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身のうえ話 その1

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 小学校に入学する日、つまり入学式の日、ぼくは生まれてはじめて、学校の校舎というものを見た。
 木造の大きなその建物をひとめ見たとたんに感じたことを、いまでも思いだすことができる。
「これはぼくの好きなものではない」
 と、ぼくは、子供心に、思った。
 小学校の校舎をはじめて見たその瞬間、なぜぼくはそれが嫌いになったのだろうか。
 どっしりと頑丈につくった、かなり威圧的な雰囲気をたたえていた校舎ぜんたいに対して、反発をおぼえたからかもしれない。
 校舎の壁面におなじ大きさの窓が規則的にずらっとならんでいるありさまに、軽いおびえのようなものを感じたからかもしれない。
 入学式のために集まってくるおなじ年齢の子供たちがそのへんにぞろぞろといるのを見て、自分もこの群れのなかにとりこまれるのかと思って、いやな気持になったからかもしれない。
 いろんな理由が、子供なりに心のなかでかさなりあい、その結果、
「これはぼくの好きなものではない」
 と、結論として感じたのだろう。
 学校というものが好きになれない状態は、この小学校入学式の日からはじまって大学の卒業式の日まで、ずっとつづいた。
 小学生の頃は、じつによく学校をさぼった。
 教室のなかに入るのがいやで、自宅を出るには出ても学校へはいかず、どこかへ遊びにいってしまうことが多かった。小学校の六年間をとおして、ぼくは、教室のなかにいた日が一〇〇日もないのではないだろうか。そのなによりの証拠に、ぼくは、人が普通に小学校で身につけたりおぼえたりすることのほとんどを、いまでも知らない。遠足や学芸会は、六年間にそれぞれ一度ずつしか体験していない。
 学校へいかずになにをしていたかというと、ようするに外で遊んでいたのだ。
 ぼくは、少年時代を、瀬戸内海に接した山陽ですごしている。いまの瀬戸内海からは想像もつかないほどにきれいな海や砂浜があった頃の山陽だ。その美しい瀬戸内海を中心に、日常生活のあらゆる現場がのんびりと牧歌的で、田舎的だった。
 子供のための遊び場は、無限にあった。
 その無限にある遊び場のなかで、ぼくは、ほとんどいつも、遊んでいた。子供にとって、遊びとは、自分が持っている想像力を最大限に発揮することだ。すくなくとも、ぼくにとっては、そうだった。遊びとは、自分をとりまいている恵まれた自然環境を相手に、想像力を武器にしてたたかうことだった。
 学校へはいかずに朝から外で存分に遊ぶと、今日この一日という時間はこんなふうにすごしてこそ真に一日と呼びうるのではないかと、充実した気持になることができた。
 そして、帰り道にふときまぐれをおこして学校によってみると、その日の最終時限のホームルームをやっていたりする。
 ホームルームのまずはじめに、先生は、紙を配る。「大人になったら私はなにになりたいか」というテーマを黒板にチョークで書き、このテーマでみじかい文章を書きなさい、と命じたりする。
 思いっきり遊んできた一日の終りに「大人になったら私はなにになりたいか」というようなテーマのアンケートにでっくわすと、なんともいえない不思議な気持になる。
 大人になること自体が充分に遠すぎるのに、なにになるか、つまりどのような職業につくか、あるいはつきたいかを問われても、こたえようがない。
 電車の運転手になりますとか、お医者さまになりますとかこたえておけばそれでいいのかもしれないが、なぜだかぼくにはそれができなかった。
 大人になることなど想像もできず、なりたいものなどなにひとつ心にうかんではこなかった。
 だからこんなアンケートにでっくわすたびに、ぼくは「海賊になりたい」と、書いていた。ごく幼い頃に観た、アメリカの娯楽映画をとおして、ぼくは海賊に対してロマンチックなあこがれを持っていたから、大人になってなにになりたいかと問われて海賊になりたいとこたえるのは、遊びのつづきのような快感だった。
 そして、その快感と同時にぼくがいつも感じていたのは、自分がなにかになることなどまずありえないだろうという、一種の確信だった。
 中学校へいくようになっても、学校はよくさぼった。高校生になっても、おなじだった。
 学校はきらいなままであり、大学へはいかないことにきめていた。当時のぼくにとって学校の勉強とは、机にむかって教科書を読んではアンダーラインを引くことだった。だから、高校を出てさらに四年間も勉強をする気になど、まったくなれなかった。
 大学受験のための準備活動も、当時はいまにくらべたらはるかに牧歌的だったが、とにかく高校の二年の後半には、進学組と就職組とに、クラス担当教師のエンマ帳のなかにおいては、分けられていた。
 ぼくは、就職組のひとりだった。なにになるつもりかと先生はきくから、ぼくは、長距離トラックのドライバーになるのです、とこたえていた。この長距離トラックのドライバーは、子供のころアンケートにあげていた海賊とまったくおなじロマンチックなあこがれでしかなかった。なりたいものは、じつは、さしあたってなにもなかったのだ。
 大学へはいかない、という決意は、しかし、高校三年の夏には、くつがえった。
 くつがえしたのは、ぼくの父親とぼく自身との、半々だった。
「おまえはまだなにもわかってないのだから、大学へいって時間かせぎをしつつ、すくなくとも自分のことくらいよくわかるようになるべきだ」
 と、ぼくの父親は、ぼくに言った。
 高校を出て明くる日から仕事につくことを現実的によく考えてみると、父親のこの意見は、正しいものに思えてきた。
 具体的にどんな仕事を考えてみても、ぼくはその仕事をやりたくないのだった。
 やりたくない、というと誤解をまねくかもしれないから言いなおすと、たとえばぼくがどんな仕事についても、ぼく自身はその仕事をとおして自分を広げ、成長させていくことはできないし、ほんとうの自分をみつけだしていくこともできないにちがいない、という確信があった、ということだ。自分がこんなあやふやな状態であるなら、自分のためにも、そしてたまたま雇ってくれる人のためにも、仕事などにつくべきではないのだ。
 なにをするにしても、とにかく自分自身のことがよくわかっていないとどうにもならないのではないか、という考え方は次第に当時のぼくなりにかたまっていき、その結果として、ぼくは大学へいくことにきめた。なんのことはない、結局はごく普通に進学組に加わることになったわけだが、大学へいこうと自分自身できめるまでには、その当時のぼくとしては精いっぱいのまわり道を体験したこともまたたしかだ。自分ではなにも考えず、まわりの状況にあわせて、ごく当然のことのように大学へむかうのとは、ほんのすこしだけだがちがっていた、と言っていい。
 四年間という自由な時間を手に入れるために大学へいくわけだから、どこの大学でなにを専攻しようとか、どの大学でなければいやだとか、あるいは、どの大学を出るとどんなふうに就職に有利だとか、そういったことはいっさい考えず、大学の名前の字面が持っている印象やイメージだけで、ぼくは自分がいく大学を選んだ。
 このへんのことはべつのところでかつて書いたから詳しくはくりかえさないが、早稲田大学の「早稲田」という三つの漢字が持っているイメージがもっとも面白かったので、ぼくは早稲田大学へいくことにした。早稲の田んぼだ。日本的なおだやかさをたたえた田園風景がイメージとしてうかんできて、ぼくは好きだった。
 ほんのわずかな受験勉強だけで、ぼくは、早稲田大学の法学部に入ることができた。
 高校での勉強はゼロに等しく、受験勉強を三か月くらいしかやらなかったことを考えると、英語、国語、世界史という三科目の問題内容の他愛ないとりくみやすさは、いわゆるまぐれというやつだろう。めぐりあわせ、偶然、まぐれ、運などによってぼくは早稲田に入ったのだと、いまでもぼくは信じている。世界史などなんの勉強もしていないのになぜ世界史を試験科目にえらんだかというと、日本史だと画数の多い複雑な漢字をたくさん書かなくてはならないが、世界史の場合は主としてカタカナで間にあうという、我ながら笑ってしまうような情ない判断にもとづいてのことだ。それに、世界史は扱う範囲が広いが、せまい範囲のなかでこまかな問題を出されるよりましだろう、という判断もあったことを、苦笑とともに思い出す。
 大学の四年間、ぼくはなんにもしなかった。
 専門の勉強など、まったく興味がなかった。自分がなになのかぜんぜんわかっていないのだから、限られた範囲の勉強に自分を押しこめるのは、それだけですでに充分な苦痛だった。
 なにもせずに、四年間をすごした。文字どおりなにもしないということはありえないわけだが、大学時代にぼくはこういうことをしてそれがとっても有意義でした、と単純明快に言えるようなことはなにひとつやらなかった。なんにもしない、ということをやりつづけた、と言うと詭弁のようになるが、無為とも有意義とも言いがたい、ごくあいまいな時間のすごし方をしたのだと思う。
 自分をみつけるという、きわめて個人的でしかもトータルな作業には、テキスト・ブックもないしマニュアルもない。いつまでにどれだけみつかる、というプランが立てられるわけでもない。
 あても目安もガイドもないまま、ばくぜんとした時間の流れのなかで自分なりの成長を待つという、悠長なやり方がひとつあるだけだ。
 そのような悠長な時間のすごし方を四年間にわたってつづけたことは、結果においてはたいそう有意義だった。しかし、現実に大学生であった時期には、こういう時間がやがて自分にどう作用するのか見当もつかなかった。
 ほんとうに自分をみつけるためには、できるだけ自分を自由にしておかなくてはならない。いろんなことをいろんなかたちで吸収できるように、自分を柔軟に保ちつづけなくてはいけない。
 だから、自分を限定することがぼくは大嫌いだった。いまでもそうだ。自分を限定する方向に動くものいっさいに対してぼくはきわめて用心深くなった。大学ですごした四年間で得た唯一のはっきりした収穫は、自分をせまく限定してかかるようなものに対する用心深さを身につけたことだと言っていい。
 自分を限定するのが嫌いだという性向は、小学生のころから、ぼくのなかに確実にあった。いちばんはじめに書いたように、入学式の日に小学校の校舎を見て、あ、これは嫌いだ、と思ったのは、学校というものがしばしば持つ限定力に対する本能的な防御の力がぼくの内部で働いたからにちがいない。自分を限定しようとするものとしての学校に対する抵抗の気持や姿勢が、小学校から大学までずっと、ぼくがぼく自身を支える力となった。
 大学の四年間が終りにちかづくと、就職というやつがぽっかりと暗い口をあけて、待ちかまえている。ぼくの同期生たちは、四年の夏休み明けには、ほとんど就職をきめていた。
 彼らが、いとも簡単に、次々に就職さきを決定させていくのを見て、ぼくは、あっけにとられていた。
 彼らがほんとうに自分自身のことをよくわかっているとは、とうてい思えない。だのに、早々と就職さき、つまり仕事をきめてしまい、そのことになんの疑いも持たずに喜々としている。彼らに対して、ぼくは非常に大きな違和感をおぼえた。就職のきまった友人たちの祝賀パーティに出ては、こんなにも早くに自分に見切りをつけてしまえるとは、この男はいったいなになのだろうかと、その友人をまるでとんでもない異星から来た人のようにながめたことを、いまでもぼくは覚えている。就職を自分に見切りをつけることと同義のこととしていまぼくが語るのは、彼らのその就職が、基本的には終身雇用制にもとづく一生に一度の出来事であったからだ。
 大学生活の終りちかくに就職さきをきめるのは、自分の一生をそこで決定してしまうことであったから、まだ自分がよくみつかっていないぼくには、就職など思いもよらない、遠い世界の出来事だった。
 だが、ぼくは、就職した。かなりおそい時期になっても就職のきまっていなかった友人が、おなじ状況のぼくに一方的に同情してくれ、とある中堅の商事会社の入社試験をうける手続きをとってくれたからだ。ぼくたちはいっしょに試験をうけ、誰のどういういたずらかきまぐれか、ぼくだけがその試験にうかった。「おまえの身代りとして俺は就職するよ」と、ぼくたちは冗談を言っていた。
 就職試験をうけてみた理由は、友人の配慮への感謝の気持と、もうひとつ、就職試験がいったいどのようなものなのか知ってみたいという好奇心とだ。
 その就職試験にうかってみると、こんどは、就職とはどういうことなのか知りたいという好奇心が頭をもたげてきた。
 だから、ぼくは、大学をおえた年の四月一日、午前八時に、会社へいった。ピカピカ新入社員の初出社、というやつだ。
 その初出社の日から三か月たつと、就職とはどういうことなのか、だいたいわかった。
 自分がなになのかよくわかっていず、したがって情熱を持ってとりくむ対象がこれといってなにもない状態の自分に、これがおまえにとって最も重要な仕事だ、と仕事が一方的にあたえられることが、三か月たつとそろそろ苦痛になってきた。いい社員とは言いがたいわけだからもう辞めるべきだと思い、七月一日に退社し、その日の午後は海へいき、砂浜に寝て空をみてすごした。
 小学生のころ、学校へはいかずによく海へいって遊んだが、自分はいまでもあのころとなんら変わってはいないのだなと感じると同時に、自分をみつける作業がいよいよ本格的にはじまったなと、スリリングな楽しさとともに強く自覚した。

(『ターザンが教えてくれた』1982年所収)

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2017年4月7日 05:30
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