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なにもしなかった4年間(2)

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 きっとそうだ、といまの僕は思う。なにのために僕はそんなことをしたのか。自覚はまったくしていなかった。だから、なにのために、というようなことは、考えてもみなかったはずだ。なにのためでもなく、ほとんどいっさいの自覚なしに、自分の気質という逆らえない傾向に忠実に、無為ということを僕は四年にわたって熱心に続けた。

 なにもしなくて退屈しませんでしたか、なにかしたくなりませんでしたか、という質問があるなら、退屈はしなかった、したがってなにかしたくなるような気持ちになることはいっさいなかったと僕は答える。

 満を持して静かにしていた、というような言いかたはまったく当たらない。いまは充電のとき、などという奇妙な考えかたは、昔はなかった。観察に徹しようとしていたのでもない。僕は自分自身を蒸留していたという言いかたは、比喩として有効なだけではなく、核心に当たっているかもしれない、といまの僕は思う。

 僕のなかにフラスコがひとつある。なにもしないことによって、僕はそのフラスコを空っぽのままに保とうとする。なにもしないでいればいるほど、僕は蒸留される。そしてあるとき、一年に一滴と言っておこうか、蒸留された僕が、そのフラスコの内側のガラス面に、にじみ出る。四年間で四滴の蒸留された自分を、僕はそのようにして手に入れた。

 四滴の蒸留された自分がどうなるのか、それがいったいなにの役に立つのか、それはなにほどのものなのか、というような質問には答えようがない。答えを知りたいのは、まず誰よりも先に僕自身ではないか。もし答えがあるのなら。

 まったくの無為の日々というものが、あり得るのかどうか。なにもしなかった大学生としての四年間は、僕にとってはけっして無為ではなかった。それどころか、なんの義務も責任もともなわないこの空白の四年間によって、僕は助かった。

 この四年間がなかったなら、高卒の少年はおそらくどこかに就職して、なにかの仕事をしただろう。いきなり大人の世界に投げこまれ、そこで最末端の位置につき、どこへも逃げ場のないままに、我慢や辛抱の日々を送らなくてはいけなかったはずだ。よほど気にいってしかも熱中出来るような仕事が見つからないかぎり、そこで僕は遠からずなんらかの失敗をし、それによってひとまずそこから脱落したに違いない。

 高校生という時期を終わった僕を、そこから先に向けてさらに四年間、無風の空白のなかに置いてくれたのは、おかねだった。おかねを払って大学生としての日々を買うと、ひとまず四年間、つけ加えもしなければ差し引きもしないかたちで、僕は僕のままに過ごすことが出来た。

 その四年間でなにがどうなったわけでもない。おぼろげながら方向が見えてきた、というようなことは皆無だったし、身につけたものはなにもなく、勉強の蓄積もなければ専攻した領域の専門知識があるわけでもなかった。ないないづくしのまま四年が経過し、僕は卒業することになった。

 大学生だった頃にはまったく気づいていなかったが、いま思い起こすとはっきり言えるのは、次のようなことだ。なにも予定はなく、したがってさしあたってなにをしなければならないというわけではなく、なにをするでもない、特になにをしたいわけでもない空白のような時間が、子供の頃から僕にはたいそう多かった、ということだ。

 なにも出来ないぼんやりとした役立たずの子供だったのですか、という問いがもしあるなら、いいえ、そうではありませんでしたと僕は答えたい。子供の頃の僕は、子供の通例を越えて、役に立つ子供だった。なにか具体的な用事があれば、ひとりで段取りを考えてこなしていくのだが、なにもなければ、その時間は空白のまま僕ひとりの自由時間であり、そのような時間が小学生の頃からすでに、僕には多かった。学校へいかないでいると、ほとんどの時間がこういう時間となる。誰もが一様に大量の時間をさいていることを、自分だけしないでいると、その大量の時間は自分だけの自由時間となる。

 そうとは気づかないまま、無理することなくいつのまにか、僕は自分でそのような時間を多くしていたのだろう。初めのうちは隊列のなかに身を置いていても、少しずつ体を斜めにしながら隊列から自分をはずしていき、いつのまにか抜け出していたということだ。出たところには、自由なスペースと時間が、常にあった。

 子供の頃からすでに僕が持っていたこのような傾向は、その後も少しずつかたちを変えながら、継続していった。高校を卒業する時期になっても、これと言って好きなことも出来ることもないという空白のような状態は、子供の頃に多く作り出していた自由時間の、延長線上に位置するものだ。なにもしなかった大学での四年間にも、それはそのままつながっているし、そこからさらに、現在の僕にもつながっている。

 いまの僕はどのような人かというと、予定がぎっちりと詰まっているのが大嫌いである、という人だ。予定を作ることじたい、そもそも好きではない。しかし社会生活に予定はつきものだ。だから予定の内容を、可能なかぎり単純なものにしておくよう、僕はかなり努力しているのではないか。来週の木曜日の夕方に会いましょう、そして仕事の話をしたあと夕食ですね、という程度の単純さだ。このような予定が週にひとつあれば充分だ。ふたつあると、嫌だな、 と僕は思う。三つあると決定的に不愉快だ。予定がぎっしりと詰まっている日々は、人生にとって最悪の事態だ、と僕は思っている。

 空白の自由時間のなかで、本当はなにもしないのではない。なにかをしているはずだ。非常に多くの場合ひとりで、なにごとかに熱中しているのではないか。縦のものを横にするというような、はっきりと輪郭のある具体的なことではなく、なにかきわめて不定型なこと、かたちには残らないし、それゆえに当人の記憶にもとどまらず、多くは簡単に忘れてしまうようなことに、僕は夢中になっているのではないか。大学の四年間は、ごく若い時期における、このような過ごしかたの典型だったのではないか。

完[全2回]

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

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2000年 『坊やはこうして作家になる』 大学 学校 時間
2017年3月19日 05:30
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