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紙のプールで泳ぐ

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 プールというものは、普通、そのなかに満たしてある水のなかで泳ぐためにある。プールで泳ぐといろんなふうに楽しいことは、すでに多くの人たちがよく知っている。プールで泳ぐと、気持ちよかったり、すこし悲しかったり、心が開いたり、あるいはすこしだけ閉じたりする。

 なかに入って泳ぐのは、プールというものの使用方法の第一番目にくる使いかたにちがいない。しかし、プールはたいへんに不思議な存在だから、なかの水に入って泳ぐという使いかたのほかに、もっとたくさんの使いかたがある。どんな使いかたがあるかというと、たとえば、見る対象としてプールというものをとらえ、プールの外からプールをいろんなふうに観察し鑑賞するという使いかたが、確実にある。

 プールは、見ているとほんとうに不思議だ。個人の家にあるプールを想定して考えていくと、普通はその家の広い庭のだいたいはまんなかあたりに、プールがつくってある。庭の地面の内部にむかって立方体がひとつ、つくってあるのだ。この立方体は、かなり大きい。コンクリートでかためてタイルを張り、水が満たしてある。

 地面の内部につくった大きな立方体というものは、それだけでかなり不思議だが、そのなかに水が満たしてあるとなると、プールの不思議さは、いっきょに、芸術的な高みへと、到達していく。庭の地面は、いちおう自然のものだと考えていいだろう。いかに凝った細工をほどこした庭でも、地面そのものは自然のものだ。その地面に掘った大きな立方体の穴は、自然と人工とがなかばした、どちらとも言えない中間的な存在だ。その穴の壁をコンクリートでかため、タイルを張りめぐらせると、地面の内部の立方体は、完全に人工物となる。そして、そのなかに水が満たされる。水は、自然物の象徴と言っていいほどの、きわめて自然なものだ。

 自然と人工とが、こんなふうにからみあっているありさまは、すでにどこかキュービズムふうに芸術的だ。そして、水を満たされたプールという、どこか芸術的な存在は、それを見ることによって、完全に芸術的な存在となる。

 プールを見るということは、地面の内部につくられたコンクリートの巨大な立方体に満たした水を見る、ということだ。プールの水は、まずその表面を見ることが出来る。表面にはいろんなものが映っている。たとえば空、空の雲、プールの縁に立っている人など、じつにいろいろだ。水の表面は、風によってさざなみをつくり出す。それも見ることが出来る。さざなみが出来ると、水の表面に映っていたものが、形を変化させる。この変化には、ヴァリエーションが多い。いくら見ていても飽きることがないほどに、そのヴァリエーションは豊富だ。

 水の内部を見ることも、出来る。水のなかに人がもぐって泳いでいれば、その人を見ていると面白い。人は、水によって、変形されて見える。その人の影がプールの底に出来る。この影も、面白い。プールの底も、やはり見ることが出来る。底には影が出来る。主として泳ぐ人の影、そしてたとえばダイヴィング・ボードがあれば、そのボードの影などだ。

 水の表面には、太陽の光が反射する。これだけを見ていても、見かたはじつにさまざまだ。人が水に飛びこめば、スプラッシュが出来る。これも、面白い。夜になると、プールの趣は、またちがってくる。プールのなかに明かりをつけることが出来たりすると、その明かりによって照らされた水の内部と、暗い外との対比は、観察の対象として興味がつきない。プールの片隅に、底にむかって半円型の階段がつくってあるなら、その階段じたい、ひとつの芸術的な生命をおびると言っても言いすぎではない。

 こんなふうに、プールというものは、観察や鑑賞の対象としてだけでも、充分に自立しうる。一日のうちのいろんな時間によって、プールの表情は大きく変化するし、季節によっても、変わってくる。天候も、プールのありかたをさまざまに変化させる。プールは、それだけですでに、見る人が見れば、芸術なのだ。ざっと以上のようなものの見かたを基本として採択することから、デイヴィッド・ホックニーの『紙のプール』と総称される二十九点の作品と、その作品の制作にかかわるみじかいエッセイ文は、成立していく。

 一九七八年の夏から冬のはじめにかけて、ホックニーは、ニューヨークの友人のところで、プールの絵を二十九点、つくった。描いたというよりも、やはりつくったと言うほうが正確だろう。このときの作品の一部と、その制作にまつわるホックニー自身によるエッセイ、そしてライン・ドローイングが、『紙のプール』と題した、たいへんに面白い、スリムな画集におさめてある。たやすく手にはいるし、安いから、ぜひ一冊、買うといい。

『秋のプール』『雲が映っているプール』『曇り、そして雨の日のプール』『曇った日のプール』『もぐって泳ぐ人』『ダイヴィング・ボードと影』といった、1からはじまって29まで続く一連の作品は、ホックニーという才能ゆたかなひとりの芸術家が、プールの持つ芸術性としっかりと対等にわたりあった結果、生まれたものだ。

 

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Paper Pools(1980), David Hockney, Theme & Hudson[amazon日本]

 

 ホックニーがつくった紙のプールたちは、ひとつが六つの部分に分かれているものが多いようだ。ひとつの部分は、平均すると、畳の半分ほどの大きさだ。この一ピースを、下の列に六点、そして上の列にも六点ならべ、ぜんたいとしてひとつに構成される。出来あがりはかなり大きなサイズとなる。

 白い紙に水をたっぷりと含ませ、台のうえに置く。これが、台紙のような役を果たす。単純で大胆な構図によって描いたプールのたたずまいを、その構図を構成する簡単な線のとおりに、クッキーを焼くときの金属製の枠を大きくしたようなもので、区切っていく。区切ったそれぞれの内部に、鮮明な色水をたっぷりしみこませた紙パルプを、載せるように入れていく。枠の内部を、色のついたパルプで満たし、下に敷いたフェルトで水を吸いとったあと、ハイドローリック・プレスにかけ、パルプのかたまりを平たく押さえつける。白い台紙とひとつにくっつき、乾くと出来あがりだ。こまかな手順はよくわからないのだが、おおざっぱに言うとこんなふうにして、紙のプールは出来ていく。六点のピースをひとつに組みあわせて、完成だ。一枚の紙の平面に刷毛で色を塗ってつくる普通の絵とは、完成後の質感はずいぶんちがうだろう。画集のなかにカラーで収録してあるプールを見ても、その質感は伝わってこないのが、残念だ。

 ひとつのプールが持つさまざまな表情のニュアンスは、ディテールこまかく追いかけていくと、そのこまかさはきりがないだろうとぼくは思う。ホックニーの紙のプールは、つくりかたが相当に特殊だから、ディテールはいっさい省略しなくてはいけない。単純な線を使って大胆な構図をつくり、おなじく大胆な色で構図の内部の構成部分ひとつひとつを、埋めていかなくてはならない。

 制作手法上のこのような制約が、プールの不思議さを絵画的にとらえるという意図に、ぴったりと合っている。プールのディテールをいろんなふうに見るということの官能は、紙のうえに大胆な構図と色とによって、見事に写しとられている。

底本:片岡義男エッセイ・コレクション『なぜ写真集が好きか』太田出版 1995年

今日はホックニーの80回目の誕生日(1937年)|David Hockney公式サイト

David Hockney

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1995年 『紙のプールで泳ぐ』 アート エッセイ・コレクション デイヴィッド・ホックニー プール 片岡義男エッセイ・コレクション『なぜ写真集が好きか』
2017年7月9日 00:00
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