アイキャッチ画像

『東京五人男』一九四五年(昭和二十年)

縦書きで読む

Share on LinkedIn
LINEで送る
Pocket

 一九四五年の七月、日本に対して連合国側から、降伏してはどうかという勧告があった。ポツダム宣言だ。日本の海軍は戦争の終結を望んでいた。陸軍は本土決戦を唱え、首相はポツダム宣言に対して、ただ黙殺するだけだ、という態度を取った。黙殺するだけだ、という乏しい言葉でさまざまな意味が相手に伝わるのは、日本語を母国語として共有している人たちの、日本国内だけだ。国外、つまり国際社会に出たとたん、黙殺するだけだというひと言は、戦争の続行にかける強い意志の表明として、解釈される。

 八月六日に広島、そして九日には長崎に、原爆が投下された。前代未聞の、そして少なくとも現在のところは空前絶後の、人類史上特筆すべきすさまじい出来事を体験したあと、日本は天皇制の存続を条件に連合国に対して降伏した。

 八月二十八日には連合軍の部隊が厚木飛行場に到着した。三十日には連合軍の最高司令官であったダグラス・マッカーサーが、厚木に到着した。連合軍の総司令部GHQが最初に設けられたのは、横浜のホテル・ニューグランドだった。マッカーサー元帥が厚木に降り立つところから、横浜に向けて連合軍の部隊が移動していく様子を、たとえば『マッカーサーとその時代』(文春ノンフィクションビデオ)というようなヴィデオのなかで、カラーのフィルムによる映像として見ることが出来る。

 厚木から横浜へとつながる、当時のあのあたりの道路を、まだ夏の強さを充分に残している陽ざしが照らしている。道路とその周囲の土の色、そして道路の両側にせまっている木々や草あるいは畑の緑の色が、カラー・フィルムのなかで強く発色している。あるいは、褪色し始めたフィルムのなかで、そのような色が強く残っている。この土の色と緑の色はどこかで見たことがある、と僕は思った。どこでだったかずいぶん考えたすえ、思い出した。ヴェトナム戦争の報道に当時のアメリカが使ったカラー・フィルムにとらえられた土と緑の色に、よく似ているのだ。

 九月二日、東京湾に停泊していたミズーリ号というアメリカの戦艦の甲板で、日本は降伏文書に署名した。八日にはアメリカ軍が東京に進駐した。そして九日には、連合国側がこれから日本をどのように管理していくかに関して、基本的な方針が発表された。日本政府を介した間接的な統治であり、その統治に関する最高の権限はGHQつまりマッカーサー元帥にあることとなった。

 日本の映画館はアメリカ軍の空襲で五百十三軒が焼失し、八百四十五軒残ったという。ごく基本的な資料である『戦争と日本映画』(岩波書店)を読みながら、僕はこの部分を書いている。八月十五日から一週間は、全国の映画館が上映を休んだそうだ。映画会社では多くの人材を軍人にとられていた。軍人あるいは報道の関係者として、彼らは戦場へいっていた。残った数少ない人たちが、戦争末期のひどい状況のなかで、細々と映画を作っていた。ごく一例をあげると、『ハワイ・マレー沖海戦』の山本嘉次郎監督は、千葉の館山で『アメリカようそろ』という戦意高揚映画のロケーション撮影をしていた。その途中、日本の降伏によって戦争は終わった。撮影ずみのフィルムは焼き捨てたということだ。黒澤明監督は、製作途上だった『虎の尾を踏む男達』の製作を続け、完成させた。しかしこの作品は、一九五二年になって初めて公開された。

 製作途中だった映画について読んでいく僕は、映画界の人たちの、逞しく素早い便乗精神のみごとなまでの一例を見つけた。敗戦を知った京都のマキノ雅弘は、京都でジャズ・バンドのための楽器を買い集めた。そして東京の松竹本社から、楽器のない楽士たちを何人も京都へ呼んだ。大道具、小道具、照明などの専門家たちを使って、マキノはスケートリンクを五日間でダンス・ホールに改装し、女性を三百人も集めてダンスを教え、開店にそなえた。九月十九日、アメリカ軍は京都へ進駐した。マキノが発想して実現させたダンス・ホールは大当たりとなり、たいへんな収益をあげたという。

 敗戦したあとの日本は、その全体が、占領軍の指示待ちの状態にあった。映画の世界もそうだった。戦争中に製作していた、しかし戦後の情勢にとってさしつかえないと判断した作品を、松竹と大映は、敗戦の年の八月の終わりから九月にかけて公開した。戦後に自主的に企画されて実現した最初の娯楽映画は、『そよかぜ』という作品だ。十月十一日に封切られた。

 この作品を僕は昨年ヴィデオで見た。別の視点からほかの本に詳しく書いたので、重複は避けたい。ごく簡単に印象を書いておこう。素朴と呼ぶべきか幼稚と言うべきか迷っていると、やがてその中間に浮かんで来る、不思議なあるいは奇妙なという言葉を冠したくなる作品だ。仲間どうしの助け合いを土台とした、勤労精神を肯定する内容の映画だ。そして僕にとってずっと謎だった『リンゴの歌』の秘密が判明した。

 いくら大敗戦後とはいえ、リンゴがどれほど可愛くても、ただそれだけで日本の人たちがこの歌をヒットさせるわけがない、とかねてより僕は思っていた。あれほどのヒットになったからには、そのことにかかわる秘密がどこかにあるはずだ。判明したその秘密はどのようなものかと言うと、この歌は明るい明日を前提とした勤労労働歌だ、という発見だ。戦争のための勤労は、復興のための勤労となった。世界がどう変化しようとも、勤労だけはなんら変わることなく続いていく。『リンゴの歌』はそのことの国民的な確認だった。

 GHQは横浜から東京・日比谷の第一生命の建物に移った。日本の政府がおこなう敗戦後の日本の政治のすべては、GHQの意図に沿ったものとなった。GHQのなかには、すぐあとに民間情報教育部とあらためられた情報頒布部という部署があった。ここが日本の文化のすべてを管理することになった。新聞、出版、放送、音楽、演劇、映画、学校教育など、文字どおりすべてだ。この民間情報教育部に映画演劇課があり、日本の映画はこの課の指導と管理のもとに置かれた。

 九月二十二日、映画界のトップや幹部たち四十数名が招集され、これからの日本映画に関してGHQが望んでいる基本方針の説明を受けた。ひと言で言うなら、これからは絶対に自由と民主とを旨とせよ、ということだった。この基本方針は、もう少し具体的に細かく十項目にわたって展開され、日本の映画界に命令的に提示された。

 映画法その他、戦争中に日本政府が映画界を縛った法規や条例などすべてが、十月十六日、GHQによって無効とされた。議会で議決された法令は、無効になるにあたっても議会の議決を必要とした。だから映画法は、その年の十二月に正式に無効となった。GHQの管理下ではあったが、日本の映画界は自由のなかに戻された。映画演劇課の課長を務めたデイヴィッド・コンデという人物の名が、どの資料のなかにも登場する。どちらかと言えば単純なほうに属する、しかし熱心な善意の人だったようだ。先にGHQが提示した十項目を、コンデはもっと指示を短く具体的に直し、十三項目にして日本の映画界に提示した。

 ある日を境にして突然、今日から自由と民主を旨とせよと命令されても、自由や民主について教えられて来なかった日本の人たちには、なんのことだかわからなかったのではないか。さらには、自由と民主を映画に取り込めと命令されても、いったいどうすればよいのか、これも見当すらつかない状態ではなかったのか。もしすぐにそのようなことが出来る能力を日本の映画界が持っていたなら、戦前から戦中へという時代のなかで作り出した映画は、もっと違ったものになっていたはずだ。戦前戦中は軍国主義に取り込まれていた事実は、戦後は単純な娯楽映画しか作ろうとしなかったことへと、まっすぐに連結されている。

 戦争をめぐる問題に関しても、映画界は興味を示さなかったようだ。これもまた、いきなりそんなことを言われても困る、という領域の問題なのだろう。それにGHQが命令した自由と民主とは、敗戦までの日本と照らし合わせて考えると、革命と呼んでいい根本的な大改革だ。下地のほとんどないところで、たとえば勤労者たちを自由と民主へ単純に駆り立てると、その方向は左翼的と解釈されたようだ。単純なコンデ課長はまさにそうなってしまい、一九四六年の七月に彼はそれまでの職を解かれた。

 天皇の戦争責任を追及する内容の、『日本の悲劇』という記録映画が、GHQの検閲を通過して許可され、製作された。GHQの許可を受けるためには、企画書と脚本の両方を英語に翻訳して提出し、検閲をとおらなくてはならなかった。『日本の悲劇』は完成し、上映された。そして上映中のフィルムをGHQは没収してまわった。吉田茂首相がGHQに頼んでそうしたという説がある。日本で左翼的なものが強くなっていくのを、アメリカは厳しく警戒し許さなくなっていた、ということだ。

 GHQから命令された十項目あるいは十三項目は、占領中もそして占領が終わってからも、日本の映画界にとっては真剣な関心の的にはならなかった。こういうことを真剣には扱わない姿勢を、そのときどきの現実に即して維持していくことをとおして、日本の映画界はいわゆる戦後とそれに続いた時代に存続し得た。

『東京五人男』という娯楽映画は、敗戦の年の秋に企画され、秋が少しずつ深まって吐く息が白くなる季節に撮影され、年末から正月映画として公開された。どの資料を読んでも書いてあることだが、デイヴィッド・コンデ課長はこの作品をもっとも喜んだそうだ。

 軍事徴用でどこか遠いところへ働きにいくことを命令されていた五人の男たちが、敗戦となって徴用を解かれ、東京へ帰って来る。古川緑波ロッパ、横山エンタツ、花菱アチャコ、石田一松、柳家権太楼が、その五人を演じている。いちおう筋道のとおったストーリーを持つコメディだ。お笑いの寸劇が連続しているような作りのこの映画を見て、敗戦の年の暮れと次の年の正月の観客たちは、大いに笑ったのではないかと僕は想像する。

 富士山を背景にして、蒸気機関車に牽引され、汽車が走っている。絵のような景色だ。その汽車のなかは満員だ。敗戦からかなりの期間にわたって続いたという、当時ならではの満員だ。この満員のなかに五人男たちがいる。

 東京、と白く文字が出る画面に横へのパンで映し出されるのは、瓦礫しか残っていない焼け野原だ。『愛国行進曲』のメロディがふと重なったりする。素人が建てたいわゆるバラックが、焼け野原のなかにある。そのバラックのなかでは、合同の慰霊と読経がおこなわれている。徴用されてまだ帰って来ない男たちの弔いを、残された妻たちがおこなっているのだ。そこへ男たちが帰って来る。緑波の演じている古川六郎という人物と、柳家権太楼の北村権太のふたりには、妻はいない。ほかの三人には、それぞれ気の強く行動力のある妻がいる。

 さて、これからの生活をどうするか。あたり一面は焼け野原だし、住んでいる家はいまにも倒れそうな小屋だ。仕事はない。服も食料も、なにもかもない。なにもなくても、そのなかで毎日の生活をなんとか維持していかなくてはならない。そのためには、いったいどうすればいいか。現実はおそろしく大変だったはずだが、『東京五人男』では、ここからどたばた喜劇が始まる。

 アメリカ軍による空襲を受け、焼けるものはすべて焼きつくされ、壊れるものはすべて破壊され倒壊し、瓦礫だけが残った焼け野原のことを、日本語の通例では焼け跡と呼ぶ。その焼け跡では、坪当たり何人の人たちが、直接にあるいは間接に、命を落としたか。そういう人たちの落命の跡地が、焼け跡なのだ。その焼け跡を見渡しながら、手を取り合ってこの町を復興しよう、と五人男たちは言っている。

 口で言っているだけではなく、実行しよう、と彼らは言う。俺はまず自分の家を建てるんだ、とひとりが決意を述べる。しかし彼らは、そのような実行の日々を送るのではなく、最後まで家は建たない。彼らがたどっていくコメディのストーリー・ラインは、隠匿物資とその正しい再配分をめぐるものだ。このストーリーに、彼らはかたわらから巻き込まれていく。

 隠匿物資とは、戦中戦後の社会世相史を読んでいると、しばしば目にする言葉だ。読んで字のごとく、隠匿された物資のことだ。戦争へ急傾斜していく時期の戦前、そして戦中には、戦争に向けてエネルギーも物資も、極端に集中させられていた。一般の生活を維持していくための物資は、当然の結果として不足した。ほんとになかったから不足していたという事実の裏には、配分のしかたに問題があり、それゆえに、いき渡るべきものが隠匿されて不足していた、という事実も見るべきだろう。

 本来なら市民の手に渡るべきさまざまな生活物資は、権力やコネクションのある人たちによって、私的に大量に隠匿された。それらの物資は闇のルートへ流れていき、彼らの巨大な利益となった。このような戦中の隠匿物資と、敗戦直後からの隠匿物資の両方が、この喜劇映画の物語を支えるもっとも大きな柱となっている。敗戦直後の日本、特に東京のような場所では、乏しい生活物資は配給という制度をとおして、市民に渡ることになっていた。生活の基本となるべき最低限の物資は、すべての人に平等にいき渡るように、という意図だったのだろう。

 配給システムの描写として、桜ケ丘総合配給所と、桜ケ丘国民酒場のふたつが登場する。東京のどことは特定されていないが、瓦礫しかない焼け跡の広がる、あるひとつの地域として、曖昧にではあるが想定されているのだろう。近くには電車が走っていて駅がある。その駅も桜ケ丘という。疎開していた学童がその電車に乗って帰って来る場面がある。電車が駅に停まると、いかにも車掌のような声で、「さくらがおかあ、さくらがおかあ」と聞こえる。まさか渋谷の桜ケ丘ではないだろう、と思うのだが。

 総合配給所は、一般市民の生活の上にも網のようにかぶさっていた、官僚による管理組織の最末端のひとつだったはずだ。その配給所の様子が、この映画のなかに戯画的に再現してある。戯画的な再現とはいえ、当時の現実の生活はまさに配給で物資をもらう生活だったのだから、少なくともこの戯画はかぎりなく現実に近いのだ、と僕は理解した。

「本日の配給。大根一人十斤。九時より。十一組から二十五組まで」と、配給所の壁の黒板にチョークで書いてある。ひとつの配給所が受け持つ地域は、いくつかの組に分かれていたらしい。すべての組に対して同時にではなく、いくつかの組ごとに、配給はおこなわれていたようだ。

 配給所の外には、大根をもらうために、人々が列を作っておとなしく待っている。もうあんなにたくさんの人が待っているのですから、早めに配給を始めましょうよ、と石田一松の所員が言うと、まだ五分ある、と所長は答える。所長のデスクの背後の壁には、その高いところに額が掛けてある。「能率第一。時間厳守。量目正確。迅速丁寧」などという美しい建前が額のなかに毛筆で書いてある。

 配給が始まる。もらう人ごとに紙きれを所員に渡している。所員はそれを見て品物を渡す。「十三所帯、女七人、五日分」などと所員は言う。コメディの台詞としての、おそらく意味のないでたらめなのだろう。大根の土を落として重さを計ろうとする所員に、土はつけたまま計れ、と所長は命令する。配給所のなかには、芋を詰めた俵がいくつも積み上げてある。もう腐り始めてるじゃないですか、いつ配給するの、と近所のおかみさんに言われて、まだ指令が来ていない、と所長は答える。真冬に蚊とり線香とうちわを配給するとは、いったいどういうつもりだ、と男性が抗議する。来年の夏に使えるでしょう、と所長は答える。

 おばあさんがミルクの配給を受けに来る。孫に飲ませるミルクだ。ミルクをもらって帰らないと孫は死んでしまう、と必死に言うおばあさんに、所長は次のように応対する。「隣組長の印鑑と町会の印鑑をもらって申込み申請書に記入し、区役所へいって申込書をもらって詳しく記入して所帯主の印鑑を押し、町会組長と区役所の印鑑をもらって警察へいき、証明書を発行してもらって医者へいき、診断書をもらってすべて揃えてここに提出すれば、ミルクを出してあげる」敗戦直後の戯画は、そのまま現実でもあったはずだ。そしてこの程度の煩雑さのものなら、役所相手の庶民の手続きとして、現在でも日常的にいくらでもあるはずだ。五十五年前のどたばた喜劇のなかの戯画が、現在の市役所や区役所の現実であることを思って、僕は真に驚愕する。

 途方に暮れるおばあさんに、「とにかくそういうことになっている」と、所長は言う。いまミルクを持って帰らないと孫が死ぬのですが、と言うおばあさんに、「そんなこと知ったことではない」と、所長は答える。石田一松の所員が抗議すると、「指令や命令がないかぎり、俺の立場では出来ない。おまえはこの俺に逆らう気か」と所長は怒る。

 おばあさんのかわりに私が手続きをして来ます、と言って所員は自転車で出かけていく。途中でその自転車を盗まれる。当時はいろんなものを盗む人がたくさんいたらしい。満員の都電の座席にすわって居眠りしていた人が、靴を盗まれるというギャグがこの映画のなかにある。

 配給所では芋の配給がおこなわれる。どうやら指令が出たらしい。芋の詰まった俵を所員たちが大八車から降ろす。「二列にならんでください」と人々に言ったあと、石田一松は次のような『のんき節』を歌う。「腹がへったら芋を食え、と言うお役人さんはなにを食う。お役所仕事は暇をくう、だから連合軍から文句くう」硬直してまったく合理的ではない人民管理意識は、日本の官僚組織の頂上から市井の末端にいたるまで、GHQから批判されていたらしいということが、『のんき節』の一節から推測出来る。行政が国民の信頼を失っていたことは明らかだ。

 生活物資の配給という、官僚つまり国家による管理のシステム。おとなしく長い列を作ってそれに従う庶民。戦前戦中の日本の基本構造は、戦後のスタート地点での構造でもあり、さらにはそこから現在にいたるまでの期間を支配した構造でもある。敗戦の年の秋に、ほとんど即席で作った一編のどたばたコメディは、このようなかたちで時代を映している。映画はそれが製作され公開された時代が生んだものであり、その時代を越えることはない。越えないからこそ、その時代をその映画のなかにいつまでも見ることが出来る。

 桜ケ丘国民酒場は、酒を配給するシステムの一形態だ。国民酒場というシステムを作って酒をそこへ配給し、統一料金で酒場ごとに酒を一般市民に飲ませる、ということだろうか。少ない酒を少ないなりに、出来るだけ公平にいき渡らせよう、という意図にもとづいたものであったことは確かだろう。

 本日の開店を待って、ここでも人々は長い列を作っている。『酒は泪か溜息か』のメロディが、ふっとその画面に重なる。隠匿物資と引換えに、店主は怪しげな仲間たちに酒を横流ししているらしい。客を外に待たせ、店主はその仲間に酒を飲ませている。酒にメチルアルコールを加えて、増量を図ってもいる。よからぬ噂を聞いて、役人がその店を調べに来る。もっともらしい役人だが、じつはきわめて頼りなく、しかも店主による贈賄の試みにあっけなく崩れ落ち、メチル割りのウイスキーに酔う。

 国民酒場の客の話が面白い。「三時に開店の風呂屋へ飛び込んだら、お湯がすでにどろどろに汚れてるんですよ。朝から闇で入ってた奴らがいるんです。ひどいじゃないですか、驚いた話ですよ。驚いたと言えば、ちょっと買い物をして百七十五円も取られました。着物が八十円、シャツが五十円、さるまたが十五円、下駄が三十円ですよ」

 古川緑波が演じている古川六郎さんの息子が、ひどい風邪を引く。開業医院へ往診の依頼にいくと、小窓から若い看護婦が顔を出して次のように言い放つ。「今日は日曜日よ。こんな日に病気になるなんて、どうかしてるわ」子供が死にそうだから往診してください、と古川さんがなおも頼むと、「死亡診断書なら明日にしてください」と、看護婦は言って窓を閉じる。

 アメリカからあたえられ、ある日を境にして突然に民主主義になった日本の、敗戦直後における庶民の次元での、民主主義の理解や実践の程度に関する、これは戯画だろう。戯画とは言っても、現実はほとんどこのとおりだったのではないか。なにをしようが、なにを言おうが、すべて自分の勝手であるという次元から、日本の戦後民主主義はスタートした。

 簡易住宅建設株式会社という架空の会社の、簡易住宅係の窓口でのコメディ寸劇がある。家の欲しい人たちが次々にその窓口へ来る。応対する係の男性は、その人たちに対して理不尽にいばっている。ひとりの人が申請書のような紙を窓口に出すと、「こんな紙切れで家が建つと思うか」と、係の男は言う。

 次の人に対しては、「土地はあるかね」と係の男は聞く。ありません、という気弱な答えに対して、「土地がなければ家が建つわけないよ」と、係の男は言う。次の人には、「材料はあるかね」と聞く。ありませんという答えに、「材料がなければ家は建たないよ」と係の男は言い、さらに次の人には、「大工はいるのかね」と聞く。いませんという答えに対して、「大工がいなきゃあ家は建たないよ」と、係は応対する。敗戦直後のある時期、どこへいっても、窓口というものはこのようであったと思って間違いではないようだ。

 戦中に物資を隠匿した人たちと、戦後に物資の隠匿にはげむ人たちは、同一人物あるいはおなじ仲間だ。彼らの隠匿物資は防空壕のなかに隠してある。台風が来て大雨が降り、その水が防空壕へ大量に流れ込む。隠匿された物資は、ほっておけばすべて水びたしの運命だ。かつぎ出す作業に五人男たちは加わることになるが、その作業はすべての物資の正しい再配分の約束と引換えだ。

 台風一過、桜ケ丘総合配給所では、正しい配給がおこなわれる。一級酒が配給される。配給を受ける人は、持参した瓶に漏斗で注いでもらってうれしそうだ。砂糖も配給される。「本物の砂糖だよ。ガラスの入ってない、本物の砂糖だよ」という台詞のなかに、この時代のすべてがあると言ってもいい。ガラスを細かく砕いて粉のようにしたものを砂糖に混ぜ、量を増やして闇で売り、ひと儲けした人たちがいたのだ。

 これからはなにごとも政府に頼らず、すべて自分たちで実行しよう、と五人男たちは決起集会を開く。そしてデモ行進をする。焼け跡のなかを人々は行進していく。立ちどまって眺める通行人たち、というものは画面にあらわれない。「家を建てろ」「三合配給絶対確保」「あてにならない約束はやめろ」「もうだまされないぞ」などと書いた横断幕を、行進の人たちは掲げている。三合配給とは、米をとにかく三合は配給してくれ、という意味だ。行進していく人たちは歌う。「明るい東京、楽しい東京、僕らの東京、みんなの東京。富士山白いよ、小鳥も啼くよ、みんなで働きゃ復興もすぐだ」

 日本は復興した。庶民がいっせいに働き始め、働き続けたからだ。彼らが日々の勤労をかさねていく場は、軍需工場ではなく、民需工場つまり日本じゅうを埋めつくして林立する、会社となった。会社は安定した勤労の場だ。勤労が安定すると収入も安定した。安定した物価に象徴されるような安定した社会とは、勤労だけしていればそれでいい社会のことだ。官僚が業界のための秩序を整え、管理の網の目によってそれを維持していくという、政治・財界・官僚の鉄の三角が強固に出来上がった。絶対会社主義がその下に成立し、日本は会社となった。復興するとは、じつは日本ぜんたいが会社になることだった。

底本:『映画を書く──日本映画の原風景』文春文庫 二〇〇一年

タグで読む09▼|戦後

8月_タグで読む_バナー画像


『映画を書くー日本映画の原風景』 『映画を書くー日本映画の謎をとく』 原爆 戦後 映画
2017年8月14日 00:00