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言葉はきわめて人工的に身につく

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 言葉というものは誰もがいつのまにか自然に身につけていくもの、と信じて疑わないのが日本人だ。生まれてからの自分の身辺に続く日常生活という成りゆきのなかで、人は言葉を覚えていく。三歳児になると二千語を覚えていて、三歳児なりに使うことが出来るという。この二千語を、三歳児はおたがいの連関なしにばらばらに覚えるのではなく、自分がいつも守られている家庭というきわめて人工的な環境のなかで、自分を中心にしてひとつにつながった世界のものとして、覚えていく。

 自分のいる家庭という、安心の出来る固定した環境で、自分を中心にひとつに連関した世界として、三歳児は二千語を覚えている。そしてその覚えかたは、ただひとつだけの、本当に唯一の方法によっている。自分の身のまわりにいつもいる大人たち、たとえば両親が喋る言葉を聞いては、それを自分に真似出来る範囲で真似していくという方法で、幼児は自国語を覚える。

 必死に聞いて懸命に真似する。幼児はじつは猛勉強をしている。大人たちが使わない言いかた、つまり日本語の文法にかなっていない言いかたは、大人たちがいっさい口にしないから、したがって幼児がそれを聞くことはなく、結果として幼児は文法にかなった用法だけを覚えていく。このようにして、幼児はまず文法を学んでいく。

 三歳児のこのような学習のしかたを仮に自然な学習法と呼ぶなら、大人になってからの外国語の勉強にもおなじような自然さをあてはめようとすることの無意味さが、理解出来るはずだ。幼児ですら言葉は自然には覚えていない。ほんの片言を別にすると、大人がいつのまにか外国語を自然に身につけることなど、あり得ない。大人になってからの外国語の学習には、意識的な勉強という、もっとも不自然な学習のしかたしかない。

 自然に、という言いかたをなんの根拠もなしに好んで多用する人は、外国語の意識的な勉強という不自然さのぜんたいを、すんなりと我が身に引き受けることが、なかなか出来ないようだ。言葉を自然に覚えるとは、一例として次のようなことだ。

「わたし」「バナナ」「たべる」という三つの単語を、ほとんどの三歳児は知っている。この三つの単語を、単なる知識として、それぞれ単独に知っているのではない。幼い全身のすべてを賭けた反応のしかたとして、正しい使いかたの連関のなかで、幼児はこれらの言葉を知っている。

「わたしもバナナをたべる」と三歳児は言える。日常的には、「バナナたべる、わたしも」とか、「たべるの、わたし、バナナ」あるいは「わたしもたべる、バナナ」といった言いかたになることも多い。どれもみな日本語として正しい言いかただ。「わたしのバナナたべる」という言いかただってある。

 しかし、「バナナのわたしとたべる」とか、「わたしへバナナがたべる」あるいは「バナナをわたしにたべる」などとは、絶対に言わない。身のまわりの大人たちがけっして言わないから、幼児も言わない。「バナナをわたしにたべる」などとは、一生にわたって誰も言わない。日本語の文法ルールを、日本の幼児たちはこうして学んでいく。幼児たちの周囲にいる大人たちも、かつてまったくおなじようにして、自国語を覚えていった。

「バナナとわたしのたべた」という言いかたも、まずないと言っていい。仮に誰かがこう言ったとして、おそらくこういうことなのだろうとその意味を推測することすら、この言いかたでは不可能だ。「バナナと」というところまでは、バナナとパイナップルというふうに、いくらでもあり得る。「バナナとわたし」も、ごく普通にあり得る。「バナナとわたしの」も、あり得る。たとえば、バナナと私の相性、というふうに。

 しかし、「バナナとわたしのたべた」となると、これはあり得ない。こういう言いかただと、そこに意味が生まれないからだ。意味がいっさい生まれないから、したがって人はこうは言わない。周囲の人たちの誰もが言わないから、三歳児も言わない。自国語という言葉の使いかたのルールを、人はこのようにして覚えていく。

 日本人によるつうじない英語とは、「バナナとわたしのたべた」という言いかたなのだと思えば、なぜつうじないかその理由が、一目瞭然に理解出来るのではないか。ルールから完全にはずれているので、言葉のつらなりに意味が生じない。だからつうじない。

「バナナとわたしのたべた」という言いかたのなかで、「バナナと」を「バナナを」に変えると、これはあり得る。「バナナを、わたしの、たべた」と言いたいのかと推測すると、この子供のバナナを誰かが食べたのかなと、ひとつのはっきりした意味が推測出来る。なぜそんなことが推測出来るかと言うと、「を」というひと文字が「バナナ」のあとにあるからだ。「バナナを」という言いかたは、日本語として正しい。

 それに、「わたし」のあとには「の」というひと文字が来ている。「わたしの」という言いかたも、日本語のルールとして正しい。ルールとして正しいから、「バナナをわたしのたべた」という言いかたは、「バナナを、わたしの、たべた」ではないのかと、推測することが出来る。しかし「バナナとわたしのたべた」では、意味を推測することが出来ない。文法のルールとはこういうものだ。この程度のものだ、と言い換えてもいい。間違った使いかたとは、正式なルールブックのなかにない使いかたの、すべてでしかない。

「バナナに」はルールに合っている。「バナナと」「バナナも」「バナナを」など、どれもルールに合格だ。ルールに適合している言いかたは、ほかにもたくさんある。「バナナが」「バナナだから」「バナナゆえに」「バナナばかり」「バナナで」「バナナの」「バナナか」「バナナだ」「バナナは」「バナナさ」「バナナでした」「バナナとして」「バナナごときが」「バナナばんざい」「バナナなら」「バナナです」「バナナだった」。

「バナナする」という言いかたは、昔はなかったがいまならあり得る。「バナナしてた」もおなじだ。「バナナへ」というのがない。しかし、ルール的にまったくあり得ないわけではない。「縦にふたつに切り開いたバナナへアイスクリームを盛りつけます」というような場合だ。「バナナへ」のままでも許されるが、「バナナに」としたほうが、すわりはいい。「バナナの上に」と言うなら、安定性は最高となる。

 ルールにのっとっているなら大丈夫、ルールからはずれていたら駄目。実用上の英文法とは、ひと言で言うとこんなに簡単なことでしかない。英文法と言われて理由もなく怯えてはいけない。英文法というひと言を聞いただけで、不必要に怯えたり嫌ったりする人が、日本にはたいへん多い。ルールというものに対する日本人の態度が、そうさせるのかもしれない。ルールはルールとしてどこかに置いておき、現実はルール無視の融通無碍で処していきたい、というような態度が。

 英語には英語のルールがある。そのルールの内部で、すべては成立している。ルールを知ってそのとおりにすればいい。きまりを覚えればいい。ただそれだけのことだ。ルールをなにも知らないまま、外国語を自国語的に身につけることをめざしたり望んだりするのは、徒労であり無謀であり、なによりも科学的ではない。学習のごく初期の段階から、頭の程度を疑われるだけだ。

 どう回避を試みても、どう目をふさごうとしても、学習者の目の前に立ち上がってくるのは、圧倒的な量をもっとも効果的に、つまり科学的におこなう、勉強という作業だ。勉強の量が多ければ多いほど、その勉強の方法は科学的であることが要求される。そして外国語の勉強は科学以外のなにものでもない。

 外国語にかぎらず言葉というものを、大量の科学的な勉強を重ねて習得していくという考えや態度が、日本人には皆無に近く希薄なのではないか。戦後の日本でそれは加速度的になくなっていき、いまはもうゼロに近いところまで到達している。意識的な勉強を大量に重ねて習得していく言葉など、外国語にせよなににせよ、いっさい必要なかったからだ。

 日本人にとって日本語という自国語の学習は、日常という成りゆきにすべてまかされている。特に戦後の日本は日常という現実至上主義であったから、すべては日常のなかにあるという原理で動いてきた。あらゆるものは日常でまかなうことが出来る、と誰もが信じてきた。日常を少しでも超えること、たとえば非日常は、想像がつかないし思い描くことも出来ない。快適な非日常なら文句を言わないが、多少とも努力を必要とする非日常は、ただ単に文句を言う対象でしかない。

 外国語の勉強は、じつは非日常そのものだ。外国語という非日常をも、日常のなかでこなそうとすることの無理、ないしは矛盾は、英語学習の効果を最初から大きく削いでいる。外国語だけではなく、勉強という作業はすべて、日常のなかの非日常だ。

 言葉は日常のなかでいつのまにか覚えていくもの、というとらえかたを日本人はことのほか好いているようだ。このように考えていれば、勉強という意識的な努力を、人にとっては不自然で好ましくないものとして、少なくとも気持ちの上では、あらかじめ回避することが出来る。努力などしたくない人にとって、努力が必要であるという前提は、ないのがもっとも好ましい。

 確かに自国語だけは、成長という時間のなかで、日常の成りゆきまかせに、人々は覚えていく。しかしその自国語も、そしてそれの学びかたも、本来はきわめて人工的なものだ。誰もがこれほど自然に覚える日本語が、なぜ人工的なのかと、多くの人は疑問に思うだろう。

 生まれ落ちた赤子には、日常のなかで成長していく日々という、成りゆきしかない。その成りゆきのなかに、普通なら母親や父親がいる。彼らの喋る言葉を、赤子はおそらく必死で聞いている。音を覚えるためだ。音を覚え、おなじ音を自分も口から出すためだ。ほどなく、ほんの少しだけ、赤子は音を真似することが出来るようになる。

 真似してどうするのか。自分の意思を周囲にいる人に伝えるのだ。おしめが濡れていて不快である。だから不快ではない状態になりたい。ただ泣いて訴えるという段階の次に、泣き声ではない声を出す段階が来る。自分がしたいこと、してほしいこと、ありたい状態などを伝えるために、母親が声に出す言葉を中心的な手がかりにして音を記憶し、それを赤子は真似していく。

 赤子は少しずつ音を真似することが出来るようになっていく。その音は日を追って正しい音へと接近していく。音を正しく真似することが出来るとは、人が音声として出している言葉を、正しく聞き取ることが出来るということだ。音を真似して自分も正しく出す能力と、人の言葉を正しく聞き取る能力とは、相互に複雑にからみ合いながら上昇していく。この上昇のなかで、真似という受け身から脱出して自分からなにか声を出すという、言葉を喋るごく初歩の段階に、赤子は到達する。

 赤子の日々は、このようなトレーニングの連続だ。食事と排泄そして睡眠のほかには、赤子にはすることがないように見えるが、じつは必死で人の言葉を聞き、その音を必死で真似しようとしている。この作業が、赤子の発育というぜんたいと重なって、進行していく。言葉を自然に覚えるとは、こういうことだ。この成りゆきまかせのなかで、心もとないものではあるが、赤子は会話が出来るようになっていく。その能力は月日とともに上昇していく。三歳にもなると、三歳児の会話というものが、充分にこなせるようになる。

 幼児はやがて字を読むことになる。字を読むとは、かたちの識別なのだろうか。口移しで覚える音と不可分に重なったかたちであり、かたちと音は意味とも密接に一体だ。意味とは、その字あるいは言葉を、どんな場面でどう使うのか、ということだ。「くるま」という三文字の言葉に「クルマ」という音が重なり、「パパのくるま。よっちゃんは、くるまがだいすきね」というような母親の音声を頼りに、音とかたちと意味と用法を、小さな全身に写し取り刷り込むようにして、幼児は覚えていく。「よっちゃんはなにがすきなの?」と訊かれて、「パパのくるま」と答えることが出来るようになっていく。

 識字と並行して読解という学習が始まる。文字がただ読めて音にすることが出来るだけでは駄目なのだ。読んでいく言葉の意味をいろんなことと結びつけながら、自分のものとして取り込み、のちに別な文脈でそれを役立てるという高度な作業能力の習得も、ある程度まではすべて日常の成りゆきにまかせられている。

 成りゆきまかせであることは事実だが、成りゆきまかせとはいっても、けっしてでたらめではない。むしろ決定的にその逆だ。日常という完成されたシステムのなかに出来上がっている、子供が育っていくという人工的な営みに、ぴったりと沿った出来事だ。しかもその出来事は長期にわたって持続される。赤子から小学校を終える時期まででも、十二、三年かかる。しかも一度しかなく、やりなおしのほとんど利かない、決定的で絶対的でもある営みだ。

 日常というシステムは強固に出来上がっている。子供が育っていく日々は、そのシステムにあまりにも忠実に密着しているから、成りゆきまかせで自分はなにも考えないという状態のなかへ、人々はなんの違和感もなしに滑り込むことが出来る。言葉はいつのまにか自然に覚えるという信念は、そのような状態のなかから生まれる。

 大人が外国語を身につけようと思うなら、その外国語のルールにしたがって、意識的に科学的に、しかも大量の勉強をこなすほかに、有効な手段はひとつもない。英語がわからないとは、どういうことなのか。ただ単に知らないということでしかない。単語を知らない。これは致命的だ。単語ひとつひとつの正しい音を知らない。いくつもの言葉が文章として組み立てられていくときのルールも知らない。その文章がどのように音声になるかも、知らない。いくら知らない人でも、知らない範囲はおおまかに言って、わずかにこれだけでしかない。

 英語という言葉は、文法のルールを正しく守ることを、厳しく要求する。ルールの厳しさが、そのまま英語という言葉のぜんたいだ。ルールの厳しさは、しかし、学びやすさでもある。ルールにのっとればたちまちつうじて、どこまでも機能してやまない。

 文章を組み立てるためには、守らなければならない一定のルールがある。そのルールを線路さながらに頭のなかに敷きつめる。言葉のひとつひとつが貨車だ。ルールを守って正しく貨車をつなぐと、一本の整然たる貨物列車が出来る。正しく組み上げられたワン・センテンスだ。それを次々に線路上に走らせればいい。ルールは絶対のものだから、正しく覚えて正しく使うほかない。そしてじつはそれがいちばん簡単で有効な方法だ。

(初出・底本:『日本語で生きるとは』筑摩書房 1999年)

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