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波止場通りを左に曲がる

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 デビューしてまだ間もない頃の美空ひばりを、何点もの写真で見ることができる。多くの写真に彼女は撮られ、それはさまざまな刊行物のなかに複製されている。そのような写真を数多く見ていくと、やがてはっきりわかってくることがひとつある。歌を歌うこの少女は、いっさいものおじしなかったのではないか、ということだ。そう感じさせる強い力のようなものを、幼い少女の彼女はすでに持っている。彼女の写真を見ながら、僕は思う。

 子供の頃、彼女の体のバランスは、よくまとまっていた。顔立ちは可愛い。表情ははっきりしている。そのはっきりした様子のなかには、強い意志をうかがうことができる。ステージに立つとき、おそらく彼女は化粧をしただろう。髪は大人の女性のように作った。そして身につけていた服は、当時のいわゆる庶民たちには、とうてい手の届かないものだった。

 その少女は、歌がものすごくうまかった。強い張りのある、明るくて気さくな声を、彼女はおそるべき自由自在さで、どんなふうにでもコントロールすることができた。そのコントロールの微妙さや大胆さのひとつひとつが、抜群の表現力というものの総体を作った。

 彼女は大人の歌を歌った。このことに対して、当時の大人たちのかなり多くが、反感を抱いた。子供のくせに大人の真似をしている、こましゃくれている、作為的だ、生意気だ、不愉快だ、などと彼らは美空ひばりを評価した。子供が子供の歌を歌うという、どこからも文句の出ない枠内に彼女がいたなら、このような反感はなかったはずだ。反感は恐怖心のあらわれだった、と僕は思う。始まったばかりの戦後という新しい時代のなかで、それまで見たことのなかったものを目のあたりにするとき、多くの人が狼狽したのは当然のことだろう。

 彼女は最初から枠の外にいた。戦後の復興期に彼女が歌った歌は、ひとつずつ点検していくと、ニュアンスはそれぞれに思いのほか複雑だ。けっしてひとつの枠には収まらない世界が、そこにある。その世界とはなになのか、ひと言で言うなら、なにとは言いがたいなにかであり、どことも言いがたいどこかだ。妙な言いかただ、と書いている当人も思うが、戦後の復興期に限るなら、美空ひばりの歌は枠というものを超えていた。少なくとも当時としては、彼女の歌はあらゆる領域にまたがるものだった。だからこそ、彼女は、あれほどにナショナルな人気を獲得することができた。当人としては、ただ歌を歌いたかっただけであったにしても。

 美空ひばりのLPを一枚だけ僕は持っている。〈オリジナル原盤による美空ひばりの魅力シリーズ〉として何点か発売されたうちの、第一巻、『マドロス篇』だ。十二曲のマドロスものの歌が収録してある。期間は昭和二十九年から三十六年にまたがっている。なぜこの一枚だけを持っているかというと、僕が感じるひばりらしさがもっとも良く出ているのは、マドロスものだと思うからだ。しかし、マドロスものならなんでもいいというわけではない。このLPのなかの十二曲のうち、彼女の歌唱は別にして、歌の出来ばえに関して僕が全面的に支持できるのは、三曲しかない。

 メロディと歌詞がうまくいき、それをひばりが歌った幸運なマドロスものの歌を、なぜもっともひばりらしいと僕は思うのだろうか。戦前も戦後も日本はなんら変化していないという事実と同時に、戦争に負けたあと、ある日を境にして戦後が始まったことも、事実として確かだ。そのような戦後の、ぱっと開かれた瞬間の、解放感に支えられた明るさのエネルギー。それをもっとも無理なく役立てることのできた歌の世界が、マドロスものだったと僕は思う。

 マドロスものの舞台は港町だ。どことは特定されない場合が多いが、外に向けて、つまり海の彼方に向けて開かれている場所、それがフィクションとしての港町だと言っていい。しがらみに存分にからめ取られつつ、さらなる内向を引き受ける場所ではなく、それを離れて少なくとも顔は外へ向けることのできた場所だ。外へ出ていくことの象徴として、船とその乗組員であるマドロスがあった。そのマドロスとの恋が、多くのマドロスものの主題だ。

 マドロスさんたちは、しかし、あまり当てにはならないようだ。どのマドロスも船員帽をあみだにかぶり、派手な縦縞のジャケットを着て赤いマフラーを首に巻き、パイプをくゆらせてタラップを上がったり降りたりしているだけだ。それはそれでいいとしよう。では、外とは、何なのか。

 どこか特定の国ではないことは、言うまでもないだろう。観光旅行に出かけていく先ではない。港を出る船は、パッケージのクルーズ旅行の客を乗せた船などではない。海の向こうは要するに海の向こうであり、海の向こうのどこかなのだ。どこかではあるのだが、どこでもない場所。そこに気持ちを向けるときの解放感が、マドロスとの恋として、マドロスものには歌われている。その恋をマドロスの側から歌い、男の感じを出して台詞まであるというマドロスものも、ひばりは歌っている。「初恋マドロス」という歌だ。

 幸運にも良く出来たマドロスものの歌に、僕の感じているひばりらしさがもっとも強く出ている、と僕は思う。しかし、ひばりの歌のうまさは、マドロスものを歌うためのものではない。うまさは、なにのためでもない。歌を歌いたいから、ひばりは歌う。歌ってみると、すさまじくうまい。こういう領域の歌だからひばりはうまく歌う、というような枠から本来なら彼女は自由だったはずだ。彼女は最初からあらゆる枠を超えていたのだから。

 彼女が歌った歌のひとつひとつに、特定の世界がある。ジャズふうの歌もあれば、純和風としか言いようのない歌も多くある。彼女ほどうまければ、明るさにどのようなニュアンスを出すことも可能だし、重さや暗さも自由自在だ。どんなせつなさや悲しさも、彼女は歌いかたのなかに出すことができる。歌のうまさという膨大なニュアンスのなかから、もっとも中心となっているはずの芯棒を引き抜くと、なにのためでもなくただ歌いたいから歌った結果としてのうまさを、その芯棒として確認することができるはずだ。

 歌のうまい少女が演歌の女王にされてしまうまでの半生は、日本の大衆にとっての戦後五十年だ。大衆が幼い彼女に対して最初に感じた反感は、次第におさまった。時代は進展した。人々は彼女を受け入れた。彼女は若い女性へと成長していった。レコード、映画、舞台などのシステムに支えられて大きく投影された彼女は、大衆のための最高位に位置するスターとなり、その期間は長く続いた。

 時代はなおも急速に進展していった。ひとりのスターがスターである所以のものすべてが、進展していく時代と合わなくなった。普通の世界の服を着て、化粧と髪をそれに合った作りにし、そのような世界を半歩だけでいいから先取りするような歌を歌えばよかったのに、と僕は勝手なことを思う。しかし、美空ひばりが路線を巧みに変えていくということは、なかった。始まったときとおなじ質の大衆娯楽のまま、彼女は続いていった。

 自分たちのエゴの延長として、イメージというものを大衆が持つ時代になった。なにしろそれはエゴだから、そのときどきの整合性は重要だった。イメージに合わないものに対して、大衆はなんの関心も示さないか、あるいはきわめて攻撃的にそれを排斥した。ひばりの身の上に起こったのは、仕組まれたと言っていい後者だった。彼女だけではないのだが、人気歌手の舞台興行の内部には、日常とは違う世界がある。それに対して大衆は難くせをつけ、攻撃をし、排斥した。新聞がすべてを誘導し、別世界を取り締まる力を持った組織がそれを利用し、大衆がそのぜんたいを支持した。

 王様、つまり大量消費の主役として、自分たちはすでに充分に豊かになった、と大衆は思った。豊かさは錯覚でしかなかったが、その錯覚のなかで、大衆のエゴはいわゆる肥大つまり内向を遂げた。イメージに合わないものは容赦なく捨てる。見たくないものは見ない。まだごく近い過去である戦後を振り返った大衆は、そこではすべてが貧乏で格好悪かったのだという認識を持った。それはいまの自分のイメージに合わない。見たくない。見ないことにしよう。すべてなかったことにしよう、と、大衆はきめた。

 美空ひばりは、突然に行き場を失った。そして「柔」や「悲しい酒」は、彼女が歌ったがゆえに、あまりにも強すぎた。それを抹殺することは不可能だと気づいた大衆は、そうだ、こういう歌は演歌なのだから、歌ったひばりは演歌という枠のなかに押しこめるといい、と思った。だから彼らはそうした。演歌という枠のなかに押しこめておき、都合のいいときだけ引っぱり出して使えばいいではないか、というわけだ。

 美空ひばりは、だから演歌の女王となった。演歌の女王という称号は、ひばりには不本意なものだったはずだと僕は思う。演歌という枠を引き受けるならおまえを認めてやる、という大衆の気持ちを彼女が感じなかったわけがない。早すぎた彼女の死は、演歌の女王というじつにくだらない称号を、おそらく不動のものとして彼女に固定した。あの美空ひばりから戦後という文脈を消そうとする、日本の大衆による不遜な試みは、なかばまでは成功したと言っていい。

(底本:『音楽を聴く』東京書籍 一九九八年)

今日は美空ひばりの命日(1989年)|美空ひばり公式サイト&「A列車で行こう」

美空ひばり公式サイト

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2017年6月24日 00:00
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