アイキャッチ画像

明日への希望は社会の財産

縦書きで読む

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 一九六二年に公開された日活映画『キューポラのある街』で、若い女優としてまず最初の頂点をきわめた頃の吉永小百合をめぐって、スクリーンに投影される彼女のイメージとして大衆がもっとも歓迎したのは、彼女の全身、その一挙手一投足、あらゆる表情そして声など、どこからでも、どんなときにも発散されてくる、賢さのイメージではなかったかと僕は思う。怜悧さ、賢明さ、明敏さなど、賢さという多面体がなんの無理もなしに彼女には常に宿っていて、彼女から他者に向けてきらきらと放射されていた。

 人生という日常のなかで次々に目の前や周辺に立ちあらわれるいろんな問題を、現実が持つ凹凸のひとつひとつに沿いながら、これをこちらへいなし、あれをあちらへうっちゃりしては、なんとかつじつまを合わせて今日を明日へとつないでいくにあたって、そのような日々を生きる人の誰にとっても、最終的にもっとも頼りになるのは賢さなのだということを、大衆は身にしみて知っていた。

 しかもその賢さは、映画でのデビュー作から『キューポラのある街』までの彼女に沿って言うなら、十代のようやくなかばあたりから、高校の卒業が間近であるという十七歳くらいまでの、目のくらむような若さのなかに、早くもほとんど完成したかたちで宿っていた。全方位的な賢さだから、強引だったり鋭すぎたり、あるいは高飛車だったりすることが、まったくなかった。したがって彼女の賢さには誰もがたちまち説得され、心からの賛同のうちに、賢さに巻き込まれてしまうのだった。

 子供の幼さとは決別しているが、大人の俗世間にはまだまったく染まっていない、年齢的にも内容的にも文句のつけようのない、理想的なありかたの賢さだ。その賢さから出て来る言葉つまり台詞には、澱みや陰り、妙に屈折したところ、厭味なもの、変に影のある部分などが、見事に皆無だった。くっきりと曇りなく明晰で純粋な言葉は、晴々とした直線を経由して、劇中の人々に届いた。理想主義的な硬さなどどこにもなく、現実が持たざるを得ないさまざまなニュアンスつまり個々の事情を、彼女の言葉はけっして裏切らなかった。自分の利益に照合して人をいちいちはかりにかけるうっとうしさを毎日の現実として生きている大衆にとって、彼女が体現した賢さとその言葉は、切実に理想的だった。

 体の造形にも、これは持って生まれた偶然でしかないのだが、それを構成する各要素の理想的な配分があった。よく見れば小柄だし、女優として不利な部分を列挙するのは簡単だが、ひとまとめにぜんたいとして、少なくとも一九六〇年代の日本では、背丈は高からず低からず、ちょうどいい愛らしさのきわみだった。なにかといえば女に居直る、不毛で面倒くさいだけの重さがどこにもなく、印象は明らかに軽快であり、スクリーンに彼女を観る人たちにかすかにせよ不安感をあたえるような、偏っているがゆえの妙な切れ味といったものとは、まったく無縁だった。どんな場面であれそれを観る観客にあたえた根源的な安心感の中心に常にあったのは、彼女のこのような体つきだったと思う。

 顔の造作とその表情の範囲そして声も、体と切り離すことのできない独特なものだった。それまでの若い女優の誰もが持っていた、女であることの重さのようなものと、ほとんど無縁の顔と声だ。従来どおりの女の重さをたたえた女優が、従来どおりの価値観を無理なく表現することができたとするなら、吉永小百合の場合は確実に女ではあっても、従来どおりの女が自動的に持つ、すっきりしないわずらわしい旧弊から、完全に自由だった。それでいて、文句なしに平凡な地平のまんなかに、いついかなる場合でも、彼女はなんの無理もなく立つことができた。

 従来どおりの女と、従来などまったく関係ない女とのあいだに、明確に引かれた一線を想定するなら、女優、吉永小百合は、その線の上にいた。それまで綿々と継承されてきた日常のなかの女というものに対して、経済の高度成長期にあった日本の大衆は、縁を切りたい気持ちを相当に強く持っていたのではないか。スクリーンの上の吉永小百合を僕が評価するとき、もっとも高く評価するのは、従来どおりの女はそこにいない、という事実だ。

 彼女は可愛いらしい丸顔だと思っている人は多いと思うが、顔の作りは印象以上に鋭角的であり、鋭さを超えて冷たさを感じる場合も多い。彼女に影があるとしたらこの部分だろう。気づいて使いこなした監督がいるだろうか。声は噓を許容しない不思議な性質のものだ。専門的な厳しい指導をおそらく受けなかったおかげで、声にはいまも幼さが残響する。そのことが上げる効果は、言っていることには噓も無理もない、という印象を観客の心に確定させることであり、そのような声に託された台詞が、前方に向けてまっすぐにのびていく様子を、観客は何度も確認しては安堵したはずだ。

初出:『週刊昭和』朝日新聞出版 2009年3月10日
底本:『ピーナツ・バターで始める朝』東京書籍 2009年


1960年代 『ピーナツ・バターで始める朝』 吉永小百合 彼女 映画
2017年8月25日 00:00
サポータ募集中