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猫の寝る場所

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 猫の多江子は、突然、目を覚ました。いつもの癖だ。気持ちよく眠っているその眠りのちょうどまんなかあたりで、多江子は、いつも突然、目を覚ます。夢を見ていて、その夢のまんなかで目を覚ますこともあるが、いまはなにも夢を見ていなかった。

 目を覚ました多江子は、気持ちよかった眠りの余韻を体ぜんたいに感じながら、ゆっくりと立ちあがった。あたりを見渡した。部屋のなかは、暗かった。自分を飼ってくれているこの家の、ご主人の書斎のような部屋の片隅にある、ひとりがけのソファの上で眠っていたことを、猫の多江子は、思い出した。ご主人は、日曜日の午後、このソファにすわり、ショパンの二十四のプレリュードを聴いたりする。

 多江子は、きわめて身軽に、ソファの上からフロアに飛び降りた。部屋のなかをゆっくりとひとまわりし、半ば開いたままのドアから、廊下へ出ていった。

 廊下の天井には、明かりがともっていた。廊下は、まっすぐにむこうにむけて、のびていた。畳の敷いてある大きな部屋をへて、そのむこうは人工芝のあるバルコニーだ。廊下は、静かだった。廊下に面して、この家のふたりの男の子、ケンイチとユージの、それぞれの部屋があった。どちらの部屋のドアも、開いていた。なかは暗く、男の子たちはとっくに寝入っていた。

 廊下のこちら側の端にある階段を、多江子は、降りていった。多江子という名前は、この家の奥さんがつけてくれた。うちには男の子しかいないので、女の子の名前を呼ぶチャンスがない。この雌猫に女性の名をつけておけば、家のなかで女の子の名を呼ぶことが出来て楽しい、と奥さんは言い、多江子という名前を猫につけた。多江子に子猫が生まれるならそれは雌猫であり、二匹生まれるはずだと、奥さんは勝手にきめていた。その二匹の子猫の名も、すでにきまっていた。多江子から「江」の字をとり、澄江と菊江なのだそうだ。

 一階へ降りた多江子は、玄関をしばらく観察したあと、廊下を奥にむけて歩いていった。左側に、応接室のドア。そして、右側に、トイレット、納戸、浴室と、ドアが三つ続いていた。浴室のドアだけが、開いていた。

 多江子は、浴室に入ってみた。廊下からの明かりと、化粧台の隣りの窓からの明かりが、ほのかに重なりあっていた。

 化粧台に、多江子は、飛び乗った。なにも意味はない。ただ飛び乗ってみたかっただけだ。石鹼を置く皿に近づいた多江子は、なかば透明な緑色の石鹼に顔を近づけ、その香りをかいでみた。誰もが寝入ってしまった夜遅く、ひとりで石鹼の香りをかぐのが、多江子は好きだ。

 こんどの日曜日は、お風呂に入れてもらえるかなと、多江子は思った。奥さんは爪を立てて力まかせに洗ってくれるけれど、ご主人は、優しくもみほぐすように洗ってくれる。そしてそのあいだずっと、いろんなことを語りかけてくれる。多江子は、奥さんと風呂に入るよりも、ご主人と風呂に入るほうが好きだった。

 石鹼の香りをひとしきり楽しんでから、多江子は、化粧台から飛び降りた。かつて、一度だけ、石鹼を食べてみたことがあった。香りに反して味はまずく、しかも朝まで口のなかにその味が残り、多江子は閉口した。

 寝室のドアが、やがて左側にあった。奥さんとご主人のベッドのあいだに、多江子は、入ってみた。ふたりとも、なにも知らずに眠っていた。

 ご主人のベッドの足もとの隅に自分が飛び乗ると、そのときのかすかな振動に、ご主人はかならず寝返りを打つ。ひとつやってみようか、と多江子は思った。しかし、今夜はやめておくことにした。

 寝室を出た多江子は、居間に入ってみた。居間の明かりは、消えていた。庭に面した大きなガラス戸には、すべてカーテンが引いてあった。そのカーテンの陰に、多江子は、するりと入りこんだ。カーテンとガラス戸とのあいだを、ゆっくり、歩いてみた。

 夜の庭が見えた。空には月が出ていた。月の光を、庭とともに、多江子も、全身に受けとめた。

 庭を、多江子は、しばらく観察していた。なにごとも起こらなかった。カーテンの下からこちら側へ出て来た多江子は、居間のむこうの壁の手前に、なにかがあることに気づいた。そこまで、多江子は、歩いていった。

 この家のふたりの男の子たち、ケンイチとユージの、野球のグラヴふたつとボールがひとつ、置いてあるのだった。ひとつはキャッチャーズ・ミット、そしてもうひとつは、外野手のグラヴだった。ボールは、そのふたつのグラヴのあいだに、転がっていた。

 白いボールで、多江子は、ひとしきり遊んだ。突き飛ばすとボールはむこうへ転がり、爪を立てて引き寄せると、こちらへ転がって来た。

 はじめにあった場所まで、ボールを鼻の頭で押していった多江子は、大きなあくびをひとつした。また眠くなってきた。ふたつのグラヴを見くらべた多江子は、キャッチャーズ・ミットのなかに体をはめこむようにして、うずくまった。

 体の位置を決めると、ミットの内部に抱きこまれたようで、たいへんに快適だった。こういう寝場所もあったのかと、ひとりで感心しながら、多江子は、すぐに眠った。

 眠った多江子は、今度は夢を見た。夢のなかで、自分は、野球のボールになっていた。ケンイチとユージが庭でキャッチ・ボールをするときの、そのボールだ。

 ケンイチのキャッチャーズ・ミットから、ユージのグラヴへ、そしてその逆に、ユージのグラヴからケンイチのキャッチャーズ・ミットへ、ボールになった多江子は、何度もくりかえし、空中を飛んだ。

 ボールになって空中をやりとりされるのは、快適な感覚だった。空を仰げば広い空間のただなかを遊泳しているようであり、庭を見下ろすと、空から吊り下げられて移動しているようだった。

 空中を飛んでいくのも快適なら、ふたりのグラヴに交互におさまるときもまた、この上なくいい気持ちだった。グラヴにおさまっては空中を飛び、空中を飛んではグラヴにおさまるという、ふたとおりの気持ちよさを、猫の多江子は、夢のなかで体験した。庭の一方の端から他方の端へ、多江子は、くりかえし何度も、飛んだ。

 そして、あるとき、多江子は、空中で突然、止まってしまった。庭のまんなかの空中に浮いたまま、どちらへも動かず、身動きがとれなくなった。

 これは困った、大変だ、どうしよう、と思って両手両足で必死にもがくと、その瞬間、目が覚めた。

 眠っていると、いつも、そのまんなかで、猫の多江子は目を覚ます。キャッチャーズ・ミットからゆっくりと出て来た多江子は、今度はどこで寝ようかと、暗い居間を横切りながら、ひとりで考えた。

底本:『きみを愛するトースト』角川文庫 一九八九年

今日の1枚:『吾輩ハ猫デアル』夏目漱石(1905年)

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『吾輩ハ猫デアル 上編』ジャケット下絵(Wikimedia Commonsより)

「吾輩は猫である。名前はまだ無い」の書き出しで知られる夏目漱石の最初の小説は、夏目家の飼い猫をモデルとして書かれた。その猫が1908年9月13日に死亡したことを、門下生に宛てたハガキ(新宿区立漱石山房記念館収蔵)が伝える。


『きみを愛するトースト』 部屋
2017年9月13日 00:00