、一杯だけ」

 と、彼女は、くりかえした。

「一杯でも、二杯でも」

「一杯でいいのよ」

「では、一杯だけ」

「七時には、東京についてるわ」

 と、彼女は言った。

 彼女は、いま、新幹線に乗っているのだという。ついさっき、京都を発車したところだそうだ。

「七時三十分くらいに、会おうか」

「そうね」

 八時のほうがいい、と彼女は言った。東京駅に着いたらすぐにオフィスへまわり、かたづけてしまわなくてはいけない仕事がほんのすこしあるのだ。彼女は、ぼくとは比較にならないほど多忙だ。

 夜の八時に落ち合う場所を、彼女のほうが指定してくれた。京都を出たばかりの新幹線からの電話は、そこで終った。

 八時ちょうどに、ぼくは、約束の場所へいった。落ち着いて静かに話のできる、カクテル・ラウンジだった。彼女は、すでに来ていた。たったいま、席についたところだという。

 ぼくたちは、乾杯した。なんのための乾杯にするべきか、ぼくたちは、いくつかのアイディアを出しあった。結局、彼女の美しさに乾杯しよう、ということになった。

 一杯だけ、と彼女は言っていた。ほんとうに、一杯だけだった。

 なぜ一杯だけなのかということについて、彼女は説明してくれた。

 彼女はいま、ごく軽症の不眠症にかかっているのだという。今夜はお酒を飲まなくては眠れないのではないだろうか、という思いが頭をもたげて来て、自分の気持をかなり大きく支配してしまうことがあり、そのようなときにお酒を飲まずに抵抗していると、ほんとうに眠れなくなるのだそうだ。だから、あらかじめ一杯だけ飲んでおくと、お酒を飲んだからもうだいじょうぶだ、と気持が落ち着き、なんとか眠れるようになる、と彼女は説明した。

 彼女は、仕事がたいへん忙しい。自分の大好きな、たいへん情熱的になれる仕事だからいくら忙しくてもいいのだが、やはり限度というものがあるようだ。それに、彼女は大きな責任のある地位にいて、仕事のうえでの緊張感は相当なものなのではないかと、ぼくは想像する。

 一杯だけのお酒の夜から一週間おいて、ぼくはまた彼女に会った。金曜日の夜、十時だった。ぼくも彼女も夕食を食べそこなっていたから、ふたりで軽く食事をした。

 そのあと、彼女を車で自室まで送っていくことになった。ぼくは、友人から借りた四輪駆動のキャンパーに乗っていた。ベッドのある内部を見せると彼女は面白がり、ベッドに横になった。

 このまま眠ってしまいそうな気がする、と彼女は言い、ぼくはベッドに彼女を横たえたまま、彼女の自室にむかってキャンパーを走らせた。

 彼女が住んでいる部屋のある建物の近くまで来て、交差点で信号待ちをしているとき、ぼくは、彼女が眠ってしまっていることに気づいた。

 寝姿や寝顔を見ていると、眠っている彼女を起こす気にはなれなかった。だからぼくはそのままキャンパーを走らせつづけ、東名高速にあがり、彼女が八時間ぐっすり眠って目を覚ますまで、夜のなかをひた走った。

 目覚めた彼女は、びっくりしていた。高速国道を次のインタチェンジで降りたぼくたちは、もよりの見知らぬ町へいき、そこのホテルに投宿した。

 ぼくはさすがにくたびれて眠かったので、シャワーを浴びてベッドに入った。ひと眠りだけつきあってくれよ、とぼくが軽い冗談のように言うと、美しい彼女はものすごく清楚に、したがって色っぽく服を脱ぎ、ぼくのいるベッドのなかに入って来てくれた。というようなフィクションを、ぼくは、酒を一杯だけ飲みながら、日記がわりに書いている。

底本:『すでに遥か彼方かなた』角川文庫 一九八五年

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『すでに遥か彼方』 フィクション 彼女
2017年9月20日 00:00
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