アイキャッチ画像

なにも言わない人(1)

LinkedIn にシェア
LINEで送る
Pocket

 戦後の日本人にとって、人生とは会社に勤めることだったようだ。なんらかの会社組織に雇用されてそこに所属し、仕事をして給料をもらい、なおかつ生活のほぼ全領域を会社に依存させること、これが戦後の日本人の人生だった。どこからも文句は出ないという意味では、非常にしばしば、それは立派な人生でもあった。

 そして戦後の日本とは、規格製品を大量に生産して販売する経済活動であったことは、すでに誰にとっても明らかだ。日本に林立した会社群がそのような経済活動を直接に担い、国家は強力に会社群を保護した。日本株式会社と外国から言われ、自らもそう言った。

 日本の首相はトランジスターのセールスマンのようだ、と言われたことがあった。経済以外のことについて、語るべき内容を首相は持っていなかったのだろう。経済活動も首相のセールスマンぶりも、そのことじたいは、悪いことでも変なことでもない。どこの国も国益の中心は経済にあるのだし、アメリカの大統領たちはおしなべて優秀なセールスマンだ。

 会社に勤めるまでの準備期間は、家庭を中心に、学校という集団の内部で、費やされる。社会生活を営むかぎり、人はいくつもの集団や組織に、参加しないわけにはいかない。戦後の日本を会社が支え、会社は日本、日本は会社、というほどまでになったから、会社が人の人生におよぼす影響は、たいへんに大きい。会社に勤めるようになるまでの準備期間に対しても、集団というものが発揮する規範力は強固だ。

 会社という組織は、性質も内容も、はっきりときまっている。世のなかの誰にとっても、ほとんどの場合、社名をひと目見ただけで、その会社の性質や内容の基本がすべてわかるほどに、はっきりしている。社名を見ただけで内容を理解してもらえると同時に、会社は日本社会というシステムを支え動かしていく強力な枠組みだから、会社はひとまず全面的に認知され肯定される。

 会社組織は、その外に対しては、ただ社名を示すだけでいい。自分たちがどんなことを目的とするどのような存在であるのか、社名を示すだけでわかってもらえる。どうしても必要になるまでは、自分たちについての説明など、いっさい必要ではない。

 会社組織の成員たちは、社員以外の存在である必要はない。社員であることがどの成員にとってもすべてであり、社員であるなら明らかにその組織内部の人だから、外の世界とは画然と区別された組織の人として生きる。組織の性質やありかたは、内部においても明確だ。したがって成員たちが、あらためて自前で考えなければならないことは、なにひとつない。

 自分の頭ではなにも考えず、すべてを会社に預けきった人生というものが、戦後の日本で確立された。これこそ自分だ、こうあってこそそれは自分の生活だ、と誰に対してでも主張出来るような生活は、そこにはない。基本中の基本がみごとに欠落した、およそ信じられないような生活を、社会ぜんたいの標準として、会社立国の戦後が作り出した。自分の頭ではなにも考えない生活で最後にたどり着くのは、強制されるものすべてを誰もが一様に耐え続ける、という状態だ。

 会社が国を支え、国は会社となり、社会は会社のなかにのみ込まれ、社会は会社のなかにこそあるものとなった。自分の勤める会社を中心に社会があり、その会社の内部を基準に、人はものを考え判断を下していくこととなった。会社がすべてであり、会社の外にはなにもない。これは比喩でも概念でもなく、現実のことだ。

 会社にとってもっとも重要な主題は、より大きな営利を追求することだ。自分のところの稼ぎや儲けにならないもの、つまりその社の営業品目以外のものは、この世に存在しないも同然の扱いを受ける。社会はそのような性質の会社にのみ込まれ、会社にまかなえることが社会のすべてである、ということになった。あらゆることが会社単位でおこなわれ、そのことが生み出す力が頂点に達したとき、戦後の日本もひとまず頂上をきわめた。しかし会社というものは、じつはたいへんに脆い存在だ。社会を引き受ける力など、どんな会社にもない。あらゆることが会社単位でしかおこなわれない日本とは、信じられないほどに脆弱な国としての一面を、強く持っている。

 会社のなかでは、誰も自前ではなにも考えなくてもいい。組織ぜんたいとして方針はきまっていき、そのごく一端が、自分のところへ降りてくる。たとえ会社という組織に雇用されている人とはいえ、ひとりの個人がなにも考えなくてもいいという状態は、どのような結果へとつながることなのか。自前で考えない人には責任が発生しないから、誰もが責任の主体とならなくてもいい、という結果につながる。

 日本人がもっとも嫌うのは、自分の所属する組織内で、責任の所在が明らかにされることだ。責任が多少とも自分におよびそうなときには特に、責任の回避策に全力が注がれる。組織や集団の成員でありたいと願ってそうあり続けることが、日本人の集団主義と呼ばれる場合がしばしばある。問題の本質を直視している言葉ではないから、集団主義という言いかたにはなんの意味もない。正しくは、日本人の責任回避主義、と呼ばなくてはいけない。

 日本語で生きる我々に関する結論のひとつは、我々は責任が明確にならない社会システムのなかに生きている、という事実だ。あらゆることが会社単位でしかおこなわれない日本は、いったんなにかあれば信じられないほどに脆弱な国だと、さきほど僕は書いた。勢いでそう書いたのではないし、そんなふうに書くのが僕の好みでもない。直視するのをもはやどう回避することも不可能な、あらわすぎるほどにあらわな現実だ。

 たとえば日本の初等そして中等教育の基本方針は、なにがなんでも強力な画一性をつらぬきとおす、という方針だ。日本語の出来ない外国の子供が、ある日のこと、いっさいなにごともなく、日本の学校に入学するという程度のことが、日本ではいまも厳然たる不可能事だ。そのような事態に、柔軟に適切に対応するシステムが、いっさいない。画一性の死守という方針にとって、そのようなものは必要ないからだ。

 日本語の出来ない子供がクラスにひとりでもいることに対して、日本という社会システムはどのように対応するか。そのような子供がクラスのなかにいると、先生の授業の進めかたに重大な差し障りとなるし、ほかの生徒たち全員の学習にとって深刻な障害となる、という対応をする。その子供がひとりそこにいることによって、ぜんたいの画一性が保てなくなる、というわけだ。

 だからそのような子供が日本の学校に入ることは、現実の問題としてまず不可能だし、異常と言っていいほどの特例で入れたとしても、たちまち脱落していくほかない。確立されて久しい画一性による、画一ではない存在を排除する力は、すさまじく強い。日本人以外は日本に長く住めない。だから異質なものが入ってこない。同質に揃ったものが、画一性で縛り続けられる。企業群がそのように均一に揃った人材を要請したから、国はシステムとしてそれに応えた。

 固い画一性に託された強制力は、大学へ進学する人たち全員に、非常に多くの場合、十八歳という人生の初期段階で、大学での専攻を学部だけではなく学科まで決定させる。人生の全領域にわたって、このような固い枠がはまっている。そのような人生が、なににおいてもっとも貧困であるか、言うまでもない。文化というソフトウエアにおいて、決定的に、絶望的に、貧困なのだ。

 日本語は自己を他者に対して説明する場面で非常に弱い言語である、というセンテンスを僕はどこかで読み、いまも記憶している。そのとおりだと思いつつ、僕なりに注釈を加えたい。まず他者だが、明確につきつめられたかたちと内容での他者という人は、いま僕が書いているような日本語世界には、存在していない。身内、仲間、同僚、おなじ会社の社員、うちの人間など、同一の組織や集団の成員どうしという、あらかじめわかり合っている者たちが作る輪の外に、他者のすべてがいる。他者とは自分たちとは関係のないよその人たちすべてという、漠然とした存在以外の何者でもない。

 おなじことが自己についても言える。つきつめられつくした結果の、なににも依存することのない、完全に自分ひとりの絶対自己のような存在は、どこにもない。いまはこの組織の成員のひとりである自分というものが、ぼんやりと存在するだけだ。そしてそのような自分については、おなじ組織に属する全員にとっての前提として、すでにみんなが知っている。自己を説明する必要など、どこにもない。だから自己は、いつまでたっても、つきつめられることはない。

 他者が存在せず自己もろくになく、したがって自己を説明する必要など、どこにも発生しない。だからそのための言葉も、そこにはない。しかし日本語は、自己すら説明出来ないような言語ではない。どこまでも明確にくっきりと、日本語でなにごとも説明することが出来る。日本語のそのような使いかたを、日本の社会システムが、必要としていないだけだ。

 日本語世界での自分と他者との関係でもっとも特徴的なことは、他者ごとに、つまり他者との関係の場ごとに、自分および他者の呼称が変化してやまない、という事実だ。きわめて平凡な日常を営むだけとはいえ、その営みの主体である自分という人をめぐって、さまざまな人たちとの関係が生まれる。それらの関係の、どのひとつひとつにも正しく呼応して、相手および自分の呼称を、自分という人は変化させ続ける。それが出来ないことには、その人はまともな人としては、社会から認めてもらえない。

 社会のなかでの他者との関係は、このようなとらえかたによると、すべての関係はなんらかの上下関係だ、ということになる。直接に金銭や利害がからむ場合には、上下関係はまさに抜き差しならない利害の関係であり、直接にはあるいは少なくとも当面は利害が発生しないときでも、すべての上下関係は、自分という人にとって、利害関係の潜在的な発生源だ。

 そのような関係のなかで、自分の立場をなんらかのかたちで有利にするために、自分にとっての利益を誘導し確保するために、相手との関係の内容や質に応じて、相手および自分の呼称を、自分という人はさまざまに変化させる。その変化のひとつひとつに、自分という人は、自分を合わせなくてはいけない。自分とは利害関係のなかのひとつの立場であり、立場が変化すれば自分も変わる。自分と他者との呼称のありかたという、もっとも基本的なところで、日本語はおそろしいまでに現実の都合のひとつひとつを優先させている。

 相手との関係ごとに、それぞれの関係のなかでの自分の立場に合わせて、自分という人は思考し発言する。現実的な立場あっての自分であり、思考や発言などすべては、立場の上に立ってなされる。そして自分の立場は、相手との関係ごとに変化する。どこの誰でもない、完全に自分だけの、ひとりきりのこの自分、という種類の自分は存在しない。他者と作る関係ごとに、その関係のなかでの自分から見た利害の立場に立つ自分、というものがあるだけだ。

 いくつも重なりながら生まれては消え、消えては生まれていく上下関係や利害関係から、自分という人はいつまでも自由になれない。自分という人は関係という現実を離れることが出来ない。自分はひとつひとつの関係のなかすべてに、常に閉じ込められている。そのような自分という人は、なんと決定的に小さな存在であることか。

→「2」につづく(全2回)

(『日本語で生きるとは』1999年所収)

関連エッセイ

1月9日 |対話をしない人


3月16日 |豆腐屋はいまもまだある


7月11日 |噓と隠蔽の国


10月19日 |日本語は室内用の私的な言葉だ。男と女のとりとめのない会話から始まる、思いがけないこと


11月3日 |「不断の努力によって」


12月30日 |日本語で生きるとは


1999年 『日本語で生きるとは』 サラリーマン 会社 会社員 戦後 日本 日本語 言葉
2017年3月24日 05:30
サポータ募集中