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パリから一通の封書が届いた

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 もう何年もまえに東京からニューヨークへいってしまい、いまでは主としてニューヨークとパリで忙しく仕事をしているひとりの女性がいる。彼女はぼくよりも年上であり、ぼくは彼女にとって、あまり出来のよくない弟のような存在だ。彼女が東京にいるときには、ぼくは彼女にいろんな心配をかけたし、彼女は親切にも、本当の姉のように、ぼくの面倒をさまざまに見てくれた。

 一年に一度くらいなら会うことも出来るし、手紙のやりとりも可能だ。遠く離れている、という感覚はおたがいにないけれど、忘れているときにふと手紙が届いたりすると、急激に懐かしい思いにかられる。

 ある年の春、パリの消印で、彼女からぼく宛てに、一通の封書が届いた。白い端整な、すこし小さめの、きれいな封筒だった。その封筒のなかには、一枚の紙が入っていた。彼女がいつも使っているバインダー式の手帳から、ぼくの誕生日である三月二十日のページだけを、はずしたものだった。

 裏は三月十九日であり、おもての二十日とともに、英語とフランス語とで、細かなメモが、彼女の筆跡で、縦横斜めにびっしりと書きこんであった。人に会う予定、いくべき場所、買うもの、ちょっとした思いつき、新聞で読んで心にとまったワン・センテンスなど、いろんなことが書いてあった。雑記帳のかわりにいつも使っている手帳の雰囲気は、充分に出ていた。

 三月二十日のページをバインダーからとりはずした彼女は、二十日のページの片隅に、「あなたの誕生日に、あなたのことを思っています」と、それだけは日本語で、書きそえていた。誕生日のカードのかわりに、彼女は、自分の手帳からぼくの誕生日のページをはずし、その短い日本語を書き添え、封筒に入れて送ってくれたのだ。

 深い感銘とともに、ぼくは、その一枚の小さな紙を、飽きることなく眺めた。書きこんであることのひとつひとつを、ぼくは何度も読んだ。彼女の生活の、ほんの一部分が見えたように、ぼくは思った。この一枚の紙を、ぼくは大切にしていた。しかし、いまはもうない。なにかの本のあいだにはさんだまま、それがどの本だか忘れてしまい、捜してもみつからない。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 一九九六年

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2017年9月14日 00:00