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白い、半袖のシャツ

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「あれから、十二年?」

 と、彼女がきいた。

「たいしたこと、ないよ」

 ぼくが、答えた。

「そうね。それほどの時間ではないわね」

 十二年が経過しても、ぼくは昔のままだ。彼女も、変化のない部分はそのままだが、変化をきたした部分は、じつに爽快に大きく、美しい変化をきたしていた。あれから何年になろうが、そしてその結果として、いまのぼくたちがおたがいに何歳であろうと、いっこうにかまわない。しかし、経過していく時間は、変化をもたらす。彼女の身の上に起こった変化を、いまのぼくはたいへんにうれしく思っている。

「でも──」

 と、彼女は言った。

「十二年まえというと、この私は二十二歳よ」

「そしてぼくは、なんと、十七歳だった」

 そう言ってぼくは笑い、彼女も笑った。ぼくは彼女よりも五歳、年下だ。いまの彼女は三十四歳であり、ぼくは二十九歳だ。

「信じられないわ。二十二歳、というような時期が、私にもあったのね」

「ぼくにも、十七歳という時期が、確かにあった」

「まるで小説だわ」

「おたがいに知り合ってまだ間もない頃、駅前できみを見かけたときのことを、ぼくは、いまでも覚えているよ。雨の日の午後だった。駅を出たところから踏切にむけて、ゆるやかな下り坂になっていて、その坂を傘をさして歩いていくきみのうしろ姿を、ぼくは見かけた。きみは、八百屋さんに入った。入ると言っても、店の間口がすべて開いているのだから、店のまえに立ちどまった、と言ったほうが正確だね。きみは、葡萄を買った。そして、踏切まで降りていき、傘をさしてそこに立ち、電車が通過していくのを待った。通過していく急行が、上下二本ずつ、あった。四本の電車を、きみは踏切で待った。そのうしろ姿も、ぼくは見ていた。踏切があがって、踏切をきみが渡っていく途中で、ぼくはきみにうしろから声をかけた」

「そんなことが、あったかしら」

「ぼくは、覚えている」

「私は、覚えていないわ」

「きみの部屋へいっしょにいき、ぼくたちはその葡萄を食べた」

「ほんとに、そんなことが、あったの?」

「あったよ。葡萄を買っているときのうしろ姿とか、踏切で通過電車を待っているうしろ姿など、ぼくは感銘とともに、眺めた」

「私は、どんなだったの?」

「じつに、なんとも言えず、きれいなうしろ姿の人なんだ。若い、独身の、すんなりと細身の、平凡でさりげない服がよく似合った、きれいな人だった」

「その私を、しばらくのあいだ、あなたはうしろから見ていたのね」

「見た」

「その頃から、あなたは、心は写真家だったのよ」

「そうかも知れない。あの駅まえのあたりの光景を、記憶しているかい」

「覚えてるわよ」

「きれいなうしろ姿のきみは、あの光景にじつによく調和していた。あまりにも調和しすぎていて、ぼくは、不憫に思った。年下のぼくが、不憫に思った。なぜ、不憫かと言うと、あまりにも似合いすぎているその風景から、いつまでもきみは抜け出すことが出来ずに、そのまま埋もれてしまうのではないか、という思いが誘発されてくるからだ」

「よくわかるわ」

「ああ、かわいそうだな、この女性はこの先、どうなるのだろう、というような思いだね」

「初めて聞く話だわ」

「十二年めにして、初めて」

 彼女は笑い、ぼくも微笑した。

 駅のまえから踏切にむけてゆるやかな下り坂となっていて、その坂の途中に、八百屋や肉屋、パン店などがたちならんでいる、あの郊外私鉄駅を中心とした小さな光景から、彼女は脱出した。あの光景から、遥かに遠いところで、いまの彼女は多忙に仕事をして生きている。一年のうちほとんどを、外国で過ごしている。いまも仕事として日本に来ている。ほんのつかの間、かつての年下の恋人であるこのぼくと会ってくれている。

 彼女は、どっさりとおみやげをくれた。東京では手に入りそうもない、珍しい写真集を、ふたかかえほどだ。写真を仕事にしているぼくへの、いつもと変わらないプレゼントだ。

 そのおみやげのなかに、東海岸の何軒かの有名な店のカタログが、いっしょに入っていた。東海岸から西海岸にむけて飛行機で飛んでいるあいだ、彼女はそのカタログのなかから服を選び、西海岸に到着して注文書をそれぞれの店に郵送したのだと、彼女は言っていた。この数年、自分のために服を買うのは、そのような買いかたなのだと、彼女は説明していた。彼女が服を買うのは、いつも高度一万数千メートルのところを飛びながらだ。

 東海岸の部屋に戻ると、注文した品物がすべてそこに届いている。時間をとって、かたっぱしから入念に試着し、返品するものを選び出す。返すものは返してしまい、修正が必要なものは、その専門家に渡しておく。そのまま着ることの出来るものは、次の日から着て歩く。

「十二年まえの、その雨の日、私はなにを着ていたかしら」

 と、彼女がきいた。

「スカートとシャツ」

 ぼくは、答えた。返事にならない返事だ。

「どんなスカートだったのかしら。そして、シャツは?」

「じつによく似合っていて、きみと完全に一体となっていたから、服だけを記憶のなかから取り出すのは、難しい。スカートは、柔らかい生地の、軽そうな、そしてきみのうしろ姿の優しい曲線にぴったりと添った、みごとなものだった。しかし、けっして高価なものではなく、ごく平凡な、どこにでも売っていそうな、そんなスカートだった。淡い灰色だったかな。シャツは、半袖。白い、半袖のシャツ。袖ときみの腕との、絶妙な調和は、うしろから見ていて泣きたくなるほどだった。しかし、シャツだけを問題にするならば、それはスカートとおなじく、ごく平凡な、白い半袖のシャツなんだ」

「白い半袖のシャツは、とても好きだったわ。いまでも、好きよ。どのシャツかしら、そして、どのスカートかしら」

「十二年まえ、どこかの店で、きみが買ったのさ」

「そうでしょうね。服を買うのは、好きだったわ。もっとも手っとり早い、自己実現だから。新しい服を買って着ると、自分が、なにかになったような錯覚があって、その錯覚は、充分に陶酔的なのよ」

「服を買うきみに、ぼくがお供をしたことがあった。いま、突然、ぼくは思い出した。夏のはじめ、東京の百貨店だった。きみは、シャツ・ドレスを試着したんだ。小さな試着室のカーテンをきみが開いて、シャツ・ドレスを着てそこにいるきみを見たときも、ぼくは感銘を受けた。白とブルーが基調の色となっていた、さわやかな風のようなシャツ・ドレスだった。時代を超越したような、簡潔なデザインの。憂い顔の、静かな印象をあたえる美人のきみが、そのシャツ・ドレスを着ると、まったくちがった人のように見えていた。あのとき、そのシャツ・ドレスに合わせて、きみは試着室のなかで、髪のスタイルをすこし変えたのだ」

「細かなことを、よく覚えているのね」

「まるで写真のような記憶力さ。写真は、まずとにかく、記録なのだから」

「私は、そのシャツ・ドレスを、買ったの?」

「買わなかった」

「そうでしょうね。もし買っていたなら、すこしは覚えているはずだから」

「これから、服を買いにいこうか」

 と、ぼくは言った。

「私の服を?」

「そう。たとえば、白い半袖のシャツを、一枚だけ」

「そろそろ、半袖の季節だわ」

「買いにいこう」

 ためらいつつも楽しんでいるような、複雑な陰影のある微笑を、彼女は浮かべてみせた。

「お店で服を買うのは、久しぶりだわ」

「ぼくがプレゼントしてもいい」

「大事にするわ」

「きみは、半袖のシャツがよく似合う」

「いまでも?」

「着てみないと、わからない。捜しにいこう」

「むずかしいのよ、半袖のシャツを着るのは」

「実験しにいこう」

「どんなシャツがいいかしら」

「どこかで、きみがぼくと待ち合わせをしているとしよう。ぼくが待っている場所へ、きみがすこしだけ遅れて、やって来る。降りはじめたばかりの夏の雨のなかを、きみは歩いて来た。シャツが、かすかに濡れている。待っているぼくのかたわらに、きみは立つ。そんなシャツだ」

「難しいことだわ」

「いまでも、泳いでいるかい」

 彼女は、泳ぐのが好きだ。高等学校の生徒だった頃には、高飛び込みの選手だった。自分の緊張感を持続させるために、一週間にすくなくとも二度は、千メートルから二千メートルの距離を泳いでいる、とかつて彼女は言っていた。

「泳いでるわ」

「だったら、背中も腕も、そして胸も、半袖のシャツむきに出来ているはずだ」

「体は、大丈夫よ」

「買いにいこう」

「降りはじめた雨のなかを、私は歩いて来て、待っていたあなたのかたわらに立つのね」

「そう。きみは、雨の香りがするんだ。空をおおっている雨雲のなかを、通り抜けて来たような香りだ」

 ぼくの説明を聞いて、彼女はあきれたように笑った。彼女は首を振り、

「そんな着こなしが、この私に出来るはずないでしょう」

 と、言った。

「出来るよ」

「私は、いつも忙しく仕事をしている、三十四歳の、ただの女なのよ」

 ただの女と自分で言う、その彼女をぼくは見た。白い半袖のシャツを着ている彼女を、ぼくは想像してみた。想像のなかで、場面は飛躍した。ぼくと彼女のふたりは、夏のはじめの海岸にいた。

 砂丘の上に立ち、ぼくたちは海を見ている。風を、体で受けとめている。着ている白い半袖のシャツを、彼女はおもむろに脱いでいく。上半身は下着だけになった彼女は、脱いだシャツを両手で丸める。そして、空にむけて、高くほうり上げる。

 高く上がりきったところで、そのシャツは、青い空を背景に、花のように、まっ白に、ぱっと広がって咲く。そして、風に流されていく。

(底本:片岡義男エッセイ・コレクション『「彼女」はグッド・デザイン』太田出版 一九九六年)

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