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なにも言わない人(2)

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 他者との関係ごとに相手および自分の呼称を変化させつつ、自分への利益の誘導にかまけ続け、したがって現実と立場とを離れることのついにない、小さな小さな自分という人。そのような人が、日本語世界で日本語を使う、最小単位だ。社会はこの単位の集合体だから、最小単位が使う言葉とそれが作り出し得る程度のものしか、その社会は持ち得ない。

 会社に勤めて過ごす人生は、自分という人が常に収まっている専用の枠のなかに、社員という身分や位置づけの枠が、完全な同心円として重なりつつ、おたがいを特化し続けてやまない日々だ。日本に生きる自分という人にとって、このような日々はたいへんに幸せな年月だった。この場合の幸せとは、閉鎖の言い換えの一例だ。

 たいへんに幸せであったとは、出来上がった閉鎖性がもはやちょっとやそっとのものではない状態に達している、という意味だ。日本にいきわたった閉鎖性は、会社だけにとどまるものではなく、あらゆる組織とその成員が維持し続ける閉鎖性だ。この閉鎖性でなにがもっとも人を困らせるかというと、重要なことがいつまでもなにひとつ明らかになっていかない、という事実だ。

 なにしろ明らかにすらされないのだから、重要な問題にはいつまでたっても手はつけらないままとなる。すべての重要問題は、なんら解決されないまま、解決への模索すらされずに、先へと送られる。時間のみが無為に経過していく。時間はただ経過していくのでない。現在では特にそうだが、時間の経過には状況の急変がともなう。状況は急変し続けるのに、日本では重要問題は解決されないままとなる。

 言葉がまっとうに機能していれば、閉鎖性の反対である公開性などは、無理なく現実のものとなるはずだ。日本の閉鎖性は、言葉がまっとうに機能していなかったからこそ、生まれてきた性質のものだ。幸せすぎた日々を五十数年にわたって過ごしてきた人々の言葉は、まともには機能しない種類の言葉だった。言葉というものに思いきり負荷のかかる、外国相手の政治や実業の最前線で、日本の当事者たちはいまこの事実を痛感している。

 公開性の欠如は致命的だ。自分たちにとって最高の目標はなになのか、そしてそれを実現させていくにあたって、自分たちはなにをどのように運営していくのか。理念、ルール、方針、ありかた、活動のしかたなど、誰にでも明確に理解出来て誤解の余地のない、明示的な言葉で常に最大限に公開しておくという重要なことに関して、日本の会社や官庁などの組織は、いっさいなんの関心も示すことなく、ここまできた。それが致命的だ、と僕は思う。

 公開性を高く保つと、公開された情報をもとに、自分たちが批判されたり攻撃されたりするようになる、といった認識が特に官僚組織のなかに、強固にあるようだ。自分たちを守るためにはすべてを隠蔽しておくにかぎる、というわけだ。自分があくまでも自分の枠のなかにとどまり、そのなかから外を見るから、こういうことになる。それに隠蔽という方針は、自分たちを守る方針としては、悲劇的に見当違いなものだ。

 自分たちの方針や考えかたを、具体的で明示的な言葉で書きあらわし、それを社会に向けて常に公開しておくと、その公開性の方針や言葉は、関係者全員にとっての基本的なルールの枠組みとして機能する。理想的なまでに機能するなら、単なる基本的なルールの枠組みを越えて、倫理上の規範としてすら、それは機能する。

 会社としての目標や考えかた、営利行動のとりかたなど、すべてが社会から支持されている状態を維持するためには、自分たちの目標や行動のしかたなどを、明晰な言葉にして常に公開しておく作業以外に、あり得ない。公開性によって社会から支持を取りつけることをとおして、ひとつの会社組織は社会のなかへ開けていく。社会から支持されること、つまり公共性という価値を持つことは、会社組織や官僚組織にとって、もっとも重要な財産だ。日本の会社組織や官僚組織は、このもっとも重要な財産を、最優先して重点的に無視してきた。気づきもしなかった、というのが本当のところだろう。

 言葉によって常に明示されている方針やありかたを経路として、組織は社会の公共財となる。常にはっきりさせてある自分たちの方針やありかたなどは、すでに書いたとおり、基本的なルールの枠組みだ。その組織の成員たちは、その枠組みに沿って、発言や行動をすればいい。明らかにされている方針に沿って、誰もが常に明確な発言と行動をすることが出来る。組織のなかでの仕事のために、どの成員も持つべき発言や行動の自由範囲が、こうして確保される。

 自分たちのありかたや方針、目標、その実現のしかたなどに関して、明確な言葉がなにひとつない状態は、成員たちがその組織内部で守るべきルールが、明示されていない状態だ。そしてその状態は公開もされていないのだから、社会との経路はほぼ完全に遮断されている。日本を引き受けた会社群は、こうした閉鎖性を張りめぐらせ、その内部で利己的な動機のみにもとづいて行動し、社会ぜんたいとはなんの関係も持とうとはしなかった。

 自分たちの営利活動を律する明確な言葉はどこにもなく、公開性も皆無という状態は、企業利益のためにはどのような社会的ルールも破れるものなら破る、という構えにほかならない。会社のためならなんでもあり、という方針だ。そしてそこでは、裏ルールによる遂行が、大きな実体となっていく。

 裏ルールによる遂行は一部の人たちがやること、などとしばしば言われる。遂行者は多くの場合、上層部だ。そして上層部は多数ではない。だから彼らは一部なのだ、という論があるとしたら、それは正しくない。ほかの人たちはどうしているかというと、まったく知らない人もいるかもしれないが、多くの人たちは薄々は知っていたり、なんとなく感じていたりする。かなり正確に実態を知っている人も多い。

 裏ルールに反対するための正当な発言の場や言葉はないし、自らの保身を考えると、見て見ぬふりをしてなにも言わずにいるというかたちで、彼ら全員が裏ルールへの加担を引き受けることになる。こうして裏ルールが定着した組織のなかでは、裏ルールで取り仕切られている部分が社内を侵食し、閉塞感を作り出す。

 会社組織や官僚組織における裏ルールの存在は、社会に対する犯罪行為だ。社会システムの運営にとって財産となるべき組織が、犯罪の現場となっていく。社会にとってこれを上まわる損失はないし、そのような現場は社会を劣化させていく。このような犯罪が国家ぐるみでおこなわれる次元にまで到達したのが、現在の日本だ。

 明快な言葉による公開性や明示性の欠如は、その組織が内部だけで完結している事実を、明白に語っている。外のすべてに向けて自分を説明するための言葉を、その組織は持っていない。すべては内部だけでまかなわれる内向きな状態のいきつく先が、裏ルールによる取り仕切りだ。

 戦後の日本が国内で向かった地点は、じつはここだった。自民党政権は裏ルールそのものにまで到達し、その政権をコントロールしてきたはずのアメリカも、コントロールのための策をとおして、日本の裏ルールに巻き込まれた。日本に対してアメリカがさまざまに迫る改革は、アメリカが日本の裏ルールから抜け出そうとする試みだ。

 いまの日本が裏ルールの国であることを、世界じゅうがとっくに知っている。日本は本音と建前の国と、日本人は言う。本音と建前とはもう言わずに、裏ルールの国とはっきり言えばいい。建前を無視してこそ本音が成立していくのだから、本音とは裏ルール以外のなにものでもない。

日本にとって基幹産業のひとつであるとまで言われている大企業で、いま実際に起こっていることは、会社が閉鎖系であり続けるとやがてどうなるかを誰の目にもよく見えるように示していて、たいへん興味深い。

 全国各地の工場、系列、販売ディーラーなど、関連するすべてをひっくるめて、その企業はひとつの閉鎖系であることが、業績の低迷をとおして明らかになっていった。技術力はたいへんなものだから、次々に製品を開発して売り出すのだが、売り上げはともなわないという事態が、何期も連続していく。

 なんとかしなくてはいけないのだから、内部の人たちは生産システムの改革に手をつけ始める。そのひとつに、生産コストを下げるという、誰もが考える経路がある。どうすればそのコストが下がるか。膨大な種類の部品を作って納入している系列という、膨大なシステムが改革の対象となる。

 この系列という場は、その企業本体の定年退職者たちの天下り先であるというような現実も含めて、これまで長く関係の続いてきた取り引き先だった。すべての系列に対して、コストを下げることを企業本体は要求する。あるところまでコストは下がる。しかしそれ以上にはならない。それ以上に系列のコストを下げるには、これまでずっと変化なしに続いてきた系列というしがらみの場を、いったん完全な白紙に戻し、システムぜんたいを抜本的に作り換えなければならないことが、明らかになっていく。

 しかし、系列という場は、企業本体の内部に深く取り込まれた閉鎖系として、あらゆる種類のしがらみで固められている。それゆえに、なんとか改革したくとも、手のつけようがない。改革したくとも手のつけようがないほどにしがらみで固められた系列という閉鎖系は、売り上げの低迷に関して誰も責任を取らなくていいシステムが、長い年月をかけて完成しているというもうひとつの閉鎖系と、密接につながっている。

 場のなかにしがらみがあまりにも多すぎ、そのしがらみのなかにいる我々ではどうすることも出来ませんので、しがらみと無関係な外国のかたに来ていただいて、改革のすべてをお願いすることにしましたと、その企業の社長がまるでお天気を話題にするかのような気楽さで、外部に語る。低迷する企業を立ち直らせることに定評のある外国人が三人ほど日本へ来て、陣頭に立って改革を進めているというような異常事態が現実にある。本質的にはこれとおなじ例が、いまの日本には際限なくあるのではないか。(完/全2回)

(『日本語で生きるとは』1999年所収)

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1999年 『日本語で生きるとは』 戦後 日本 日本語 社会 言葉
2017年3月25日 05:30
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