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なにもしなかった4年間(1)

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 高等学校の三年生という状態が終わりに近づくにつれて、卒業出来るのかどうかの問題が、僕の前に立ちあらわれてきた。このこととその顛末については、すでに書いた。卒業できるかどうかの問題をかたわらに置くと、つまり卒業は出来ると仮定して、そのあとどうするのかという問題が、入れ替わりにあらわれた。ちょうどその頃、クラス分けはそのまま、卒業後の身のふりかたによって、就職組と進学組とのふたつに、分けられた。おまえはどっちだ、と友人たちは言った。どちらだろうか、と僕は思った。

 就職という言葉に、実感はまるでなかった。就職したらどこかでなにかの仕事を毎日するのだ、という程度のことはさすがにわかるけれど、わかったからと言っていっこうに切実にはならなかった。ほんとにそうなるのだろうか、という思いのほうが強かったのではないか。

 おまえは毎日どこでなにの仕事をして働きたいのかと自分に訊くと、その質問には答えられない自分と向き合わなくてはならなかった。働きたくない、というのではない。働くとして、自分に出来ることがあるのか、それとも、ないのか。まずこの問いに、自分は答えなくてはいけないのだ。

 就職して働くとして、というような条件つきではなく、まず自分そのものの問題として、これなら自分は出来ます、と人に言えるようなものを持っているのかどうか。そういうものはなにもありません、と答えるほかない少年が、その頃の僕だった。

 出来る出来ないもひとまず置くとして、なにかたいへんに好きなことはあるのかどうか。時間がたつのも忘れて熱中出来るようなこと。そういうものを持っているのかどうか。この問いに対しても、なにひとつありませんという答えだけを、当時の僕は持っていた。出来ることはなにもない。これと言って好きなこともない。十七歳の少年の、ごく平均的な姿かとも思うが、少しでもいいからなにかあってもよさそうなものなのに、僕には本当になにもなかった。

 そんな少年でも、高校を卒業して就職したなら、なにか仕事をして働かなくてはいけない。なにをして働くのか、その「なに」が、まだまるっきり見つかっていない。見つからないままに、たまたま学校に求人のあったどこかに就職するとして、そこでなにをするのか。なにかの会社の内部にすでにとっくに出来上がっているルーティーンの末端に身を置くことになるのだが、それでいいのかどうか。ひとつの問いに答えようとすると、たちまち別な問いにいき当たってしまう。

 高校三年の秋に就職組に身を置くのは、大学の入学試験のための勉強を、その日からいっさいしなくてもいい状態となる、ということだったようだ。少なくとも当人たちにとっては、そうだった。十七歳の秋に早々とそうなるのも、どこか寂しいような気がした。東大をめざして猛勉強をしたいというわけではないけれど、勉強はまだ続けるつもりという状態から、自分がここで完全に切れてしまうのは心残りのようでもある、と僕は思った。勉強するもしないも、まだ勉強らしい勉強はなにひとつしたことのない、十七歳の少年はそう思った。

 だから僕は進学組に入ることにした。友人の誰もが笑った。入りたい大学は、これと言ってなかった。大学でなにを勉強するのか、見当すらつかなかった。とにかく進学組のひとりとなり、当時のきわめて牧歌的な進学指導にしたがって、入試の勉強をする気持ちに、さあ、なるぞ、もうじきなるぞ、などと思っているうちに、冬は進行していった。

 試験科目には数学がなく、英語、国語、社会の三科目だけ、そしてその三科目の得点合計で合否がきまる私立大学を受験するほかに、僕の進む道はないことをほどなく僕は知った。三科目なら受かるかもしれない、と僕は思った。受かるかもしれないとは、落ちるかもしれないであり、五分と五分で差し引きはゼロだ。

 そのゼロのまま、冬は急速に進んでいき、次の年となった。いくつかの私大に入学願書を提出したはずだ。いろんな大学の入学試験の日時を大きく書き出した紙が壁いちめんに貼ってある教室で、担任の先生が僕の受験する大学を選んでくれた。こいつならこんなところだろう、という見当をつける役は担任が最適任である、ということだ。

 僕は入試に受かってしまった。最初に受けたところにまず合格し、駄目でもともとだからと担任が勧めてくれた二番目の大学にも、合格した。駄目でもともとと言われただけあって、その大学は僕が受験を予定していたいくつかの大学のなかでは、受かると一般的にはもっとも喜ばしい大学だった。だから僕はその大学へいくことにした。学部は法学部だった。試験の日がほかと重ならないようにやりくりすると、その学部しか受験することが出来なかったからだ。

 その年のその私大の、特に法学部の試験問題は、異例と言っていいほどに答えやすいものばかりだった。新聞の記事になり、ちょっとした社会問題へと発展しそうになった、という記憶があるが確かではない。入試の倍率の高さと、校歌の歌詞の文芸的な香りだけが当時は自慢のその私大に、僕はかようことになった。

 大学の四年間できみはなにをしたのか、とあらたまって訊かれたら、僕はなにもしませんでした、という答えがもっとも正確だ。朝、目を覚ましたら起き上がって洗面室へいき、顔を洗って朝食を食べ、歯を磨いて服を着て、電車に乗って大学へいく、というようなルーティーンはこなすけれど、四年間という時間を使ってなにかをしましたかと訊かれたなら、なにもしませんでした、と僕は答える。

 十七歳のとき、これと言ってなにも出来ないし、熱中したり没頭したりする対象もなかった事実と、まっすぐにつながっている答えだ。大学に入ったから急になにかを始めるとか、いきなりなにかを好きになるということは、人によってはあり得るが、僕の場合にはそのようなことはなかった。より正確に言うなら、そんなことが自分にあってはいけなかった、と言うべきだ。

 ごく平凡に漫然と、大学生の僕は四年間を過ごした。いま振り返ってひとまず結論づけると、四年間なにもしなかったという状態は、じつはそれこそ僕なのだ、と断言出来る状態だ。このようなありかたこそ自分自身だ、と言いきることの出来る幸福な状態で、僕は四年間を過ごした。モラトリアムと呼ぶならそう呼んでもいい。モラトリアムのはしりだろう。

 自分がじつはそれほどまでに幸福であるとは、そのときは自覚するまでにいたらなかったが、大学生の僕はなにもせず、なにをする必要もなかった。あの私大では勉強すらしなくてよかった。卒論はなく、習得単位数のつじつまを合わせ、試験には適当な点数を取っておけば、それだけで誰もが卒業出来た。でも卒業出来たのだから少しは勉強したのでしょう、という言いかたは正しくない。卒業するという程度では、とうてい勉強とは言いがたい。朝起きたら顔を洗い、食事のあとは歯を磨くというようなことと、まったく同類のルーティーンでしかない。

 なにしろ学生の数が多いから、大学側が学生たちに対して、ああしろこうしろとうるさく言うことは、それじたいが不可能だった。だからなにかを強制されることは皆無であり、結果としてほぼ完全なほったらかしだった。そしてそれが、少なくとも僕にとっては、それ以上の状態はあり得ないほどに、最適の状況だった。

 なにもせずに四年間を過ごしてただ卒業していくだけなら、ほかのどの大学でもよさそうなものだが、なにもしなくてもいいということにおいて、ほかのどの大学もあの大学ほどには、完璧ではなかったのではないか。この意味において、そしてこの意味のみにおいて、あの大学は僕の母校だ。

 空白と言えばいいか、それとも自由と呼べばいいのか、本当に迷うほどに幸福な四年間を、僕は奮闘して獲得したのではない。しょうがないからおまえにやるよ、とあたえてもらったのでもない。学資という代金を僕は大学に支払ったから、あの四年間はおかねで買ったのだ、と僕は思っている。戦後の日本はあらゆることを経済原理に転換して突き進んだ。僕が大学生だったときすでに、僕ですら四年もの空白を買えるほどに、日本は経済の国になっていた。買えてよかったねと言うほかないが、学資は僕に対する貸し付けとして親が立て替えたから、卒業後の何年間かで、僕はそれを完済した。

 なにもしなかった、という言いかたを逆の方向から言い換えると、なにもしないということを集中しておこなった、となる。詭弁のようだが、そうでもない。なにもしないという無為の状態を維持することに関して、僕はことのほか熱心だったのではないか。十八、十九、二十歳の頃の僕がもっとも熱心になったのは、このことをめぐってではなかったか。

→(2)[全2回]

底本:『坊やはこうして作家になる』水魚書房 2000年

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2000年 『坊やはこうして作家になる』 学校 高校生
2017年3月18日 05:30
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