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『ニューヨーカー』の表紙に描かれた、ある年の夏

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 一九八六年の夏、僕が新聞であの写真を見たのは、八月十一日だった。海水浴場として昔からよく知られている海岸が、人でびっしりと埋まっている様子を、「本社機」とか「自社ヘリコプター」とかを使って空中から撮影した、およそなんの芸も趣もない、あの写真だ。そしてその写真には、毎年きまって、「海も山も、人、人、人。全国各地で今夏最高の人出」などという見出しがつけてある。『ザ・ニューヨーカー』の七月二十一日号の表紙をニューヨークで見たとたん、僕は、いつも盛夏になると日本の新聞に掲載されるあの写真を思い出してしまった。『ザ・ニューヨーカー』の表紙は、いつも上出来の絵だから写真でははじめからかないっこないのだが、この七月二十一日号の表紙絵には、いったいなんというグッド・アイディア、なんという余裕、なんというエスプリ、なんという才能、なんというユーモアだろうと、深く感心する。

 表紙の紙の白地が、そのまま夏の砂浜になっている。たくさんの人たちがその砂浜に出て、夏や太陽を楽しんでいる様子が、クレヨンでじつに巧みに自由に、そして余裕をたたえて楽しげに、描いてある。手前からむこうにむけて、遠近法になっている。手前はつまり表紙の下のほうであり、ここに描かれている人たちはサイズも大きく、クレヨンのほんのちょっとした使いかたによって、人それぞれのディテールが描出してある。ひとりひとりのポーズのどれもが、夏の海岸の気分をフルに発揮している。細部も素晴らしい。金髪の女性のサングラス、砂の上に置いたラジオ・カセット、ビーチ・タオルのわきに立っているコパトーン、サングラスの女性があぐらをかいて読んでいる新聞。

 表紙の下、三分の一ほどが遠近法の手前であり、そこから上へいくにしたがって、ビーチの人々はこの絵を描いた人の視点から遠ざかっていく。人のサイズは小さくなり、それに呼応してディテールも省略されていくのだが、夏の砂浜にいる人たちの姿態というものが持つ基本的な性格は、クレヨンを操る手の微妙な動きによって、きちんと、しかもユーモアをともなって、描き出されている。距離が遠くなっていくにつれて、黄色の一色だけで描いた人の数が多くなっていくのは、さすがだ。画面の全体にわたって、色の使いわけかたは、見事と言うほかない。

 ザ・ニューヨーカー、という題字のあたりまであがってくると、つまり、遠近法のずっとむこうまで視線が遠のくと、砂浜の上の人たちは、もうほんとに小さい。しかし、それでもなお、夏のビーチにいる人たちであることはちゃんとわかるように描いてある。そして、題字をこえた上のスペースでは、人はまばらだ。

『ザ・ニューヨーカー』のこの号は、一ドル五十セントだ。東京の洋書店で買うと、千円以上するだろう。一年が五十週として、東京で『ザ・ニューヨーカー』を買っていると五万円にもなるけれど、直接の購読だと一年で五十二ドルだ。船で太平洋を渡ってくるというようなことまで考えに入れると、一年五十数冊の『ザ・ニューヨーカー』は、これはもう無料配布に近いと言っていい。

 茶色のごく普通の包装紙のような封筒に入って、『ザ・ニューヨーカー』は毎号、届く。封筒といっても袋状の封筒ではなく、筒状の封筒だ。途中で抜け落ちることもなく、船便で正確に届くのは、不思議だ。

『ザ・ニューヨーカー』の表紙絵については、かつてすこしだけ書いたように思う。どの号の絵も、技巧的にはたいへんな練達であり、アイディア的には自由で豊かで余裕があり、ユーモアに満ちている。そして、この表紙絵の最大の特徴は、季節感がいつもきちんととりこんであることだ。季節の動きや雰囲気を、一週ごとに、さりげなく巧みに、『ザ・ニューヨーカー』の表紙絵は、とらえている。

 一九八六年七月二十一日号の『ザ・ニューヨーカー』を、僕はいろんなふうに楽しんだ。表紙絵に関しては、いま書いたとおりだ。最新号が届くと、僕はまずはじめに、カートゥーンを順番に見る。どれも面白い。『ザ・ニューヨーカー』の世界と同次元に統一された笑いだが、じつに愉快なのがいくつもある。表紙絵とカートゥーンだけでも、一ドル五十セントは高くないだろう。

 文章のなかに、小さなイラストレーションが、いくつも配してある。このイラストレーションも、ひとつひとつなんとも言えず素晴らしい出来ばえだ。ひとつずつ、時間をかけてつくづくながめるのが、楽しみかたのこつだ。小さく単純に、あっさりと描いたものを、大きくひきのばしてみたらどんなふうになるだろうかと、かねてより僕は思っている。

 目次といううっとうしいものが、『ザ・ニューヨーカー』にはない。どの記事もいきなりタイトルがぽつんとあって、書いた人の名前は、たいていの場合、文末に小さく出ている。短篇小説もすてがたいが、この『ザ・ニューヨーカー』では、レポート記事のような文章が、いつもたいへんにいい。この号では、ゲイに関する連載記事のパート・ワンが、何ページにもわたって掲載してあった。

 書評のページや、ニューヨークの映画案内のページにある映画評を、僕は楽しみにしている。映画評では、たとえばスピルバーグの『カラー・パープル』に辛い点がついている。新作とともに、昔の映画の評もあるから、退屈しない。ニューヨークでは、その気になれば、じつに多くの、そして種類豊富な映画を、観ることが出来る。メトロポリタン・ミュージアムの劇場で、ケイリー・グラントとミルナ・ロイの映画はいかがですか。映画がはじまるのは午後六時三十分から。切符は、その日の上映開始一時間まえから発売だ。こういうシステムも、うれしい。モーマのシアター・ワンで、まったくなんの予備知識もないイタリー映画を観るのも、悪くなさそうだ。英語のサブタイトルがついていれば、心配ない。シアター・トゥーは閉館中だ。

 リヴァイヴァル・ハウスとして案内の出ている、昔の映画を上映する劇場をまわるだけでも、エネルギーと集中力を必要とする。昔といっても、一九三〇年代から七〇年代まで、幅は広い。

『町の出来事』というタイトルのもとに、映画、芝居、スポーツ、音楽、画廊、展覧会などが案内してあるこのページは、ニューヨークから遠いところで読んでいても、啓示に満ちている。七月の十七、十八、十九、二十の四日間は、ヤンキー・スタジアムでヤンキーズとレッド・ソックスの試合を観ることが出来た。十七日だけがデイ・ゲームで、十九日の土曜日はオールド・タイマーズ・デイだった。

 花についての、感受性豊かなエッセイやスケッチ文などを書いてもらうきっかけにでもなればと、パリに住んでいる女性作家のもとへ、スイスから毎週ひとつかふたつ、ブーケイを送り続けた編集者の話とか、その女性作家が書いた、「海の青さも空の青さも、どちらも真似することの出来ないような青さを持った」ロビーリアという花の話など、『ザ・ニューヨーカー』の拾い読みでこそ読める文章だ。この女性作家は、ブーケイを送ってくれた編集者にこたえて、ガーディニアが語るモノローグとか、脚がいつも水中にある水仙への叙情詩などを、美しく書いたという。

 後半のページになると、両わきに小さな広告がたくさんならんでいる。そのひとつひとつがまた、面白い拾い読みの種だ。オマハ・ステーキの広告に、トライ・ア・リトル・テンダネス、などというコピー(ないしは決まり文句、ないしは歌のタイトル)が、使ってある。ザ・ラシアン・ティールームの広告が、いつもおなじように出ている。いまはもう流行していない、幅の広いタイの幅をせまくしてさしあげます、という小さな広告がある。この会社の名は、タイ・クラフターズという。イギリスやウェールズにたくさんある水路を、宿泊設備のあるホテルのような船でゆったりと下っていく旅の広告がある。七日間で三百ドルだそうだ。

 アメリカン・ライブラリー・アソシエーションが出している、読むことの楽しさを訴える広告の文章をふと朗読してみると、アメリカのラジオやTVのアナウンスメントによく登場する、深いバリトンの男性の喋りかたになってしまうのが、面白い。語法は口調を決定する。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『自分を語るアメリカ』太田出版 一九九五年

今日のリンク|The New Yorker July 21, 1986 Issue

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1986年 アメリカ エッセイ・コレクション『自分を語るアメリカ』 デザイン 広告 雑誌
2017年8月11日 00:00